Previous/阿部政雄 阿部政雄1999 日本の未来像と教育基本法

私が「教育基本法」を初めて読んだのは、実は1985年の春頃でした。丁度、前年に新渡戸稲造博士の肖像が五千円札に登場することになり、その年の末にNHKが「新渡戸稲造特集番組」を放映したおり、博士の名著『武士道』のアラビア語版が画面に映し出された時にはびっくりしました。アラブ問題を専門とする小生は早速、そのアラビア語版『武士道』を所持されている博士の孫、加藤武子さんを尾山台に訪れ、そのコピーをアラブの大使たちに紹介しするかたわら、新渡戸稲造全集を今一度、読みはじめたのでした。そして、目黒の国立教育図書館で、次の文章を読んだ時の感激は今でも忘れません。

「教育は、
人格の完成を目指し、
平和的国家及び社会の形成者として、
真理と正義を愛し、
個人の価値をたっとび、
勤労と責任を重んじ、
自主的精神に充ちた
心身ともに健康な国民の
育成を期して行なわなければならない。」

驚くほどの格調の高い教育方針が、日本の教育基本法の第一条の目的の中に明記されているではありませんか。さらに、その前文には、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にして、しかも個性ゆたかな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。」と書かれているのです。

正直言って、私はこの文章を読んだ時、この草案は、新渡戸博士が書いたのではないかと直感しました。昭和8年にカナダで客死した博士が書くはずがないのですが、私はそう思えたのです。そして、この私の直感は、その後かなり正解であったことは追々とわかってきました。それは、あの大戦直後の1946年に、この教育基本法を作った教育刷新委員会の中心人物は、安倍能成委員長、南原繁副委員長ら新渡戸山脈といわれるリベラリストたちで、新渡戸博士が生涯を通じて説いてやまなかった人格主義的教養主義が反映しているからです。

新渡戸稲造と教育基本法

先ず、何よりも強調したいことは、世界の教育界の”教育憲章”と呼ばれるのに相応しい日本の「教育基本法」は、教育改革会議の御用学者(学者?)が言うように、占領軍に押し付けられたものでなく、まごうかたなく、日本人自身の手によって制定されたものであることです。

日本憲法の精神に立脚した、人間の尊厳と自由に基づくこのような基本法を作ることができると言うことは、国際的にも通用する民主主義的な普遍の論理を作り上げる土壌、水脈が日本国民の歴史の中に脈々と流れていたことを示しています。われわれはこのことを誇りに思うと共にそうした伝統を大事にすべきです。

では、新渡戸稲造と教育基本法との間にどんな関係があったのでしょうか? それは、「この基本法の生みの親たる教育刷新委員会の委員38名中、新渡戸先生と浅からぬ関係にあったと推定出来る方々は、8人を下らないようである。安部能成(委員長)、南原繁(副委員長)、関口泰、天野貞裕、森戸辰男、河井道、上代たの、田島道治の諸氏である・・・・。」という教育基本法制定当時の文部省の学校教育局長で、東京大学教授だった日高第四郎氏の言にあるように、この基本法の直接の生みの親が、文学における漱石山脈と並び称せられる教育における新渡戸山脈に連なる人々だったからです。

新渡戸博士が第一高等学校の校長をしていた時代に実に多彩なリベラリストが輩出しました。数え上げればきりがありませんが、自由主義者の東大教授として追放処分にも屈せずファシズムに抵抗し、「「学生に与う」等の著書により学生の教育に影響を与えた河合栄治郎。(余談ですが、私が戦後国際交流に生き生きと活動できるようになったのは、戦時中の学徒動員中に夢中になって読んだ彼の『学生叢書』のお陰ですし、この叢書を通じて新渡戸博士の『我、大平洋の橋たらん』などを知っていました。)徳富盧花を一高に招き「謀反論」と言う演題で、幸徳秋水らを死刑にした時の政府を糾弾する演説をさせた河上丈太郎(戦後の日本社会党委員長)らの弁論部の学生を当時の文部省が問題にした時、学生にはいろいろな説を聞かせた方がいいと学生をかばったなど新渡戸博士のおおらかさ。戦後まもなく文相を勤めた前田多門、森戸辰男、田中耕太郎や矢内原忠雄東大総長らは一高校長時代の愛弟子です。こうしたエピソードをあげれば限りありません。

国会議員にこそ教育基本法を

-「恥をしること」で十分

「教育基本法改正」を叫ぶ教育改革国民会議の最終報告の中に「問題を起す子どもの 教育をあいまいにしない」と提案されていると聞きます。しかし、それには先ず「問題を起す国会議員への教育をあいまいにしない」というが大前提となるべきです。

