第四章 人倫としての花岡蜂起  中国人拉致労工問題を日中の人びとに広く伝え、日本国を告発して戦後補償裁判の先駆けとなったのは、劉連仁および花岡蜂起の生存者たちである。日中戦争が終って六〇余年たった今、花岡蜂起を指導し、奇跡的に生き残って故郷へ帰り、四〇年後に再び加害企業「鹿島」との闘争を牽引した人は何を考えているのだろうか。鹿島花岡裁判の「和解」(二〇〇〇年一一月二九日)をどう考えているのだろうか。  直接話をうかがいたいと思い、二〇〇七年三月一〇日夜、春節帰りの客で溢れる北京西駅から寝台列車で、河南省鄭州に向った。音の陽光で黄河平原がさらに明るく広がるなか、鄭州から車で許昌を経て襄城へ、一五〇キロの道を走った。町なかにある襄城県の老幹部住宅の一軒、二階建ての赤煉瓦の家の前で、老人と長男夫婦、孫娘、曾孫たち、耿家四世代がそろって私を待っていた。  中国農民が愛用する素朴な綿入れの上衣とズボンを着た老人は、土に生きた人特有の柔和な表情で立っていた。ただし老いても背筋の通った身体は、彼が普通の農民でないことを物語る。「今日は一日、先生のためにとってあります」と、九三歳の耿諄(コウジュン)さんはやさしく迎えてくれた。  それから八時聞、朝九時すぎに着いて夕暮の五時まで、昼食で休んだだけで、私は耿諄さんの話を聞き続けた。耿諄さんも休むことなく語り続けた。途中、何度となく息子の耿石磊さんが老人の体の状態を気遣って、「しばらく休みましょう。今日は元気かもしれませんが、明日は疲れて起きられなくなるかもしれませんよ」と□をはさんだが、歌捧さんは頬笑みながら話すのを止めなかった。  読書人になりたかった  戦争中の日本国内で、唯一蜂起した花岡事件の大隊長、耿諄さんは、どのように育ち、戦時をどのように生き、花岡をどのように体験したのか。  一九一四年一一月一六日、耿諄さんは河南省襄城県北大衛にある旧家に、七人兄弟の末子として生れた。姉三人、兄二人がおり、一人の兄は早世していた。祖父は清朝の「秀才」に合格した人で、晩年、私塾の先生をしていた。父親の耿錫麒(コウセキキ)は警察局長を務めた後、「瑞麟祥(ズイリンショウ)」という茶業に転じていた。兄も父の商売を手伝っていた。  彼は賢くやさしい母のもとで、末の子として育った。母は家に来る乞食に、必ず食物を与える人だった。母の生き方は、彼の人格の基礎を形作った。八歳で私塾へ通うようになり、『三宇経』、『詩経』、『論語』、『四書』などを学んだ。だが一一歳のとき、土匪(強盗集団)が城内を襲い、「瑞麟祥」も焼尽してしまった。そのため家は急に貧しくなり、私塾に通うこともできなくなった。それでも一四歳まで勉強を続けた。家族は小さな古書店を開いて、暮していた。  このままではいつまでも貧しいので、上に兄たちがいたこともあり、耿諄青年は軍隊へ入ることにした。国民軍第一五軍六四師一九一団二営五連に入隊することになった。  姉の言葉では、寡黙で学習の好きな子だったという。読書が好きで知識人になりたいと思っていたが、火災で挫折した。だが古書を売りながらも、本から学ぶのを止めなかった。軍隊にも本があったので、休みのときは本を読んでいた。  暫くして部隊の文書係がいなくなり、文書係を命じられた。部隊は襄城から、汝陽、南陽、洛陽へと黄河平原を移動した。この間、彼の几帳面な性格が評価され、事務長の試験を受けるように推薦された。試験に合格し、一九歳で事務担当准尉になった。一九三四年、二〇歳で郷里の女性と結婚した。  二年間事務長を務め、それから機関銃隊の排長(小隊長)少尉となった。その時、七七事変(三七年七月七日の盧溝橋事件)が勃発し、抗日戦争に突入した。河南の信陽から山西の太原をへて、山西宣忻口で日本軍と戦った。八路軍と共同作戦を行い、忻口戦で勝利し、彼は営の副官中尉となり、さらに団(連隊)の軍機員(兵器弾薬の管理官)大尉となった。中条山に移り、遊撃戦を続けた後、四二年春、黄河へ出た。この時、第五連の連長が戦死し、彼は営から五連へ戻り、中隊長となった。  中隊長としての彼の人柄を、晃子(ミンズ)の『尊厳―半世紀を歩いた「花岡事件」』(山週悠喜子訳、「私の戦後処理を問う」会編集。二〇〇五年、日本僑報社)は、耿諄さんから次のように聞きとっている。  「当時彼の中隊は一ハ○人程であったが、その大部分が新兵であった。病人がでれば自分で漢方医を捜してみてやり、病人が蜜柑を食べたいと言えば人をやって洛陽で買ってこさせた。病人の為に特別なおかずを作って食べさせ、兵士の母親が息子を訪ねて来れば特に鶏を買ってねぎらい、帰りの旅費を渡すなど全て自分の給料で賄ったから、月六〇元の給料は何時も月末にはなくなってしまい、自身は何時も貧しかった。兵士たちは彼のことを「貧乏隊長」といい、又ある人は「耿善人」と呼んだ」  労をいとわず努力し、他者に対して徳をもって接する。上にへつらわず、困窮する人に常に配慮する。このような人格は、知識人を生んだ彼の家の家風、母の温かい性格、中華文明の中心に位置する城市の文化、儒教の学習、少年ながら耐えられる年齢になってからの家の没落とその後の苦境が、育んだものであろう。  彼の生き方、対人関係のあり方が、秋田県花岡へ拉致された人びとの精神的崩壊を食い止め、花岡蜂起を可能にした。彼の倫理が、蜂起においても、人間性を失わなかった二人の日本人の生命を、命がけで守った。そして帰国後、文化人革命の虐待を乗り越えさせ、さらに花岡鹿島裁判を闘い抜かせた。私たちはそのことを順々に気付かされる。  捕虜から奴隷に  一九四四年五月、五中隊は洛陽の西で洛河を死守していた。激戦で中隊の七十余人が戦死し、中隊長の耿諄も重傷を負った。十数日の治療後、直ちに原隊に復帰し、二日目の朝、再び腹部貫通の重傷を受けた。意識を喪った耿諄中隊長を守って、ラッパ手の王占祥少年(彼は花岡蜂起の後、耿諄さんが自決しようしたときも、横にいた)と事務長の李克金(花岡では中隊長となり、蜂起の中心人物のひとり)が付き添い、共に日本軍の捕虜となった。殺される危険もかえりみず、二人は耿諄を支えようとしたのであった。この時、耿諄さんは三〇歳である。  石門(後の石家庄)捕虜収容所(石門南兵営と中国人に坪ばれていた)へ運ばれた。傷の手当は、同じ捕虜の中国人軍医が行ったが、医薬品は何もなかった。  日本軍はこの捕虜収容所を「労工訓練所」と呼び替え、華北政務委員会のもとにある労工協会による運営を装った。日本軍とその特務機関が管理し、誰が見ても過酷な捕虜収容所でしかなかったが、労働者の訓練所と偽ったのである。国際公法に反する捕虜の奴隷化や、農民の拉致・奴隷化という犯罪を隠蔽するための細工であった。  ここに一〇〇〇人をこえる男を収容した。食事は一日二食の高梁(こうりゃん)飯、水は少ししか与えなかった。高梁は酒造りの材料であり、そのままご飯にすると消化されず、酷い便秘となった。夜は逃走を防ぐため裸にして横臥させ、排尿に立つことも許されなかった。蓆を(むしろ)かけただけの小屋に雨がもり、不潔な小屋をさらに汚した。毎日、数十人が死んでいった。  一カ月ほどして、貨物列車で北京の清華園の近く、「西苑捕虜収容所」へ移された。ここは赤煉瓦の建物が並び、収容所の四隅に望楼が建ち、周囲に電気を流した鉄条網を張り巡らしてあった。犬を鉄条網へ追い込み、焼け死ぬのを見させた。逃げようとした者を晒し者にし、皆の前で首を切った。ここでも毎日、死人が運び出されていった。  やがて三〇〇人が編成され、列車で山東省青島へ移送された。一人が列車から飛び降りた―逃げおおせたかどうか、生存できたかどうかは不明―ので、二九九人となった。外務省の資料によると、四四年七月二八日、青島港から貨物船「信濃丸」に乗せられている。  昼食後、港に待機させられ、夕方になって乗船させられた。日本兵の警備のもと、前の人の服を握り、横を見ることも許されなかった。どこへ連れて行かれるのか、再び故郷へ帰れるのか。不安は極点に達し、皆が甲板を手で叩き泣き出した。それでも船は海を滑っていった。  一人が海へ飛び込んだ。員数が減るのを恐れたのであろう、日本兵は彼を銃撃せず、掬いあげた。そのため甲板に出ることは許されなくなり、鉱石が積まれた船倉へ全員閉じ込められた。飢餓食、それ以上に乏しい水、激しい船酔い。船に乗ってからも三人が死んだ。毛布に包み、鉱石を縛りつけて海へ投げた。こんなことまで、日本人は拉致された中国人にさせた。ただし一人は上陸直前に死んだので、耿諄さんたちが抵抗して、海へ投げ捨てさせなかった。生きているようにして、支えて上陸させ、秋田について後、火葬にしたのだった。  船のなかで、日本側は隊を三隊に分けて編成するように命令してきた。そして国民党軍の位の上の者から責任者に指名してきた。最も上級の中隊長耿諄が労工大隊長に指名された。彼はこの指名に従うべきかどうか、ためらった。日本人は中国人を使って中国人を管理しようとしていることは明らかだ。だが乗船後、食物の奪いあいが見られ、老人、子どもに行き渡っていなかった。彼は皆が生きて帰国するために、自分の使命を果そうと考えなおした。  なお秋田県花岡に収容された後、三中隊に分けられ(第二次、第三次の被拉致者が運ばれてくると、四中隊に増えた)、中隊は三小隊に分けられ、小隊は十人単位の班で構成されるようになった。副大隊長、各中隊長、各小隊長、さらに軍需長(賄係)、書記、看護長も決められた。五四歳以上の老人組、一二歳から一七歳までの子ども組、看護班、炊事班も作られた。  船は釜山で碇泊し、八月五日に下関に接岸している。八日間かかり、三人が死亡したのだった。それから汽車で三昼夜、東京、大館をへて、引き込み線に乗り替え、山奥の小駅「花岡」に看いた。この間にさらに二人が死亡している。衰弱し、汚れた労工服をまとった二九四人(この数字さえ諸説ある)の男たちが、中国人の遺体を担いで、警官や鹿島組の職員に連行され、列をなして山道を登っていった。花岡の人びとはこの異様な列をどう見ていただろうか。すでに朝鮮の人びとが連れられてきている、その延長、一段と酷いだけだと思っていたのであろうか。  花岡蜂起後の地域住民の言動については、当時国民学校五年生だった野添憲治さんの痛恨があるぐらいで、事件前に中国人労工をどう見ていたか、何も分らない。中国人労工について、当時の住民は戦後堅く沈黙してきた。加害者の釈放運動は行っても、自らの過去とは対決してこなかった。その後の世代は、労工の遺骨返還や慰霊を行ったが、父母とその世代に、祖父母とその世代に、あなたたちは何をしていたのか、どう思っていたのか、何も感じることはなかったのか、問うていない。ひいては、自分たちを育てた上の世代の人間性、対人関係のあり方、文化がどのように自分たちに継承されているのか、自らの人格の基底にいかにつながっているか、問うていない。  この問いは、被害者からは絶えず発せられているにもかかわらずである。例えば第一章で、李良傑さんは「日本人は分らない。片手に剣、片手にサクラ、仏様、神様を持っている。暴力とやさしさ、両面を持っている、どうして?」と問うている。外の文化からの問いはいつも発せられているのに、私たちには聞こえない。