アラブ問題の阿部です。
いま、このメーリングリストで論じられているこの問題、時々横から斜め読みしていたのですが、今振り返って皆さんの議論を読み直してみて、重要な論点が浮き彫りにされつつあることに気付きました。
総選挙で、憲法擁護派が大幅に退潮してしまった現在、日本がまた愚かな戦争への道を辿るのをなんとしても食い止めるためにも徹底的に論じあう必要があると思っています。
これまでの皆さんの意見を引用しながら論じるべきと思いますが、十分な時間がないのと、煩わしくなりそうなので、いくつかのポイントのうち「護憲」というキーワードについて、小生なりのかねてから考えを述べます。
「護憲」について、
前に断片的に書いたことがありますが、この言葉はあまり建設的、前進的ではありません。むしろ自らがいつも受動的、非活動的であることを印象づける言葉です。
池田さんが書いていたように、「山が動く」とか「だめなものはだめ」「がんこに護憲」と言う言葉を聞くときに護憲の党首としてねばり強さに感服はするものの、じゃあ、具体的になにをすると言うのか、これでは、各論のない総論どころか、総論すらもないキッチフレーズばかりではないかと言いたくなるようなビジョンの貧困さに失望を禁じ得ませんでした。正直いって小生は日本社会党時代が懐かしい。
結論を言えば「活憲」つまり「憲法をもっと積極的にいかすべき」と言うことです。
小生は、戦後の日本の革新運動の歴史は、いつも反動的勢力の攻勢を受け、それを必死に防戦してきた受け身の歴史ではなかったかと思っています。
1945年の夏、終戦直後、焼け野が原に立った時、殆どの日本人の胸に去来したのは、「ああ、もう2度とこんな悲惨な戦争なんかするものか。これからの日本はたとえ、3等国、4等国でもいい。平和国家、文化国家としての道を歩まねばならない」との思いだったのではないでしょうか。
そして、翌年、平和憲法が制定された時、(最初はその素晴らしさがすぐに実感できなかったのですが)「如何に立派に死ぬべきか」などを考え続けされていた、今の高校生だった戦時中とは逆に、これからは世界平和のため、一人の日本人として働くのだという希望で胸をふくらませました。
日本のためにとか、世界のためにという発想がでてきたのは、戦時中に若い命を捧げてもやむを得ないと信じていた『大東亜共栄圏』の実体が『アジアの解放』ではなく、『アジアへの侵略』であったことを知らされ、その悔しさの裏がえしでした。そして大分気障に聞こえるかもしれませんが、あの戦争で死んでいった先輩のたちの無念の思いを無に帰してしまいたくなかったのです。
そして、社会のために働くという思想の下地は、あと2年以内に戦塲に狩り出される運命が待っている。その死ぬまでの2年間を級友とともに『一日岩波文庫一册以上読破主義』というグループを軍需工場の中でつくり、蚕が桑の葉をかじるように、時間さえ見つかれば、いつも作業服のポケットに忍ばせていた岩波文庫、新潮文庫を読み漁りました。5つ年長の従姉妹が貸してくれた『日本シネマ』という大型の雑誌で、日本の名作映画の知識も蓄えることが出来、夜勤のときにはハーモニカの伴奏で明治大正昭和初期の名作などを級友と歌いあいました。とにかく文化に餓えていたのです。
つまり、こうした小さな読書グループの中で、小生は、憲法を素直に受け入れる下地としての日本の文化、とりわけ、明治の自由民権運動、大正デモクラシーの中身の理解を深めていったのだと思っています。それにしても軍国主義の最中に新渡戸稲造博士の愛弟子で自由思想の故に教壇を追われた河合栄治郎東大教授編の『学生叢書』が良く発禁にならずに残っていたと感謝しています。それらの本は殆ど古典で、現代文化でも、社会科学的なものはもちろんなく、文学もしくは文芸評論でした。この叢書の『学生と読書』が読書の指針でした。この指針のお陰で日本人として、国際社会につくすための知的栄養分を吸収できたのでした。
だから「平和憲法」が「押し付けられた憲法」という感じは少しも抱きませんでした。確かに、日本の軍部を武力で倒したのはアメリカの軍事力ではあったけれど、日本にもこうした憲法を制定できる下地は江戸時代末期から、国民の間に脈々と受け継がれてきたのだと信じています。
その証拠に、世界の教育憲法といっていい、あの素晴らしい教育基本法が、安倍能成委員長、南原繁副委員長を中心とする教育刷新委員会と言う日本人教育者自身の手によって造られたことを誇りにすべきです。そしてこの刷新委員会の中核の位置にあったのが、新渡戸稲造博士の愛(まな)弟子だったのです。(すでに読まれた方が多いとは思いますが「新渡戸稲造略伝」を添付しておきました)
だから、憲法は飾り物としておくのでなく、もっと日本の明治以来の近代的な国家づくりの豊かな経験(プラスの面もありマイナスの面もありますが)を踏まえて、憲法を下敷きにして「世界に役立つ日本」のあり方を具体的に描くべきでした。
小生が1955年頃から、アラブと接触し始め、ほぼ半世紀近くアラブとの連携の働き場所にいつづけたこと、アラブ諸国を50回も駆け回ったのも、平和憲法を活かした国際連帯の具体的なビジョンを描くためでした。
パレスチナ問題に没頭していた1970年代、80年代には、現地で仕事が難関に差し掛かった際には、ベイルート、カイロのホテルの部屋で憲法前文を何回も何回も読み直し、その中からいきいきとした活路を見つけていこうとしたことを思い出します。
なんだか避けようと思っても、個人的な話しになりそうで、ここいらでやめますが、最後にここで、憲法9条を活かす道としての一つの提案を御紹介します。
北海道の友人の笠井氏から知らせて頂いた池住義憲氏の読みやすく説得力のある文章です。
とくに「無防備地域宣言」をすることで、お金を雇用創出、教育、福祉、保健・医療、文化交流と国際協力、平和外交などに用いた方が余程効果的です。武力に頼らずに平和を維持する策を探る方が現実的なのです」という提案は、アラブ諸国など発展途上国との連携を重視する小生には全く示唆に富んでいます。
われわれは憲法を活かす道を建設するための具体策を創造していく、すなわち「活憲」する中で、先人たちが営々と築き、日本の国民の間に水脈のように流れいる文化的遺産を復活、再現するルネサンス運動を今一度構築していくべきではないでしょうか。
次の機会に『民主主義」について意見を述べたいと思います。