面白いのは、新渡戸博士の随筆の中で、「代議士、弁護士、税理士はその言葉に士(さむらい)という文字を付けている以上、武士のもつ高い道徳を持つべきではないか」と指摘されていることです。国民から選ばれた名誉を考えるならば、国会議員たるもの「武士に二言はない」、「渇しても盗泉の水を飲まず」、「名誉を重んじる」、「知行合一」などという言う「日本の道徳や伝統文化の尊重」すべきなのです。しかし、日本の政界には「渇しても盗泉の水を飲まず」どころか、積極的に賄賂を要求したり、「この顔が嘘をつく顔に見えますか」などとシャ-シャーと嘘を言う大勲位の御仁もいることを考えると坂本竜馬が姉の乙女に送った手紙の文面の「日本の今一度洗濯をいたすべき」必要を感じます。

本当は、「修身斎家治国平天下」と言う大学にある言葉を噛み締めてほしいのですが、やくざとつきあったり、公金を横領してもテンとして恥じないセンセイたちには、余り難しい教育基本法はいりません。私が提案したのはただ一条。「恥を知る(名誉を大切にする)」と言うことだけです。

戦争と軍国主義教育の悲劇

私の生まれた昭和三年には張作霖の爆殺事件が起こり、三年後に満州事変が勃発、日本は軍国主義の路線をひた走ることになったのです。

新渡戸稲造博士も昭和六年松山市で、講演を前に「将来、日本を亡ぼすのは軍閥だ」とオフレコで新聞記者に話したことが(事実その通りになったのだが)、翌朝の愛媛新聞に大々的に報道され、国賊として右翼テロにねらわれるようになり、国際文化交流、世界平和をめざした善意の「橋」はメラメラ燃え落ちてしまいました。(このことから連想するのは、海外青年協力隊など今のボランティアの人々の架ける“橋”も、日本が辿った道を突き進んでしまえばたちまち炎上してしまうことです。

天皇の存在が教育の中で強調されていく中で、忘れられない思い出が一つあります。昭和10年の昭和天皇の名古屋行幸の際に、名古屋駅前の広場に小学一年生の私は級友と日の丸の旗をもって歓迎式に参加した時のことです。しかし、天皇の御車が遥か150メートルも先に差し掛かった時に、号令一声で畳の上張りの上で土下座をさせられ、やっと頭を上げた時は御車が遥か彼方に立ち去った後でした。結局、天皇の姿も御車も見ずじまい。天皇の存在とはこんなに雲の上だと幼心が少し傷付けられた思いがしました。

しかし、日中戦争、太平洋戦争と戦火が拡大する中で、「八紘一宇」だの「国体の本義」などと言った超国家主義を遮二無二つめこまれ、天皇のために死ぬことが最高の栄誉など信じこまされました。

幾十回となく近所の出征兵士、親類の叔父、旧制中学の先輩、はては少年航空兵に応召して行く級友などの送別会で声もかれよと軍歌を歌いました。中でも印象深かった歌は『海征かば』です。「海征かば、水ずく屍/山征かば、草むす屍/大君の辺にこそ死なめ/還り見はせず」と言う信時潔作曲の万葉集の歌を八月十五日にカラオケ仲間が集まって一緒に歌い、戦争を二度と繰り返すまいと心に誓うことがあります。あの15年戦争は、結局、230万の軍人、一般人が130万の日本人、アジアの民衆2000万人を殺戮して終了しました。

戦後4年経った頃に、名古屋港の近くで、小学校5、6年生の担任のT先生(当時は港区の小学校の校長)が自転車で乗って先方から走ってくるのに鉢合わせなりました。私は思わず、その自転車の後部にしがみついて「T先生、待って下さい。何故、先生は日本は『神の国』だの、あの戦いは聖戦だと私達に教えたのですか。僕の級友は少年航空兵となったり、この近くの三菱の工場で学徒動員中に爆撃されて死んでしまったですよ」と食い下がったことがありました。T先生は「阿部君、勘弁してくれ。当時の教員は天皇は神様でないことはよく知っていた。しかし、そう言うように強制されていたのだよ」と真っ青な顔で謝ったことを思い出します。

「君が代」の強制的な一斉斉唱に伴う紛糾をみている今、教育委員会の人々、教師の方々に是非とも振り返って頂きたい歴史的事実です。

二度と再現させたくない 国家に奉仕する勤労動員

戦前の日本の再現を図ろうという勢力は、教育の内容の改悪とともに青年を国家の為に動員するた奉仕活動をワンセットとして実現しようとしています。教育改革会議が十八才の青年を一年奉仕活動をさせることにこだわったのも、これが最大の狙いだったからでしょう。私は戦時中の学徒動員の経験から、国による勤労奉仕に強い拒絶反応を起します。