自らに問いのない者は、外の問いを認知しない。勿論、日本全体になると、花岡事件を知っている人さえ少なく、過去との対決の内面化はほど遠い。  鹿島花岡「中山寮」での虐殺  労工たちが収容されたのは、山の斜面を切り開いて建つ、飯場「中山寮」だった。それから一年以上続いた地獄の生活については、野添憲治の先駆的著作『花岡事件の人たち―中国人強制連行の記録』(初出誌は一九七四年、『思想の科学』誌の連載。単行本は版を重ね、出版社を変えて読まれてきた)に詳しい。現在は、社会評論社版、野添憲治著作集『花岡事件の人たち』全四巻として、読むことができる。最新の著作としては、先に触れた晃子著『尊厳―半世紀を歩いた「花岡事件」』が、近年の裁判の経過などを、正確に記述している。耿諄さんは「全部ここに書かれている。この本を参照してほしい」と、『尊厳』を手にして言っていた。私はこれらの著作との重複をさけ、花岡蜂起に到る事情は要約して述べよう。ただし蜂起後、労工たちが四散し、耿諄さんも単独になって以降は、間いた話を詳しく伝えよう。  初めの一カ月は何も分らず、花岡川・大森川の改修工事などに使役された。現場まで四キロを歩き、一日一二時間の労働。それも一九四五年五月、第二次労工が連行されてきてから一日一四時間になった。しばしば突貫工事だと言って、一六時間働かされ、一日に数人が死ぬようになっていった。病棟には衰弱した人が常に一〇〇人ほど横たわるようになった。  食料は小麦粉と米から、次第に橡(とち)の粉の混った代用食になり、やがてほとんどが橡の粉となった。それに大豆の搾り滓(かす)などを混ぜて饅頭を作るしかなかった。昼は作業現場で小さな饅頭を食べた。  寮長(鹿島組花岡出張所の河野正敏所長、寮長を兼務)は、大隊長は職員と一緒に食事をするようにと言ったが、彼は断った。寮長は、大隊長が欲しいものはどんな贅沢でも用意するとまで言った。中国国民軍の中隊長大尉であった男を手なずけることによって、中国人全員を奴隷化しようとしていた。耿諄さんは、彼らの意図がよく分っていた。彼らの誘惑を拒絶し、大隊長、隊長が皆と生活を共にしないかぎり、労工集団は生き残れないと思っていた。  初め強健だった男たちも極度の低栄養と重労働によって、短期間で弱っていった。休みは一日もない。休むと食物は半分に減らされた。服はぼろぼろになった薄い作業衣一枚のみ、川底の作業でぬれた手足は凍傷になって痛んだ。あまりにも多くの人が死に、火葬後に骨を入れる箱も不足してきた。一〇人以上をまとめて粗朶(そだ)の木に積み、石油を少しかけて焼いた。誰の骨か、混ったままの骨片を木箱に入れるようになった。  朝、寮の外へ出ることができても、夜には死んでいるかもしれない。皆がもはや生き残れない、あと何日生きられるか、と思うようになっていった。作業場への行き帰り、道端の草を食べる者もいた。夜、密かに板の寝床を抜け出し、山の草を食べに行く男もいた。だが見つかると、棒で執拗にたたかれた。肉を失った体は、すぐ皮膚が裂け骨がむき出しになった。  五月五日、五八七人の第二次捕虜が連行されてきた。その中に、山東省で日本語の通訳をしていた于(ウ)傑臣がいた。耿諄さんは于通訳を連れて所長の河野正敏に会いに行った。  「なんとか生きられるようにしてほしい。食物を少しでもよくしてほしい」と頼んだ。  「お前らは仕事を完成していない」  「その上、四合もの食料を出している」  これが河野の返答だった。四合とはまったくの嘘であり、わずかな橡の粉では生きられない。  もう一度、懇願に行ったが、河野は机を叩いて、「任務を完成していないではないか」と怒鳴りつけるばかりだった。  この後、馬の骨と大根の葉が連ばれてきたが、とても数百人の労工に当るような量ではなかった。  服もなく、シャベル、ツルハシ、モッコだけの重労働は改善しなかった。日本人の監督たちは火をたいて暖をとっていたが、労工たちは許されず、川底で土を掘り、水から出ると体は凍りついた。第二次労工が到着したころには、第一次労工の一〇〇人ほどが死んでいた。三人に一人が殺されたのである。  重症の栄養失調では腸粘膜も萎縮し、激しい下痢をともなう。下痢がひどく作業場を少し離れたため、棒で頭を割られて殺された人もいた。五月には、夕刻、皆を集めて、草を食べていたという肖志田(八路軍兵士)が打ち殺されるのを直視させた。しかも、肖志田が属する第二中隊の張金亭中隊長を脅して、彼に棒で打たせた。拒絶する張をまず棒で叩き、同僚を激しく打つように強制した。呻き声がなくなるまで打つように、執拗に命じた。  その夜、耿諄は「どんな理由があっても、仲間を殴ってはならない」と、中隊長、小隊長に厳命した。しばらくして、劉沢玉が草を食べていたとし、前回と同じく、小畑寮長代理が中隊長に皆の前で棒で打つように命じた。張金亭中隊長は身動きもしなかった。奴った職員たちは劉沢玉を意識を失うまで棒で打った後、さらに焼いた鉄片を彼の太腿に押し込んだ。仲間の肉が焼ける音を労工たちに聞かせ、焦げる臭いをかがせた。なお、劉沢玉は奇跡的に死なず、生き残って戦後の極東国際軍事裁判(横浜)で証言している。  次に、薛同道が朝鮮人から食物をもらったとして、皆の前で打たれた。初め棒や革の鞭で打っていたが、次に小畑が雄牛のペニスを乾かした鞭で執拗に打った。日本人職員は薛同道の行為を「中山寮の恥、鹿島組の恥、支那人の恥」とののしり、耿諄の横に立ち(薛同道は)「死ねばよい」と言った。  明らかに鹿島職員たちは病理的な嗜虐傾向(サディズム)に陥っている。中国人捕虜に中国人捕虜を打たせることによって、打つ人の精神的苦痛を楽しんでいる。労工たちを集めて、彼らの眼の前で打ち殺すことによって、直視させられた中国人たちの苦痛、緊張、無力感、恐怖心のうねりをもてあそんでいる。被害者を長時間殴り、呻かせ、汚物まみれにさせることによって、さらに貶めようとしている。  「中山寮の恥」とは何のことか。死の飯場にどんな名誉があり、どんな恥があるのか。労工は中山寮共同体の家族ではない。にもかかわらず、この時だけ中山寮共同体の一員に一方的にされている。鹿島組の一員にされ、「鹿島の恥」とののしられている。支那人とさげすみながら、さらに「支那人の恥」とわめいている。彼らは自分が何を言っているのか分っていないだろうが、恥ずべき支那人のさらに恥、とでも言いたいのだろうか。  草を食べること、拾ったものを口にすることに、何故ここまで激昂して、労工をいたぶるのか。食物を与えず、殺しているのは日本人職員である。にもかかわらず、彼らが飢えさせた労工たちが、飢えて草を食べることを激しく憤る。何を憤っているのか。命令のままに静かに殺されていかないから、憤っているのか。草を食べることに日本人職員への反抗を感じているのか。自分たち強者の思い、勝者日本人の思いが傷つけられたと感じているのか。  日本人職員は草を食べない。土まみれの拾いものを口に入れはしない。だが、彼らも恵まれた日本人よりは貧しい生活をしている。この格差への不満が、草を食べる中国人への攻撃に置き換えられているのだろうか。自分たちも、中国人労工がなりふりかまわず食べる草のようなものを食べたい。だが、彼らにとっての草は何か、彼らも分らない。あるいは労工たちに配給された食料を盗み、横流ししているが故に、彼ら自身の疾(やま)しさが投映されて、草を食べる行為に日本人職員への当て付けを見ているのだろうか。鹿島の正社員、河野所長のような職員は現場に来ることもなく、自分たちよりもさらに多くを奪い贅沢をしている。もっと上は、もっと多くを取り幸せに暮している。ぼんやりとした羨望が、極限状態にある人の行為を見て、嗜虐性に変わるのだろうか。  しかも彼らは薛同道を打ち殺すとき、「牛の陰鞭」を使った。殺す道具そのものが、中国人をさげすむものでなければならなかった。耿諄さんは直立して耐えながら、牛の陰鞭に人間の尊厳が徹底的に汚されていると感じていたという。  私は鹿島職員の残虐な言動について考えていると、彼らの心理が今日の日本人の攻撃性、施しを求める心に忍ばせた攻撃性に、続いているように思えてくる。彼らの社会的性格は、蜂起後の労工を罵り殺していった花岡地域住民のものでもあった。そして攻撃の対象を変え、攻撃の言動の形式を変え、戦後の日本人に受け継がれてきたものではないのか。  戦争期、朝鮮、中国、フィリピン、東南アジアの人びとの悲惨を想像せず、日本国内においても拉致されてきた人びと、差別された人びと、戦争や爆撃で家族を喪った貧しい人びとの生活について想像せず、挙国一致の勤勉に陶酔していた。その一国内大政翼賛の内部では、鹿島組にみられるように暴力と無秩序が熟れ爛(ただ)れていた。日本の侵略戦争が終って後、敗戦国日本以上に、侵略された地域の人びとがいかに苦しんだか、想像することもなく、アメリカ依存に立った勤勉に浸ってきた。今も、戦時性奴隷の外傷体験に苦しむ老女、拉致労工、国内外の戦時暴力の被害者などを想像することなく、北朝鮮政府による日本人拉致問題を国家主権にかかわる問題と煽っている。北朝鮮問題を梃子(てこ)とした自己煽勤は「テロとの戦争」の参加貢献に結びつき、アフガン、イラク、パレスチナなどに生きる人びとの絶望への想像力を欠いている。国内においても、明るさ、癒しを語る人びとが、競争と格差のもとで追い詰められる人びとには無関心である。  蜂起にこめられた配慮  薛同道青年は、七〇〇人の中国人労工の前で(蜂起前に一三七人が殺され、一〇〇人ほどは病棟に横たわっていた)、鹿島職員によって想像力の限りを尽くした侮辱によって、傷つけられて死んだ。耿諄さんはこれまで、仲間が殴られるのを見て、開いた眼から涙を流しながら耐えてきた。しかしこれは、生きるか否かの問題を超え、中国人に対する人間の尊厳を汚す侮辱だと思った。大隊長の彼は河川改修工事にはたずさわってはいないが、いつも倒れる労工たちの傍に立とうとしてきた。彼の食事が多くもられた時は削り、皆と同じにした。皆と同じように苦しむことで、この大隊を生き残らせようとしてきた。彼の心は労工たちの心と同調していた。彼の思いが中国人労工の生存から、尊厳へ移ったとき、労工たちから蜂起がうながされたのだった。  「蜂起は隊長たちではなく、普通の人から提案された」と耿諄さんは強調した。彼ら考えていた。周囲は海、地理も分らない、すぐ包囲されて殺される。だが人間の尊厳は守らなければならない。  武器は無いが、シャベルがある。永い使用で、それは削られて鋭くなっていた。蜂起前に警備を必ず殺す。捕まれば拷問後に殺されるので、海に突き当れば、海に飛び込んで死ぬと決めた。  大隊長が蜂起を決心すると、屈辱に震えていた労工たちの中核は落着いた。作戦は中隊長、小隊長、遊撃戦の経験者など十数人で考えた。集まって話しあうことは、勿論できない。昼食後、一五分ほど作業にかかるまで間がある。五月に河野所長に窮状を訴えた後、食料が増えるかわりに、タバコの葉が少し配給されるようになっていた。小隊にマッチ一箱が渡され、使い終ると箱を返すことになっていた。男たちはマッチ一本を節約し、タバコからタバコヘ火を付けていた。この時を利用して、連絡をとりあった。  初め、決行日を七月七日、抗日戦開始の日に決めた。だが、それまでにも多くの人が死んでいく。情報も漏れる恐れがある。一〇日早めて、六月二七日夜一一時の蜂起と決めた。警備職員を殺し、少しの余裕の時間で病人たちを支え、食事を作り、皆が十分に食べる。シャベルを持ち、食物をできるだけもって海へ向うことにした。  だが直前になって、警備宿舎を夜襲すれば、中国人を侮辱しなかった職員二人も一緒に殺してしまうことに、彼は気付いた。小大君と中国人が呼んでいた若い越後谷義勇(一九歳)は労工を殴らなかった。密かにポケットに米を忍ばせ、病人にお粥を作ってやるように言って渡していた。老太君と呼んでいた石川忠助(四〇歳)は弱っている労工に休みをくれた。ただし、野添憲治着『花岡事件の人たち』では、小隊長で蜂起の中核の一人だった李振平(当時、李光栄と名のっていた)が、「この石川さんも、わたしたちの目の前で、二人の中国人を、殴って殺したのを知っているよ。石持てないほどからだ弱っている人、棍棒で叩けばそのまま倒れてすぐ死ぬの、あたりまえのことね。それも、頭とか顔とか、どこでも叩くのだから、どうにもならないよ。それでも石川さん、福田とか清水にくらべたら、はるかにいい人ね」と言っている。  耿諄さんは、この二人を傷つけてはならないと告げた。中国人の人間としての尊厳を守って蜂起をするのであって、報復をするのではない。日本人は野蛮であっても、自分たちは人倫に生きなければならない。さらに日本人に通報する恐れがある、食料管理係の任鳳岐と通訳の于傑臣を、蜂起前に殺すように周りから求められた。任は食料を横流ししていた。于は日本人と食事をしており、彼ら漢奸(かんかん)(裏切者)と言われていた。任は確かに漢奸だったが、于は耿諄が所長と交渉したとき協力した。耿諄さんは「于はまだ良心が残っている、殺してはならない」と伝えた。于傑臣は、日本敗戦後、国際代表団が花岡事件調査に来たとき、受け付けをしてもらった、と耿諄さんは言っていた。  越後谷と石川の二人の職員に危害が及ばないよう、若い孟連祺に探らせた。孟連祺は八路軍の少年兵だった。日本人は三人の中国人少年を勝手に太郎、次郎、三郎と呼び、彼らに自分たちの身のまわりの世話をさせていた。次郎と呼ばれた孟連祺が二人の非番の夜を探り、露見の危険が高いにもかかわらず、六月二七日を三〇日へ遅らせることにしたのだった。  六月三〇日夜、次郎(孟連祺)が職員寮の門をたたき、中に入った。三人の少年のみ、職員寮に人ることができた。孟連祺が扉をあけたまま外に出た。入れ替わりに、張金亭(第二中隊長)が指揮する突撃隊が忍び込んだ。一〇人はシャベル、他の一〇人はツルハシを持っていた。  まず電話器を壊した。ひとつの窓に二人が外で構え、窓から逃げ出す者を襲う計画だった。だが窓への配置が完了する前に、飛び起きた職員・檜森の殺害が始まってしまった。居ないと思っていた老大君(石川忠助)が、その夜なぜか居た。シャベルで肩を叩いた後、老太君と気付いた李秀深が、彼を表口から逃がしたという(敗戦後、石川忠助は秋田監獄の前に立っていて、通りすぎる耿諄に頭を下げたという)。最も残虐だった小畑が殺され、漢奸の任も殺された。窓から逃げた長崎も殺された。だが十数人は逃げおおせた。  衰弱しきった虜囚による蜂起は計画通りにはいかなかった。食物も準備できなくなった。米兵の捕虜収容所を警備している日本兵を襲い、さらに花岡警察署を襲い、銃弾薬を奪うことも出来なくなった。耿諄大隊長は蜂起の事情を皆に説明し、病人を支えて逃げるように指揮をとった。「中国人としての尊厳を守る。死んでも屈しない。農民のものは決して取ってはならない」と訓示した。「私は皆と一緒に耐えてきた。そのため、皆の団結心は極めて固かった」と彼は蜂起をとらえている。山の下では戦時警報が「アーァ、アーァ」と叫んでいた。  八〇〇人ほどの中国人労工は中山寮を出て、山裾にそって山を下り、一年前に運ばれてきた鉄道支線にそって南へ進み、再び山へ向い、「獅子ケ森」(二二五メートル)へ入っていった。  長い隊列はすでに大きく切れ、先頭グループは三〇〇人たらずになっていた。耿諄さんは、以前通訳の子傑臣のところで拾った日本の鉄道地図の切れはししか、見当をつけるものを持っていなかった。それでも五キロほどの道を四時間、衰弱した体で黙々と歩いた。やがて、竹槍を手にした男たちが薄闇のなかに見え隠れするようになった。彼らを避けて、夏草の繁る細い山道へ登っていった。  耿諄さんは先頭にたち、山頂で指揮をとろうと考えたが、すでに尾根には日本人がいた。隊は五、六人ずつ散り散りになっており、敵は包囲を狭めてくる。灌木の下、茨や草が高く伸び、耿諄さんたちの群を隠した。敵は石を投げながら近づいてくる。彼に随う人は一〇人たらずになっていた。  「私は自決するため、鉄片を研いだ小刀を懐に入れていた。だが、それが無くなっていた。あまりにも辛かった。洛陽戦役以来、私に付いてきてくれた元ラッパ手(少年兵)の王占祥に、『ゲートルをはずせ』と言った。だが、はずそうとしない。すでに敵の叫びが追っていた。時間がない。立ちあがって、ゲートルを本の彼にかけることもできなくなっていた。私は叱責して、ラッパ手のベルトにしていた紐をはずさせた。本の根にそれを留め、片方を首に巻きつけ、足で蹴った」  耿諄さんは「死んでも膝を回しない」と言って、中山寮を出てきた。彼は言葉を綾に使う人ではない。気がっくと、敵に押さえられていた。鼻から流れた血がこびりつき、目は出血してよく見えなくなっていた。  私は耿諄さんと一日をすごして帰国した後、彼らが獅子ケ森へ敗走していったのと同じ日、六二年後の七月一日朝、『尊厳』を訳した山澄悠喜子さん、長谷川千恵子さん、そして西村史朗さん(国立天文台)、張宏波さん(明治学院大学)らと共に、獅子ケ森を登った。尾根までの道は伸びた枝がはらわれていたが、灌木のなかは夏草がからみ、大きく伸びたキイチゴが実をつけていた。労工たちもこの実で渇きをうるおしただろうか。暗闇では見えず、それよりも茎(くき)の刺で干からびた足や腕を傷つけただろうか。昔は里山の低木は粗朶に採られ、山裾は比較的明るかったのではないか。だが上に行けば、夏草が鬱蒼としていたであろう。そう思って尾根に近づくと、樹木の枝がからみあい進めなくなった。こんな山で中国人たちは竹槍で剌されたり、刀で切りつけられたりして捕まっていったのである。  秋田監獄での拷問  耿諄さんは両手を後に縛られ、車で大館の憲兵隊本部へ連れられていった。彼らは大隊長の死体を持ってくるつもりだったのであろうが、生け捕りできたので勝ち誇っていた。  大館へ移され、臨時軍事法廷で尋問された。後手に縛られたまま、さらに椅子に縛り付けられた。  「私は中国人の尊厳を守った。私が計画し、私が指揮した。鹿島が中国人を侮辱し、生きられないようにしたからだ。唯一残念なのは、激しく戦って死ぬことができなかったことだ」、そう話した。間もなく殺される、と覚悟していた。任務は終った、すべきことはした。心は落着き、椅子に縛られたまま眠ってしまった。この時は、拷問されることもなかった。  それから二日間、縛られたまま閉じ込められていた。他方、遠くへ歩く力もなかった労工のグループはすぐ捕まっていた。山伝いに四散した者も、次々に傷ついて捕まった。労工狩りに警官、在郷軍人、警防団など二万一六九二人が出動した(『秋田県警察史』)という。十数人の労工は村人である消防団員や青年団員によって、竹槍や日本刀で殺された。彼らは戦国時代か、戊辰戦争の文化へ、一直線に戻っていたのであろう。各地で捕まった数百の人びとは花岡の町の中心にある呉楽館前広場へ連れてこられた。そこは町で唯ひとつの映画館「呉楽館」があった。それから三日間、夏の炎天下、水も食物も与えず、二人一組に縛った労工たちを、警察と地域住民はいたぶり続けた。警察は労工を恣意的に呉楽館へ連れ込み、死ぬのもかまわず拷問を加えた。広場に座らせられた労工たちは、縛られたまま死んでいった。死後硬直する仲間を背後にしたまま、あるいは背後の死者が犬に喰われる音を聞きながら、生き残った人もいた。これが、共に楽しむ館の前の三日三晩であった。  花岡鹿島へ拉致されてきた中国人男性は、戦後(一九四六年三月一日、外務省管理局がまとめた『華人労務者就労事情調査報告書』によると、第一次二九四人、第二次五八七人、第三次九八人、計九七九人となっている。青島出港時は一〇〇〇人とされているので、花岡に着くまでに多くの人が死んでいる。六月末の蜂起までに約一四〇人が死んでいた。そしてこの三日で、一〇〇人を超える中国人が惨殺された。野添憲治さんは一一三人という数字を挙げている。共楽館前広場での状況については、体験者から聞き取りをした野添さんの著作が最も詳しい。  最初の尋問から八日ほどして、耿諄さんは憲兵司令官の前に連れていかれた。王崗と名のった通訳が、「私は東北出身です。私も中国人です。できることは何でもします」と自己紹介した。星三つ、襟に二筋を付けた司令は、部下に水をもってこさせ、警官に殴られ血のこびりついた彼の顔を洗わせた。「中国政府の任務をもって入国し、日本を転覆する目的で蜂起したのでないか」と聞いてきた。耿諄さんは初日と同じことを答えた。司令官は「大隊長、君は偉い」と言って、叩かれることもなく終りになった。  三日後、手錠をかけられて他の首謀労工一二人と共に、車へ入れられた。処刑と思ったが、汽車へ乗り替えさせられ、秋田監獄へ移送された。ここでは通訳もなく、三回尋問され、棒で意識を失うまで打たれた。以後、激しい頭痛に苦しむようになった。  ある日、憲兵少尉が独房に来て、「両親、妻子はいるか。手紙を書くか」と聞いてきた。手紙は書かない、と答えた。憲兵は何度か時計をみていた。後ろの憲兵に「五時半」と言った。ああ五時半に殺される、早く殺された方がいい、と耿諄さんは思った。だが、しばらくして「明日、明日」と言って出ていった。  耿諄さんは秋田監獄へ移送、拷問されて一カ月ほど後に、裁判所へ連れていかれた。軍事法廷から一般の刑事裁判に変更されたのである。三日目の法廷で、耿諄大隊長に戦時騒擾殺人の首魁として、死刑が求刑され、その場で死刑が言いわたされた。監獄へ帰り、間もなく処刑されると思って、「ここで殺すのか」と刑務官に聞くと、「仙台」と書いてくれた。そうか、仙人の往むところで死ぬのか、それもいいな、と思った。後日の判法文は耿諄、無期懲役。他の一一人が懲役一〇年から二年となっていた。しかも判決日は一九四五年九月一一日と書かれていた。日本敗戦を耿諄さんらに知らせず、占頷下の混乱のもとで一般刑事事件として敗戦後に処理しようとしたのであった。  他方、中山寮へもどされた労工たちは、警察官も加わった虐待のもとで、以前にも増して多くの人びとが死んでいった。九月中旬、米軍の飛行機が上空へ飛んできて、近くのアメリカ人とオーストラリア人捕虜に食料を投下した。そこで、初めて労工たちは日本敗戦を知った。それまで酷使され続け、八月は四九人、九月は六八人、一〇月は九一人が死んでいる。衰弱した体は回復せず、外務省報告書では花岡鹿島に連行された九七九人の内、四〇七人が死亡となっている。一〇人に四人が殺されたのである。  一一月初旬、秋田県立女子医学専門学校の高橋実教授が花岡中山寮に入り、戦争浮腫、発疹チフス、肺結核(三〇人)などを鑑別診断して治療に当った。野添憲治著『花岡事件の人たち』には、高橋実医師の貴重な聞き取りが載っている。彼が中山寮で診察治療にたずさわってから「帰国を秋田駅頭で見送るまでのおいた、新しい死亡者は一人もださないですんだ」と述べている。(高橋実、「花岡鉱山の中国人たち(上)・「医師の報告」、『中国研究』一九七四年一〇月。なお外務省報告書とは月別死亡者数が違っている。』  外務省管理局『華人労務者就労事情調査報告書』(一九四六年三月)では、労工は「虚弱者、疾患ヲ有スル者、栄養不良乃至衰弱者多数アリテ」、「死亡原因ノ大半ハ既ニ供出時ニ存シタリト断定スルモ大過ナク」と嘘を並べてはばからない。これは労工全体の死因についての言い訳であるが、鹿島組からの「聴取覚書」にも、「全般的二体質劣弱」とか、第二次労工は「浮浪者等多ク栄養回復シ得ズ」といった弁解が記録されている。だが高橋医師の報告は、長期の虐待によって衰弱しきった人びとに対してさえ、これだけの社会医学的対応ができたことを証明している。  一九四五年一一月二九日、耿諄さんたち秋田刑務所に収容されていた一二人、花岡事件の証人とし て占領事に残留を命じられた一一人、重病の一八人をのぞいて、約五三〇人の中国人が博多から塘沽へ帰国していった。  文革での迫害に耐えて  耿諄さんは、七ヵ月ほど秋田刑務所に収容された。日本敗戦は知らされず、中国人留学生三人が見舞に来て、初めて知った。その後、米軍の大尉が来た。刑務所長もお茶に誘ってくるようになった。「外に出て街を見たい」と言う者がいたが、所長は「あなた方は戦勝国の人なので、我々が警護しなければならない」と言って、出してくれなかった。一人部屋から一二人一緒の大部屋へ替えること、食物を十分にし、故郷へ手紙を送る、この三要求を出して適えてもらった。缶詰なども届けられるようになった。  翌四六年四月、獣控さんたちは東京中野の刑務所へ移り、国際軍事法廷での壮言のため待機させられた。この時、中国軍の軍服が支給され、元の大尉の地位に戻った。七月には、東条英機らA級戦犯法廷を傍聴するよう求められた。だが鹿島花岡の戦犯裁判はいつまでも開かれず、耿諄さんは秋田刑務所で受けた拷問の後遺症に苦しみ、後頭部の頭痛に耐えかね、帰国して故郷で養生する許可を得た。一一月、初めて飛行機に乗って上海へ飛び、河南省襄城の故郷へ帰った。洛陽の戦闘で倒れてから、二年半がたっていた。日本で三度の死―花岡蜂起後の自決、秋田監獄で憲兵に「五時半」の処刑を告げられたとき、秋田裁判所での死刑求刑―に直面した後、奇跡的に生存して、帰郷したのだった。  その後、内戦下で通信が停滞しており、東京の法廷への呼び出し状は、四七年九月に遅れて着いた。やっと上海へ到着した時は、出廷日から一カ月過ぎていた。中国代表部より、南京の軍招待所で次の出廷まで待機するよう命じられた。南京に滞在しているうちに国内戦が激しくなり、彼ら敗走する国民党軍と共に貴州へ移動。四九年、貴州は解放軍に解放され、軍招待所は解放軍に編成された。  それから重慶をへて帰郷しようとしたが、重慶で足止めされ、建設労働者になって命をつなぐしかなかった。五四年になって、やっと妻の実家、襄城県霊樹村へ帰ってくることができた。(この間、花岡裁判は一九四七年一一月から四八年三月まで、横浜のBC級戦犯法廷で開かれ、三人の鹿島組現地職員が絞首刑、河野・鹿島組花岡出張所所長が終身刑、花岡警察署長と警官の二人に懲役二〇年の判決が下された。その後、大館で釈放を求める署名運動が起こり、一九五四年、警察署長が仮出所。五六年、全員が刑を停止され出所している。ある人は大館市役所の職員となり、ある人は県の外郭団体に勤め、それぞれが普通の日本人として暮した。)  帰郷後の耿諄さんは農夫になり、幼い三人の子ども(息子二人、娘一人)をかかえ、妻と共にゼロからの再出発となった。翌五五年、合作社ができ、五八年には人民公社になった。耿一家も、その社員として働いた。彼は生来の積極性、工夫の精神をもって農業にたずさわった。  村人にも信頼され、やっと生活が整い始めたころ、文化大革命(一九六六年から七七年まで)になり、国民党軍の中隊長だったため、反革命分子として激しく攻撃された。何百回となく批判闘争大会で吊し上げられ、跪かされ、殴られた。便所掃除、肥くみ、雪かきなどの仕事が懲罰として課せられた。子どもたちも反革命分子の家族としていじめられるため、彼は畑の小屋へ移り、二年間、一人で寝起きした。すでに五〇歳になっていた耿諄さんは、それでも朝早くから夜遅くまで畑で働き続けた。手間がかかるので村人が作りたがらない野菜を上手に作り、さらに鶏を飼い、牛を育てた。その成果は生産隊の人びとの収入となった。そして休息する時には、若い頃からの楽しみである書道にふけった。石版があれば、筆をぬらして水で字を書いた。彼は世俗の動向に思い悩むより、いつも「天」に向きあって生きようとしていた。  やがて一〇年にわたった文革も終息し、耿諄さんの名誉回復も行われた。一九八四年、襄城県の政治協商会議の委員に推挙され、翌年八五年、同会の副主席に選ばれ、三期一三年間務めた。八八年から九三年まで、河南省政治協商会議委員にも選ばれている。  鹿島と再度闘う決意を固める  戦争、敵国日本への拉致、重慶での肉体労働、文革での虐待を生き抜き、七〇歳になった耿諄さんは安定した日々を送るようになっていた。  一九八五年八月、そんなところに県政治協商会議のある委員が「参考消息」(新華通信社が発行する、外国での中国関連記事を紹介するタブロイド判新聞)の七月五日版を持ってきた。そこには共同通信配信による花岡事件四〇周年・慰霊祭の記事が載っていた。「これは、あなたに関連する事件でないのか」と教えてくれたのだった。身上調書に過去のことはすべて書いていたので、関係者はよく知っていた。すでに一九五三年七月、中国殉難烈士の遺骨送還―このなかには約四〇〇体の花岡労工の遺骨もあった―があり、報道もされていたが、重慶で建設労働にあけくれていた耿諄さんに届くはずもなかった。  すべてのことが、まざまざと脳裏に浮き上ってきた。まだ日本に残っている労工がいて、慰霊祭にかかわっている。耿諄さんは信じがたい思いで、日本に往んでいるという、元看護班の劉智渠に手紙を出した(劉智渠さんは、野添憲治著『花岡事件の人たち』の座談会で多くを語っている)。すぐ劉智渠、つづいて日本に往む李光栄から感動を伝える返事が届いた。こうして「花岡蜂起」は四〇年後に再び芽をふき始めた。四〇〇人をこえる中国人労工の士となった遺体から、厚く塗り込められた鹿島や花岡・大館の人びとの忘却から、慰霊と遺骨返還で「和解」しようとする日本人の欺瞞から、蜂起の意味が蘇り始めたのである。  その年の一一月六日、劉智渠は日本の作家・石飛仁と共に耿諄を訪ねてきた。石飛仁氏は一九七〇年代より中国人強制連行問題を取材してきた人である。私は以前、石飛仁著『中国人強制連行の記録』(三一書房、一九九七年)を読み、そこで「花岡蜂起の指導者、耿諄氏を河南省に発見」と強調しているのに、違和感をもった。母国へ帰還し故郷で暮している人を「河南省で発見」と誇る感覚は、どこからくるのだろうか。強制連行を反省しない日本社会の暗い陰が、それを告発しようとする人にも歪みを作るのだろうか。石飛氏の名前が出たので、耿諄さんに「彼に河南省で発見されたそうですね」、と質問すると、「私はここで生れ、ここに生きているのに」、と笑っていた。  二人は日本へ帰り、大館市長に耿諄の消息を伝えた。畠山健治郎市長は、翌年の慰霊祭に出席するように招待した。だがその年は中国政府の許可が得られなかった。翌年八七年五月、宇都宮徳馬、田英夫、土井たか子(共に国会議員)ら八名による来日要請状が届き、中国政府の許可を得て、訪日できることになった。八七年六月二六日から一〇日間、耿諄さんは日本に滞在した。そこで鹿島が「一切の責任はない、中国労工は募集によって来た契約労働者である、賃金は毎月支給した、遺族に教済金も出している、国際BC級裁判は間違った裁判である」と主張していることを知った。この時、鹿島と再度闘う意志を持った、と言っていた。「討回歴史公道」(歴史の公道を取り戻そう)と心に固く決めた。  八八年、日本では「中国人強制連行を考える会」(代表、田中宏)が結成された。  八九年一二月二〇日、北京にかつて虜囚だった四人の老人が集ったとき、鹿島へ手紙を出そうという考えが耿諄さんに浮んだ。書に親しまなかった日はない。筆をとると、その内容を考えあぐねることはなかった。  @鹿島が心から謝罪すること、A鹿島が大館と北京に「花岡殉難烈士記念館」を設立し後世の教育施設とすること、B受難者に対するしかるべき賠償(この時は各人三〇〇万円、後に新美隆弁護士の提案で縦棒二本を加筆して五〇〇万に変える)、この三要求をすぐ書いた。  それは花岡蜂起を決意した時から、自ずから導かれた要求であり、四五年の中断があっても一歩もずれることはなかった。「討回歴史公道」の別の表現であり、鹿島に向って具体的に改訳したものともいえる。この三要求、この構えは、その後も終始一貫している。上記の書は、「鹿島組花岡強制労働生存者および死難者遺族連誼準備会」(会長、耿諄)の名称で「公開書簡」とされた。  見せられなかった和解条項  翌年一月より東京で、新美隆弁護士、「中国人強制連行を考える会」の田中宏教授や林伯耀氏(神 戸在住の華僑)を代理人として、鹿島との交渉が始まった。九〇年六月末、再び耿諄さんらが来日、 七月五日、鹿島建設との「共同発表」が行われた。この文書で、 中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する。(傍点引用者) と明記し、先の「公開書簡」について話し合い、「問題の早期解決をめざす」とした。  だがその後すぐ、賠償は認められない、供養料として一億円以下を出すことはありえる、記念館の設立は絶対に認めないと答えてきた。「謝罪」についても、「遺憾」の意味であり、「日中共同声明」により中国側の戦争賠償請求権は放棄されている、と鹿島は言い続けた。担当役員の判断が覆えされたのである。  九三年には、焼却されたと言われていた『華人労務者就労事情調査報告書』(一九四六年三月一日、いわゆる外務省報告書)が発見され、日本政府と土木、炭鉱、港湾関係企業が一体となって行われた中国人強制労働の実態の多く―鹿島組も含まれる―が明らかになった。だが鹿島の対応は変らなかった。  九五年三月七日、中国の全国人民代表大会で、銭其?副総理・外交部長は劉彩品代表(中国科学院・紫金山天文台研究員)から質問を受け「中日共同声明における日本国の戦争賠償請求の放棄には、個人賠償は含まれていない。中国人民が個人で日本政府への賠償請求権を行使するのを、中国政府としては阻止も干渉もしない」と答えた。五年間にわたる鹿島の拒絶、中国政府による個人の賠償請求権を認める声明、この二つを支えに、新美弁護上たちは耿諄さんに裁判を勧めた。耿諄さんは同意し、同年六月、一一人の原告団で東京地裁に提訴した((註、一二八頁))。新美弁護士がこの裁判で立てた論点は、ローマ法に遡って、奴隷に対しても使用者に安全配慮義務がある、というものであった。新美氏は『国家の責任と人権』(桐原書店、二〇〇六年)において、「私がこの花岡の裁判を、訴訟という形で行ったのは一九九五年の六月です」と述べ、いかに安全配慮義務違反という法律の枠組での理論を作っていったかを誇っている。新美氏にとって、「代理人として私が考えた訴訟」ではなく、「私が、訴訟という形で行ったのは」になっている。主体は私である。だが遠い中国の内陸で、「討回歴史公道」をひたすら望む耿諄さんたちにとって、人道にもとる虐殺を擦り替える司法の理屈など、どうでもよかったであろう。中国人受難者が問題にしていたのは、日本の裁判所を裁判所たらしめている日本の文化であった、と思われる。  東京地裁(園部秀穂裁判長)は証人審査にも入らず、訴追期間二〇年を過ぎているとして、九七年一二月、原告の訴えを斥けた。直ちに東京高裁に控訴申し立てが行われ、翌年七月から公判が始ったが、やはり労工原告の証人尋問さえないまま、九九年六月、新村正人裁判長は協議に入ると告げ、その後、和解の話に移っていった。  八月一一日、北京で新美弁護士らが耿諄さんと会った。新美氏は和解を強く勧めた。耿諄さんはこの時も、三つの要求にもどり、鹿島の謝罪がなければならないと念をおしている。この後、新美弁護士より「日中は遠いので、全権委任してほしい」と要請され、一一人の原告がサインしている。  それから東京での協議は回を重ね、二〇〇〇年四月二一日、裁判所は和解勧告書を出した。それを持って、新美隆、田中宏氏らが北京に飛び、前回と同じように耿諄さんらと会議をもった。この時、代理人らが原告らに示した和解勧告書(中国語訳)のコピーが私の手元にある。 (一)当事者双方は九〇・七・五の「共同発表」を再確認する。 (二)被控訴人鹿島は上述「共同発表」第二項の問題を解決するため、利害関係人中国紅十字会に五億円を信託することに同意、中国紅十字会が利害関係人として和解に参加する。 (三)前項信託金は、日中友好の観点に立ち、花岡鉱山現場受難者の慰霊及び追悼活動、受難者及びその遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動経費に充てる。(中略) (四)本件和解が花岡事件について全ての未解決問題の解決を図るものである。およびそのことを担保する具体的方法を和解条項に明記する。(具体的条項は更に検討する)〈中国語訳から翻訳>  ここには、後の二〇〇〇年一一月二九日、実際にかわされる「和解条項」に入っていた重要な文章が入っていない。第一項、「「共同発表」を再確認する」に続く、「ただし、被控訴人は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了解した」が書かれていない。  鹿島は「共同発表」後、常に法的責任はないと言っている。「共同発表」はしてしまったものの、法的責任はないという主張によって、「共同発表」に書かれた「企業としても責任が有ると認識」や「深甚な謝罪の意を表明」も否定したいという意思を伝え続けている。新美弁護士たちも、それを十二分に知っていた。知っていながら、和解を成立させたいために、曖昧にしてきたところがある。  その陰影を察知するが故に、耿諄さんは弁護士たちの報告を黙って聞いた後、いつも「謝罪が第一です」と言ってきた。九九年八月、北京で新美氏たちと会った時も、謝罪の文章なく鹿島の主張に同意しようとする新美氏たちに対し、「それならば、共同発表の確認に立ってと書くべきだ。共同発表の全文を載せるべきだ」と厳しく伝えていた。だが代理人たちは耿諄さんのぎりぎりの心情を理解することなく、「共同発表の確認」という文章を入れるという外見のみを採ろうとした。和解直前の一一月一九日、「直接報告を受けたい」との原告の強い要請でもたれた北京の会議において、付け加えられた文言(「法的責任を認める趣旨のものでない」)について説明されていない。  「討回歴史公道」  耿諄さんら原告に渡された中国語の「和解勧告書」には、他にも大きな問題があった。耿諄さんの「公開書簡」の第二項、後世への歴史教育のための「花岡殉難烈士記念館」の建設が書かれていなかった。耿諄さんは「謝罪が第一である。記念館建設は希望する。賠償の額は譲歩してもよい。金額は鹿島が中国人の命をどう考えているかを示す、自らに恥じないようにすればよい」と結論を述べた。こうして善処することが話された上で、先の中国文の「和解勧告書」に対し、同意書を出したのだった。  八月下旬、記念館建設を主張する―謝罪は書かれると信じきっていた―耿諄さんを、再び説得しに鄭州までやってきた新美氏らに、耿諄さんはこう尋ねたという。(旻子『尊厳』より)  「もし裁判に負けたら、弁護団にはどんな損害があるのですか」  「いや、何の損害もない」と新美氏。  耿諄さん、「もし、弁護団にも何の影響も無いのなら、裁判に負けよう、たとえ負けても妥協しません。歴史的に私たちが踏みとどまるなら、我々は道義の上では勝利したことになります」……「たとえ裁判で敗訴しても、政治的、歴史的には勝訴したことになり、百年後でも私たちは彼らの罪行を暴露する権利があるのです」  耿諄さんの考え方、生き方は一貫していた。ここで新美、田中、林氏たちは考えなければならなかったはずだ。<この様な世界観において、花岡の労工たちは苦難に耐え、死んでいったのだ。この様な歴史観において、生存の可能性のない蜂起が行われたのだ。自分たちだったら、とても蜂起していないであろう。この老人は鹿島裁判を再度の花岡蜂起として闘っている>と。だが日本の法廷に親しんできた人たちの心には、耿諄さんの言葉は届かなかった。  一一月一六日、耿諄さんは「会に告げる」手紙を書いている。「我が花岡事件原告団一一人のうち、不幸にも数人が相次いで世を去った。今日の集りにはその息子や娘たちが参加しているので、私は訴訟の経過を記し、新しい参加者の参考にしようと思う」と書き出し、公開書簡の全文を紹介し、「記念館を建てることは、歴史の象徴であり、歴史から教訓を汲み取り、次代の人々を教育し、本当の意味で中日両国が世代を越えて友好を促進するためのものだから、記念館の設立は特に重要である」と結んでいる。  一一月一八日、林伯耀氏は外事部門の元幹部を連れて耿諄さんに会い、鹿島に記念館を建てさせるのは断念するように強く説得した。国民党軍の将校であったため、文革のあいだ反革命分子として弾圧された耿諄さんにとって、共産党幹部による説得は圧力と感じられた。さらに林氏は、「新美先生はこの事で悩み、心臓病が悪くなった」とも言ったという。いつも他者の苦しみを共に苦しもうとする耿諄さんの性格を知って、そんな言い方をしたのだ。耿諄さんは同意しないけれども、黙るより他なかった。  先に述べたように翌一九日、北京のホテルで新美隆弁護士は原告たちに和解文について説明した。この時、鹿島が第一項に続けた重要な文章についても、賠償金でないという説明もなかった。  結局、原告たちと弁護団との最終会議では、鹿島から信託された五億円を運用する「花岡平和友好基金」を作り、新美隆、田中宏、林伯耀氏らが入った五名の基金委員会で管理するといった新美弁護士の実務的な提案を軸に話しあわれた。新美氏は最終的にかわされる和解条項を原告に渡すことも、読みあげることもなかった。老人はともかくこれで自分の使命は終ったと思い、「私は今後の活動に参加しない。いかなる通知も不必要です」と述べた。  その後、田中宏氏が耿諄さんに揮毫(きごう)を求めた。彼は静かに筆をとり、「討回歴史公道 維護人類尊厳 促進中日友好 維護世界和平」としたためた(歴史の公道を取り戻し、人間の尊厳を守ろう。中日友好を促進し、世界平和を推進しよう)。  「討回歴史公道」「公開書簡」以来、耿諄さんを支えてきた一筋の道である歴史の公道の途上には、日本政府と鹿島の心からの謝罪と、その反省を後の世代と日々行っていくために二つの記念館が建っているはずだった。加害者による戦争犯罪記念館はアジアにひとつもない。花岡記念館はその最初のものになるはずだった。だがその思いは理解されなかった。自分は老いて去っていくが、それでも歴史公道は続く。歴史公道に向って、人間の尊厳を守る生き方をしていこう。そんな希望をこめた書であった。  弁護士に踊らされたマスコミ  和解は二〇〇〇年一一月二九日午後二時、東京で発表された。和解文(和解条項)に謝罪の言葉はなく、第一項には、耿諄さんたちに知らされることのなかった、「ただし、被控訴人は、右『共同発表』は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものでない旨主張し、控訴人らはこれを了解した」という文章が続いていた。五億円の信託全は「慰霊等の念の表明」と明記され、賠償金でないことを伝えていた。他の八割をしめる文章は信託全の管理についてであり、今後、花岡事件について「補償等の請求」があっても、「利害関係人及び控訴人らにおいて責任をもってこれを解決し、被控訴人に何らの負担をさせないことを約束する」と結ばれていた。原告団長である耿諄さんは九八五人を引き連れて、鹿島に何らの負担をさせない約束をさせられていたのだった。  新美隆弁護士はその日の声明文「和解成立にあたって」で、「但し書きで、法的責任について触れていますが、これは、鹿島建設側が当初、法的責任を認めた趣旨のものでないことの確認を求めて来たのに対し、これが拒否された上で表現されたものであって、法的責任のないことを認めたものではありません。(中略)この条項の但し書きは、共同発表の訴訟上の和解での再確認とともに、画期的なものと言えます」と述べている。意味不明な文章であり、何か画期的なのか、分らない。だが日本のマスコミ各社は、新美氏らの「画期的」に躍らされ、原告代表の耿諄さんに和解文を見せてコメントをとることもなく、「戦後補償で最高額」と金額を強調する報道を繰り返した。だが、これは決して「補償」ではなかった。例えば毎日新聞(一一月二九日付夕刊)は、和解案の主な内容は、「強制連行の事実と企業責任を認め謝罪した一九九〇年七月の共同声明を確認する」と書いているが、和解文にはどこにも「強制連行の事実と企業責任を認め謝罪した」とは書かれていない。  鹿島建設も同時に「花岡事案和解に関するコメント」を出し、「当社は提起された訴訟内容については当社に法的責任はないことを前提に、和解協議を続けてまいりました」、「なお、本基金の拠出は、補償や賠償の性格を含むものではありません」と簡潔に述べていた。鹿島の構えは一貫していた。  新村正人裁判長らも同日、「所感」を発表し、控訴人と被控訴人の主張を整理した上、「二十世紀がその終焉を迎えるに当たり、花岡事件がこれを一にして和解により解決することはまことに意義のあること」と、安っぽい詠嘆によって自画自讃したのであった。  しかもこの「所感のコピー」はさらに欺瞞を重ねる。二日後の一二月一日、「中国人強制連行を考える会」などが開いた「花岡勝利緊急報告集会」、そこで配られた、拳をふりあげた耿諄のカットを表紙におく資料集のなかの「所感」では、裁判官によってまとめられた両者の主張の部分が紙を張って白抜きでコピーされていた。一日しか時間がなかったため、「所感」を圧縮することができなかったのであろう。控訴人の主張の要約に続く文章、「被控訴人の主張の基調は、花岡出張所における生活については、戦争中の日本国内の社会的・経済的状況に起因するもので、被控訴人は国が定めた詳細な処遇規準の下で食糧面等各般において最大限の配慮を尽しており、なお、戦争に伴う事象については昭和四七年の日中共同声明によりすでに解決された等というものである」が、不自然に白く空けられていた。だが裁判官の「所感」そのものは、鹿島の弁明が一貫していたことを確認していた。 所感 控訴人らは平成七年(一九九五年)六月二八日東京地方裁判所に本件損害賠償請求訴訟を提起し、被控訴人はその法的責任を争ってきた。 (中略) 控訴審である当裁判所は、このような主張の対立の下で事実関係及び被控訴人の法的責任の有無を解明するため審理を重ねて来たが、控訴人らの被った労苦が計り知れないものであることに思いを致し、被  さらに朝日新聞や毎日新聞などに、一二月五日、耿諄さんの先の書「討回歴史公道」が歓喜の文として紹介された。なぜか、長く中国語を教えていた田中宏教授の訳文では、「歴史の公道を取り戻し、人間の尊厳は守られた。中日友好を促進し、世界平和を推進しよう」になっていた(傍点は筆者)。あれほど耿諄さんが大切にしてきた「人間の尊厳」は、この和解によって完了したと訳されたのであった。  こうして日本のマスコミが画期的と騒ぎ、新美隆弁護士や「中国人強制連行を考える会」の田中宏教授を持て囃しているころ、耿諄さんは日本留学中の息子の耿碩宇さんより和解文について連絡があり、「編された」と知ってそのまま倒れ起き上れなくなっていた。耿碩宇さんは東京高裁に「原告が和解文を見ていないので、和解はされていない」という手紙を送った。だが日本のマスコミは中国人原告に取材せずに、その後も代理人偏の意見を流し続け、報道機関としての基本を忘れた。  被害者の思いを軽視  夕暮が迫ってきたころ、耿諄さんはこう結んだ。  「日本の弁護士を正義感をもつ人、鹿島を訴えることのできる勇気ある人と信頼していた。金額は減ったが、三つの要求の基本は合意されると聞いていた。しかし和解文を見せてくれることはなかった。  その後、文章を見て、怒りのあまり倒れ、しばらく点滴を受けていた。三つの要求、すべて否定されていた。責任なし、記念館は造らない、五億円も賠償でないとなっている。すべて裁判は失敗した。私たちは裏切られた。『屈辱的和解』に反対すると何度も言ってきた(二〇〇一年八月の表明。○三年三月一四日の抗議文「厳正に表明する」―章末資料I、一三〇頁)。だが中国紅十字会はカネを受け取った。他人がカネを受け取るのは自由だが、私は認めない。新美、田中は中国人を騙した。五億は寄付だった。私たちは謝罪を求めていたのに、侮辱した。新美は中日を移動し、大変だと言っていた。私たちは最後まで信じてきたのに」  九三歳の老人は書を親しむ大机に手をおいて、「この歳なので、これ以上かかわれない。花岡事件は、私にとってもう終った。私は今日話し、明日死ぬかもしれない。死んだ多くの人のため、謝罪を求める責任が私にはあった。それをした。裁判を起こし、訴えた。すべきことをしたので、今は心穏やかだ」と語った。  そして「欣慰(シンウェイ)」と書いた。「こんなに思いの全てをあなたに打ちあけた。今日の心持ちは欣慰(喜んで安心する思い)だ」と。  それから家族皆に送られて、私は車に乗り込んだ。黒い綿入れを着た白髭の耿諄さんが、いつまでも門の前に立って見送っていた。私は中原の日没、迫ってくる黒い雲と乾いた大地の隙間を走り抜けながら、八時間の対話を終え、何かしなければならない、と思っていた。  帰国して、田中宏教授(龍谷大学)ら裁判の支後者に鹿島との和解について説明を求めたが、それぞれ黙り込むばかりだった。花岡事件の六二周忌が近付いてくる前に、耿諄さんの思いを伝えねばならないと考え、毎日新聞(○七年六月一九日付夕刊)に「謝罪なき和解に無念の中国人原告―花岡事件が残した問題」という文章を書いた。この発表の後、田中宏教授は私と面識があるのに、なぜか戦後補償ネットワークの有光健さんを通して、林伯耀氏と二人で会って話したいと伝えてきた。弁明の内容は「直前に北京に出向いて骨子を示し、耿諄さんらの了承を得た」というものだったが、和解条項を見せたとも読んだとも言わなかった。それよりも、二時間ほどの会話の後半、林氏が「耿諄はすっかり英雄になったつもりでいる」とか、「耿諄は中山寮で人を殺しており、苦しんでいるはずだ」と私に告げるのに驚いた。数分前まで、耿諄さんに書いてもらった書を見せ、いかに彼を尊敬しているか伝えていた人の言葉に、私は酷い虚しさを感じた。その後、かつての支後者が「耿諄は痴呆化しているそうだ」と言っているのも聞いた。  中国人による戦後補償の裁判は、耿諄さんがいたからこそ提訴され、彼の「討回歴史公道」の理念によって闘われた。原告たちも次々に亡くなり、生存していても弱って会議に出席できなくなり、ほとんど遺族の代理になっていた。被害者と遺族では、拉致に対する思いは質的に異なる。遺族は父親の外傷体験を想像できても、その切実性まで実感できない。にもかかわらず、田中氏らは今になって耿諄さんを過小評価しようとしている。  新美隆弁護士は二〇〇六年末、亡くなった。会って弁明を聞きたいが、不可能だ。だが、和解後、なぜ新美弁護士や「考える会」の代表である田中氏は耿諄さんの所に説明に行かなかったのだろう。  田中氏は「鹿島がこんなコメントを出さなければ、原告から批判されることはなかった」と弁明している。秘密交渉を外に出した相手が悪い、この姿勢は変っていない。鹿島が謝罪と反省の精神を持たないという一貫性と、よく対応している。新美氏亡き後、弁護団を代表している内田雅敏弁護士は、「和解内容は完全でなかったが、戦後補償を巡る問題の一つのステップとして私たちが受け入れ、原告の了解も得た」(七月一日付毎日新聞、秋田版)と述べている。いつも「私たち」が先にあり、代理人であることの自覚に乏しい。あれほど原告団長の強い反対意見を聞いていたのだから、「和解文を原告に見せ、鹿島の主張を十分に伝え、それでもなお原告の了解を得たので、私たちが和解を代理した」と言っているのではない。  和解後、様々な問題が起っている。花岡和解基金運営委員会の委員長である田中宏氏は、「和解が大きく報告されたこともあり、五百人近くの被害者(ほとんど遺族)が見つかり、一人約二五万円を渡してきた」と私に言った。それでは残余の三倫七五〇〇万円はどう使われているのか。北京の被害者代理人である康健弁護士らが公開を求めても、応えていない。  また同委員会がさかんに五億円の慰霊金を「賠償金」として宣伝するため、和解拒否の原告や遺族九人は孫靖弁護士を代理人として、北京市東城区法院に提訴し、「今後、賠償金という名称を一切使わない」という「覚え書き」を調印している(章末資料V、一四三頁)。  なぜこんなことが起り、なお起り続けるのか。  花岡和解問題はすでに終った問題ではない。日本の戦後補償について法律熟知者を自負する噺美隆弁護士、資金をもち飛びまわる林伯耀氏、粘り強く支後者をまとめる田中宏教授。この三人の相乗効果がこの結果を作ったものと考えられる。私は三人の善意を信じたい。だが、なぜ善意の人は被害当事者の話を聴くことが出来ないのか。耳で聞いても、精神において理解しないのか。相手の思いを軽視し、何度も何度も説得にかかったのか。  相手のためを思って、よりよい判断を「私」や「私たち」がする。この時、「私」本人は反発するであろうが、日本文化に根付く「各おの分をして、あらしめよ」という上下関係の社会観に立っている。この自覚は、戦争犯罪を検証しない戦後日本社会で育った者には極めて難しい。表面的に否定されているが故に、自らの内にある無自覚な社会観・人間観が相手に投影され、「この人たちも結局、どこかで妥協し、カネをもらっていくのが幸せなのだ」と確信して疑わない。「この人たち」とは、実は自分そのものの置き替えであることに気付かない。なにが幸せなのか、自分の幸せ観と相手の幸せ観の相違を重視しない。相違の発見にこそ、交流の喜びがあり、自分の人間観に気付く契機があるにもかかわらず、である。  反省は相手のためにするものではない。侵略戦争の反省も、私たちの社会を正常にしていく、他の社会と対等な交流が出来るようにしていく、ためである。  花岡和解問題は、弁護士や支後者の多くが耿諄さんの生き方を理解できなかったことにある。こんなに大切な他者を、本当に発見することができなかった。鹿島裁判に始まる戦後補償運動すべてが振り返らねばならない問題である。         * 註 鹿島提訴に到る経緯について、全人代の代表であった劉彩品教授から、二〇〇七年五月、次のような手紙をいただいた。 <耿諄さんは「彼らはよく裁判を支えてくれた」と野田さんに話したようですが、ある意味で、裁判をするシナリオを作ったのも日本人のような気がしています。 耿諄さんは「一九八九年一二月二二日にだした「鹿島建設に対する公開書簡」でわたくし遠の歴史使命は果たした」と言ったことかありました。またわたくしに、「劉老師、あなたがわたくし達に政府が支持してくれていることを感じさせたから、鹿島を訴えようという日本の人たちの話に応じたのだ」と、訴訟に踏み切った心中を語ったことかありました。どのように「中国政府が支持していると感じさせた」のかさだかではありませんが、当時中国の人民代表だった私は、人民代表大会で議論された個人賠償問題を花岡彼害者老人たちに紹介し、彼らが新美、田中、林三氏と大会会議中にわたくしを訪ねてきた時は、人民代表と記者を集めて、話をきいたり、また中国政府から個人賠債権は放棄していないという言葉を引き出したことがありました。 耿諄さんはさまざまな躊躇があったにもかかわらず、裁判に踏み切った途端に、自分で責任を負い、記者に訴えの理由を問われて、「討回公道」と堂々と立ち向かう態度を示しました。しかし、他の原告は必ずしも同じではなかった。原告の一人王敏さんは「耿諄が裁判をするというからね、勝てるのかね、勝てないならば裁判したくないよ」と「勝つ」ことを気にしていました。 実は当時のわたくしが取った行動は、日本の弁護士と日本の友人と恵っていた人たちの要請によるものでした。「勝てるか」を気にしていた老人たちにわたくしは「勝てないかもしれない」という自分の不安を彼らに話さなかった。結果的に日本人(支援グループ)の片棒をかっぎ、花岡老人を傷つけた一人です。> 資料I 耿諄原告団長による声明(関係者、マスコミなど、多くの人びとに宛てられた。) 厳正に表明する  二〇〇三年三月一〇日付け中国新聞網では、四月二日に「花岡蜂起の指導者・耿諄を含む河南省の花岡被害者及び遺族二〇余名が、それぞれ二五万円(約一・六万人民元)の賠償金を鄭州で受け取ることになった」と報じた。「花岡事件」の中国人強制労働被害者による賠償訴訟は、我が国ないし第二次世界大戦におけるアジア被害国の戦後対日訴訟の第一のものである。平頂山晩報も中国新聞網とほぼ同内容の記事を載せた。これは、人間性を失い中華民族の尊厳をも顧みず、ありもしない話をでっち挙げてことの是非を混交し、人々を惑わす報道をもって、私に和解の受け入れを強要する行為である。  これに対して私、耿諄は厳正に意思を表明する。私は、依然として屈辱的な和解に反対を表明し、恥知らずな鹿島の救済金受け取りを拒否する(但し、私本人に限る)。ただし、花岡の被害者には、各々自分の権利があり、受け取るか否かは本人の自由である。如何なる者もこれに干渉する権利はない。  耿諄は「花岡訴訟」の原告団長であるが、「和解」の正文に署名をしていないのだから、私に対して「和解」は無効である。  以下に「花岡事件」の過程を述べることをもって真相を明らかにしたい。  (一)中国人が強制的に日本に連行されて苦役に従事した過程の概況:一九四四年、日本軍は、中国の抗日戦 で捕えた軍人、および抗日根拠地で大掃討を実施した際に八路軍に通じているとの罪名で捕えた無辜の一般住民 のあわせて約千人を、前後して日本に連行した。途中で死亡した者を除いて九八六人が日本に到着し、秋田県花 岡町の鹿島組(現在の鹿島建設株式会社)事業所に送られて苦役に従事させられた。鹿島の残酷な処遇により、 わずか半年の間に死亡したものは四一八人に達した。  耿諄と苦難を共にした王敏らは、一九八九年一二月、鹿島に公開書簡を送って三項目の要求を行った。(1)被害者に鄭重な謝罪、(2)日本の大館と中国の北京の二箇所に死亡した人々を悼む記念館を建設、(3)九八六人の被害者あるいは遺族に一人五〇〇万円の補償を支払い受難の痛みを癒すこと。これを受けて、翌九〇年七月五日、双方は東京の鹿島本社で話しあった。鹿島の代表者・村上光春は、私たちの要求の第一項目に対して、その場で深く謝罪を表明した。第二、第三の項目については、双方が代表を派遣して協議を継続し、早期の解決を図ることを決定した。同時に「共同発表」を出したが、その後思いがけないことに鹿島はこの約束を反古にし、協議は中断したまま四年が経過した。そこで、協議には希望をもてないと判断し、耿諄ら一一人が原告団となって九八六人の利益を代表し、日本各界の有識者らの支援を得て新美隆を代表とする一六人の弁護団に委託し、九五年に東京地方裁判所に鹿島を提訴した。裁判所はこの案件を受理し、二年半の間に七回開廷されたが、証拠も取り上げず短時間の審理ですぐ休廷に入り、結局原告敗訴を宣告した。原告団は、公正さを欠いた判決に接して憤り、弁護団とともに東京高等裁判所に控訴した。高等裁判所はこの案件を受理し、九〇年の「共同発表」を基礎にして法廷外調停を行うとの提案を九九年に行った。  (二)原告団、調停を受け入れる:新美隆弁護団長は、原告団に対して次のように要求してきた。いわく、国境を越えた訴訟のため、往復はたいへん面倒だ。これを受けて原告団は、十分な信頼のもと弁護団に調停をすすめる全権を委託した。  (三)新美弁護団長は、原告団から全権委任を受けて鹿島との和解調停をとりまとめた。これを受けて二〇〇○年一一月一七日、北京のホテルで原告への報告集会が開かれた。そこでは、共同発表を基礎として鹿島が改めて謝罪し、五億円の賠償金を出して中国紅十字会がその管理・運営(配分)を引き受けるという和解条項が報告された。原告団はこれを受け入れ、特に異議は申し立てなかった。原告団は、弁護団に対する深い信頼から全く内容に疑いを特たず、厳密に和解文書の提示まで求めなかった。会議の雰囲気は和やかで、田中宏教授が和解成功の祝辞を書いてはどうかと提案したので、私は求めに応じて次のように揮毫した。「歴史の公道を取り戻し人間の尊厳を守ろう 中日の友好を促進し 世界の平和を推進しよう」。北京からは中国紅十字会の幹部である張虎も参加していた。  (四)花岡事件が決着をみれば、余生を安らかに過ごせる。散会のまえに、耿諄は次のように提案した。新聞などに速やかに被害者を探す記事を載せること、紅十字会は千人の名簿にもとづいて花岡被害者・遺族がいる地の紅十字会に調査をさせ、該当者に証明書を持たせて北京で賠償金を受け取らせること、と。  私は、他の九八五人全員が受け取った後に賠償金を受け取り、もし一人でも受け取らなければ自分は受け取らない旨を表明した。また、人生も残りわずかとなり体も極度に衰弱してきたので、この事件に聞する会議や活動にこれ以後は参加しないことも話したが、これに異議を表明する者はなく、会議は夕刻散会した。  (五)帰宅後しばらくして、日本から「和解条項」の文書と鹿島のコメントが送られてきた。それを読んだ私は、怒髪天を衝き、胸がはち切れんばかりとなって朦朧となり、昏倒して病院に担ぎ込まれた。  (六)花岡訴訟は「和解」で完全に失敗した。それを思う度に、胸を鋭利な刃物で突き刺されたような痛みを覚える。  「和解」に列挙されている各条項は、みな被害者に足かせをはめることばかり規定している。それは、九〇年の謝罪さえもご破算にするもので、記念館の建設については、一字も触れてはいない。僅かに五徳円は出すものの、賠償でも補償の性質を含むものでもないと称している。  気骨のある中国人で、この仕打ちに対して、この上ない恥辱と悔恨を感じない者がいるだろうか? 和解の内実は会議で新美が説明した内容とまったく異なる。私は、和解に断固反対し、金の受け取りを拒否することを誓う。このような「和解」は、私には無効である。  (七)鹿島は、そのコメントの中で、中国人強制連行被害者を殺害したことには二言も触れていない。反対に自らを慈善家と任じて、どうあっても過ちを認めようとはせず、恥というものを知らない。  (八)いま振り返ってみれば、このような結果になったのは、私には人を見る目がないため欺かれ、利益を売り渡され、取り返しのつかない失敗をしてしまったからである。この責任は私が取らなければならない。本来、もうこの件には関わらないと決めていたのだが、思いがけず、民族の尊厳を失わしめる「和解」と恥知らずな鹿島の救済金の受け入れを迫られてきた。私はこれら脅迫者にはっきりと警告することにした。私は、九〇歳の老骨といえども人間性を失ったこれら卑劣な輩には断固として反撃する。  (九)日本各界の賢明な人々が「花岡事件」に一貫して大きな支持を寄せて下さり、中日間の伝統的な友好に尽力され、中日両国人民の深い友誼を打ち立てた。私は前後七回の訪日でこのことに深い感銘を受けた。  在日の華僑が祖国を熱愛し「花岡事件」へ力を尽くして支持をくださったことに、花岡被害者及び遺族は心から感謝している。 耿諄 二〇〇三年三月一四日 資料U  花岡「和解」を拒否した原告の孫力さんによる公開書簡。孫力さんは父親、孫基武さんを花岡・共楽館前広場で殺害された。孫さんは江西省石油総公司南昌市公司共産党委員会弁公室秘書(課長級)の職にあり、会議内容を正確に記録するのを習慣としてきた。そこで、二〇〇〇年一一月一九日、日本人弁護士が原告団に説明した「和解条項」内容の記録を発表し、鹿島による法的責任否認などの説明が隠されたことを証明しようとした。公開書簡は多くの関係者に宛てられた。 U―1 孫力による新美弁護士の説明記録文章 「和解条項について説明します。  一九九〇年七月五日の「共同発表」の精神に則り、当初の「公開書簡」の問題を解決するため、鹿島は中国紅十字に対し信託金として五億円を信託し、「花岡平和友好基金」を創立する。また同基金の適正な管理運用を目的として「花岡平和友好基金管理委員会」を設置する。メンバーは原告側が選任する五人とするが、鹿島側が希望すれば一人については鹿島側が指名することができる。  同基金は中日友好を基礎として踏まえ運用される。被害者およびその遺族は管理委員会に対し、信託金の支払いを求めることができる。信託金の被委託者と管理委員会は、支払いを受ける受益者に対し説明を行う。管理委員会はその目的を果たしたと思われた時、その役割を終える。  花岡事件の和解案は、花岡事件について全ての懸案の解決を図るものであるため、今後は被告にさらに権益を請求することはできない。  ここで、一一月一〇日の交渉で鹿島側は「共同発表」という文字を削除するよう求めたことを説明しておきたい。我々は、「共同発表」は花岡事件の歴史に関する文書であり、その内容は歴史的事実の承認が含まれ、中心となる精神であるため、「共同発表」という文字は削除することはできないと考えている。  また前回の和解案(和解勧告書)と基本的に同じ内容であり、今度はサインや捺印をする必要がない。」 U―2 孫力の抗議文  孫力さんは、二〇〇一年六月三〇日に開かれる秋田県花岡での記念式典に出席する予定だったが、拒否された。そのため中国・石家庄で聞かれた「花岡事件五六周年記念フォーラム」において、次の声明文を公表した。  花岡事件「和解」の欺謀を告発する  二〇〇〇年一一月二九日、日本で出された花岡事件の「和解条項」は、原告には知らせることがないまま、鹿島と裁判所、弁護士が共同して画策し、つくりあげたものだ。  一審が敗訴となり、二審は六回開廷して審議未了のまま、法廷は和解方式での解決を提案し、同時に原告に対して「和解勧告書」を提示した。弁護士は原告に十分な説明を行うと同時に、それが九〇年七月五日の当事者双方による「共同発表」を基礎としたものであるから、原告の政治的目標は達せられていると繰り返し強調した。原告たちはこのような説明を受けて、「共同発表」の原則とは鹿島が歴史的事実を認め、賠償、謝罪に応じ、企業責任を負うものであることから、こうした原則が再度確認されるのなら、賠償全額が幾らか少なかったとしても、弁護士を信頼し、譲歩して和解には同意する意向を表明し、「勧告書」とは別の紙に署名・捺印した。様々な事情があって当日参加できなかった原告には、人を派遣して各家を回って署名・捺印を求めた。その際、弁護士は原告に対して、和解交渉の過程で生じる問題に対して随時対応できるようにするため「全権委任状」を書く必要があると言った。一同は弁護士に対する信頼と、交渉が円滑に進むためという思いから「全権委任状」に署名・捺印した。  二〇〇〇年一一月一九日、北京での原告との会合で、弁護士は一同に、これが最後の報告です、主として皆さんに一一月一七日に達成された和解の具体的内容について報告します、事実上、「勧告書」の内容とほぼ同じです、と言った。彼は、「前回の和解案(勧告書を指す)と内容は基本的に一致していますから、再度の著名、捺印の必要はありません」と言った。その日の午後、更に一同に「和解達成はもうすぐです。みなさんの気持ちを表す為に、書をしたためて、そこに全員署名しましょう。私はそれを国内に待ち帰り、皆さんのお気持ちを伝えます」と言った。彼のすすめと誘導、働きかけで、一同はあの揮毫をまとめあげ、参加者全員が署名した。  二〇〇〇年一一月二九日に日本で公表された花岡事件の「和解条項」と、同日に発表された鹿島の「コメント」を、私は一二月の初めになってようやく、中国人留学生か中国語に訳した書面で目にした。その瞬間、驚いて雷に打たれたかのようだった。署名・捺印・全権委任状、揮毫という原告への三度にわたる要求は、すべて緻密に画策されたものであり、最終的に「和解条項」を世に送り出すための事前準備であったとはじめて分かった。  この「和解条項」は、受難者が一九八九年一二月二二日に発表した「公開書簡」、および当事者双方が交わした一九九〇年七月五日の「共同発表」の趣旨とは、完全に相反しており、明らかに鹿島寄りで、鹿島を免責するものであり、中国人の顔に泥を塗ったものだ。五六年前に内外を震撼させた「花岡蜂起」の義挙を「いわゆる花岡事件」と称して汚辱している。鹿島が法的責任を認めないことに対して原告はこれに「異論」が無いことになっているし、いかなる時、いかなる地域でも鹿島の罪を追究することを放棄し、以後は鹿島に「否」と言ってはならず、再度債権・債務問題を提起してはならないなどとある。なんと荒唐無稽なことだろうか。これは被害者の身を完全に売り渡す契約書だ。このような条項に原告が署名したと誰が信じるだろうか。「和解条項」に呼応するように発表された鹿島の「コメント」は、花岡九八六人の労工を迫害し、そのうち四一八人もの人を虐殺し、殴り殺した罪には全く懺悔の気持ち加なく、歴史的事実と血腥(ちなまぐさ)い罪を極力歪曲し否認するものである。私の父・孫基武は花岡蜂起が失敗して捕まえられた後、大館市花岡町の共楽館前広場で生きながらにして殴り殺された。にもかかわらず、鹿島は「誠意をもって最大限の配慮を尽くしましたが、多くの方が病気で亡くな」ったと世人を偏した。動かし難い証拠は山のようにあり、罪を逃れることはできないし、法的責任を回避することは許されない。五億円で四一八人の命をあがなえるのか。さらにこれは拠出金であり、救済でもって、賠償や補償の性質を含むものではないとある。これこそ中国人に対するこのうえない侮辱である。  私は重ねて表明する:原告の一人として二〇〇〇年一一月二九日に公表された「和解条項」の全文については、事前に弁護士から説明を受けてはいないし、弁護士は中国語の文面資料を提供しなかったし、さらにこの「和解条項」に署名・捺印もしていない。彼らは巧妙にも、原告を馳して「勧告書」へ署名・捺印をさせて、それを「和解条項」の署名・捺印にすり替えた。私は、被害者の根本的利益を売り渡し、中国人に屈辱を与える「和解条項」を認めず、断固として反対する。この「条項」は全く法的効力のないものだ。全ての原告は真相が知らされなかったのだ。  花岡蜂起五六周年を迎えるに当たって、私は悲痛な思いで父を偲び、同時に鹿島に殺害された全ての労工先人に哀悼の意を捧げる。あなた方の魂がこの和解を知ったならば、この世の不正義に対して悲鳴と叫びを発していることだろう。罪もなく殺されたあなた方の魂が黄泉の国でも永遠に心安らかに眠れるように、我々は必ず鹿島に対してその血の債務を取り返し、そして花岡事件の歴史的真実を取り戻すのだ。  鹿島との闘争は長期にわたって錯綜し、その道は決して平坦ではないだろう。私は堅い信念と決意をもって、正義の中日人民と世界の平和を愛する人々とともに、鹿島と最後まで闘い続ける。  中国人民を虐げ侮辱するのを許さない。 花岡事件損害賠償訴訟 原告 花岡事件受雑者連誼会 幹事 孫力 二〇〇一年六月二五日  なお、和解を拒否する遺族らによる「日本政府・企業による中国人強制労働の罪責を追求し続ける連誼会(準備会)」(会長、魯堂鎖)も、声明をあげている。 U―3 花岡訴訟原告弁護団弁護士への公開書簡  さらに、孫力さんは一年問、新美弁護士らに釈明を求めたが、連絡がないことを公開書簡で明らかにした。  新美隆弁護士及び弁護団の先生方へ  私は、原告の一人として、昨年一一月二九日に東京高等裁判所で結ばれたいわゆる花岡和解を決して受け入れることができません。  私の考えは原告団会議の場で繰り返し申し出ていましたが、先生方は私の意見を無視され、裁判所にも報告せず、外部にも公開しないできました。やむを得ず、私は、今年の六月二五日に「花岡事件『和解』の欺瞞を告発する」という声明文を発表し、中日両国のマスコミに報道されました。しかし、先生方からは相変わらず何の反応をも得られていません。八月九日、北京で「花岡受難者連誼会」の幹事会が聞かれた時、先生方は北京にいらしたにもかかわらず、会議には出席されませんでした。私は、通訳に先生方との話し合いを要求する旨を伝えてもらいましたが、拒否されました。原告の弁護士として、職責を果そうとしないでいることの理由は、単に職務上の「怠慢」だけなのか、それとも他に何か言えないことがあるのでしょうか。  早くも「和解」から一年になろうとしています。一九九九年八月一三日、先生方が鹿島に企業責任を認めさせると約束し、原告側に「全権委任書」を要求した時のことはいまでも鮮明に覚えています。しかし、「和解条項」では鹿島は企業責任を認めていないにもかかわらず、先生方は原告に代わってそれを「了解」しました。原告弁護士として、このような原則に関わる問題に関して、原告に報告もせず、当然原告の意見を聞くことなく、独断的に決定を下し、むしろ被告側鹿島の方に肩入れしています。このようなやり方は、職業倫理に反する行為なのではありませんか。  ここで、幾つか質問をしたいと思います。これまでのようにひたすら回答を引き伸ばしたりされず、真摯な態度で答えてくださるよう願っています。  第一に、「和解」成立前、「和解条項」の原文を原告側に示さず、十分な説明をも怠ったことは、原告側が和解の内容を知ったならば、必ずこの被告鹿島にのみ有利な和解を拒否することになったからではないでしょうか。  第二に、「和解」成立後、「和解条項」、裁判官の「所感」、及び鹿島のコメントについて、いち早く原告側に報告・説明すべきではなかったのでしょうか。どういった考えからそれを遅らせたのか、そして実際どのように報告・説明をしたのでしょうか。  第三に、原告の利益を代表・守る立場でなければならない弁護士として、なぜ鹿鳥側の劣悪な態度を放任したのでしょうか。花岡受難者連誼会幹事の耽碩宇の強い要請を顧みず、逆に鹿島に感謝の意を表したのはなぜなのでしょうか。  第四に、原告と花岡受難者連誼会に見られた「和解」への反対意見、耿諄氏の談話、私・孫力の声明に関して、先生方は無視されつづけ、いかなる措置をも取らないおつもりなのでしょうか。  第五に、この「和解」によってもたらされた看過できない結果のひとつとしては、「和解」を受け入れた被害者とそうでない被害者とを激しく対立させる可能性を孕んでいることであります。被害者同士がお互いに争い、加害者である鹿島が漁夫の利を占める、という事態に対し、弁護士としては何らの責任をも取らないおつもりなのでしょうか。  この「和解」は、花岡被害者やその遺族だけでなく、すべての中国人民に対する侮辱であります。「和解」内容にショックを受けた耿諄氏は卒倒し、私の兄も脳卒中などを患いました。事実を知っていた周りの友人たちで憤慨していない人は一人もいません。さらに、北京から河南省の耿諄宅に「良心を売り渡した奴」との抗議の声も投げかけられました。原告らは無実です。先生方は、原告らが「和解」の内容を知らなかった事実を明らかにすべきではないでしょうか。  ここで、私は再び通告します。二〇〇〇年一一月二九日に成立した「和解条項」の全文は、原告の一人である私に対して説明されることはなく、中国語の文面も日本語の文面も見たことがありませんでした。当然「和解条項」に同意し署名をしたこともありません。したがって、花岡被害者の根本的利益を裏切り、中国人を侮辱した「和解条項」を認めません。この「和解」は法的効力を有しません。私は、次のように要求します。迅速に有効な措置を取って、裁判所に通告し、審議を再開すること。歴史の真実を正しく記録し、善悪を明らかにすることによって、死者の霊を慰め、生きている人に希望を与える結果をだすこと。  上述の二点に対して、本年一二月二九日までに公開回答を提出されますことを要求します。私は、得られた回答に基づいて、中日両国、特に日本の弁護士界に法的支援を申し入れるか否かを決め、自身の上告を申し立てる権利を断じて守るつもりでいます。正義を取り戻すため、平和を愛する中日両国人民、及び各国の平和勢力と協力し合って、鹿島から勝利を勝ち取るまで闘いつづけます。 花岡事件訴訟原告:孫力 二〇〇一年一一月二六日 (資料T、Uとも、山邉悠喜子・張宏波訳) (資料Uは「人民日報」インターネット版、人民綱日文版、「民間戦後補償」のページに掲載されている。)  討論の結果、多数決で和解が決ったのであれば、耿諄さんらは「騙された」とは考えなかったであろう。  この公開書簡は、中国紅十字総会、東京高等裁判所、中日両国のマスコミに同時送付された。  耿諄、孫力さんの声明は、代理人弁護士らが「和解条項」を見せず、重要なただし書きを故意に隠したことをはっきり伝えている。「和解条項」を見せ、原告団で討論が行われていれば、このような不信に到ることはなかったであろう。原告だけでなく誰もが和解内容について論評することは言論の自由のなかにあるが、代理人が原告団に「和解条項」を見せなかったことは、背信の問題である。 資料V  花岡訴訟一一人の原告のうち「和解」を拒否した一人である孫力さんや他の遺族(合せて九人)の代理人、孫靖弁護士らは、二〇〇三年一二月一〇日、信託法に基づいて中国紅十字総会を北京市東城区法院に提訴した。東城区法院はすぐに北京高級人民法院(高裁)に報告した。高級法院が動き出したため、一二月二二日、二九日の二回にわたって、孫靖弁護士らと、花岡基金管理委員会の事務局長・張虎氏、紅十字総会の代表として対外連絡部長・王小華氏、紅十字会の顧問弁護士・孫安源氏とが交渉を持った。代理人の孫靖弁護士らは、紅十字会が信託された利害関係人であるが故に、この交渉が法的関係に基づいた交渉であるとことわって、交渉に入った。その結果、次のような内容で合意した。 「一、当分のあいだ、基金の支給業務に終了期限を設けないこと。  二、中国紅十字会および花岡平和友好基金管理委員会は、今後基金の管理・支給事業において、またメディアに対して「賠償金」という表現を使用しないこと。  三、基金委員会の財務管理に関しては監査制度がある。今後、積極的に基金の受益人らの意見に耳を傾けていくと同時に、適切な時期に受益人らに基金の管理・支給事業など関連事項を報告するようにする。」  会談の覚え書き(会談紀要)は二〇〇四年一月一三日に調印され、正本は紅十字会と基金管理委員会に一部ずつ、孫力さんら九人に一部ずつ渡っている。提訴されたが、法廷が開かれる前に紅十字会と基金委員会が訴えの内容をすべて受け入れたのだった。しかし今なお、田中氏らは「賠償金」と書き続けている。基金の経理も公表されていない。