戦局も厳しくなった昭和一八年には、当時、旧制中学の三年生であった私たちの授業の三分の一は、高射砲陣地や兵器産業への勤労作業に切り変りました。

岐阜に行く時トラックの荷台に六、七人の級友とともに詰め込まれ、木曽川の大橋を渡る時には、風が強いのとトラックの揺れのは激しさから、何度も「ああ、木曽川に転落する!」と思ったか知れません。新幹線で木曽川の鉄橋を渡る度に、この時の恐怖が悪夢のように甦ってきます。

中学四年生になると、全国の学校の授業は全面的にストップ。そして、私達の級友達も名古屋市内の五つの軍需工場にちりじりに配属され、私は、名古屋の西のはずれの三菱電機岩塚工場に、級友や上級生たち一〇〇名と勤労作業につかされました。

軍国主義教育の最中とはいえ、土ぼこりの立つ、昼でも薄暗い工場に配属された時「もうこれでいよいよ勉強ともお別れか」という寂しさが胸に込み上げてきました。慣れない作業中、真っ赤に溶けたアルミを藁の草履で踏んで足の小指が焼けただれることもありました。

十五、十六、十七と私の将来の成長のために一番大切な時期に予想もしない労働につかされた悔しさは今思い出しても胸をえぐります。その怒りと絶望の感情を和らげたのは、長い間の軍国教育で、日本は“神国”、戦争は“聖戦”だと言う教育が私達をすでに洗脳していたからでしょう。

食糧事情も悪化し、食堂の昼食が塩茹での満州大豆だけということがしばしばで、無性にわびしい気持ちに襲われた私は、一食分が平均百三十五粒位の豆を数えながら食べたものでした。

着るものもすぐ穴が開くスフ(人造絹糸)で出来ていて、おまけに靴までスフでした。雪中、工場の庭を軍事教練として三八銃を担ぎ、軍歌を歌いながら行進させられたとき、破れた繊維靴の底から雪が足に突さすように痛かったことを四〇年たった今でも鮮明に覚えています。

女学生たちもみんなモンペ姿で、戦闘帽や日の丸鉢巻きをし、女性的な化粧など許されませんでした。まして、私達男女学生が口をきくなど、「非常時をわきまえぬ非国民的行為」として監視の目が光っていました。

こんな時、窓から校庭に咲く桜の花を眺めながら、リーダーを読む英語の先生の声に耳を傾けた学校の教室がなんと懐かしかったことでしょう。「もう残された命は2年だけ」と私達は級友とよく話し合ったものでした。

名古屋の工場も空襲で危険だからと今のトヨタの工場群がある豊田市近郊に建てられた工場に移動、寮に入って飛行機の部品を作っていました。戦争末期には、三河湾に入り込んで来たアメリカの航空母艦から発進した小型戦闘機に襲われ、執拗に追っかけて来る戦闘機に林の中で機銃掃射をビシ、ビシと浴びたことがあります。私は、「お母さん、今、死にたくない!」と松の根方で震えていました。あんな非情な思いを青年たちに二度と味あわせたくはないのです。

教育基本法で日本の未来像を築こう

「教育基本法の“見直し”ではなく、いまこそ教育基本法の理念と条文が大きく花開く21世紀にしなければならないという問題です」。これは今年1月、青森市で開かれた教育研究全国集会での山口光昭全日本教職員組合中央執行委員長の挨拶の中の言葉です。

事実、格調高い教育基本法の第1条(教育の目的)には「教育は、人格の完成を目指し、平和国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわなければならない。」と書かれています。明るい日本の未来を切り開いて行く上で天啓のような響きをそなえており、暗唱できるくらい噛みしめたいものです。

正直言って私は、これまで長い間、反動攻勢に対処する護憲勢力の姿勢に不満を抱いていました。それは世界の教育憲章ともいうべき珠玉のような教教育基本法を持ちながら、教員自身が、日本の戦前回帰を目指す勢力が教育基本法改悪を声高に叫びはじめてから、やっとその価値に目覚めたという受動的な姿勢でした。

今年3月3日の新社会党結党10周年記念集会で、「花」などを弾き語りしながら、喜納昌吉氏から「もっと時代を変える創造的な文化で反動勢力を圧倒しよう」と言う趣旨の発言がありましたが、(喜納さんは早口だったので正確な言葉ではなかったかも知れません)、非常に感動しました。

基本法前文には「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人物の育成を期するとともに、普遍的にして、しかも個性ゆたかな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。」とありますが、堂々たる教育方針です。これを「改定を要する間違った教育方針だ」などと主張する総理とか文部大臣がいれば、「正気ですか」と問い直したいくらいです。田中真知子新外務大臣が歴史教科書問題に言及して「事実をネジ曲げようとする人たちがいるんだなと思っていた」と感想を述べたのことにも、真実が最大の力をもつことを雄弁に物語っています。

私達日本人は、こんな立派や教育憲章を持っている以上、私達はこれを新しい日本の建設的教育をつくり出す活力の源泉とすべきと思います。

1954年3月のビキニ環礁沖でマグロ漁船第五福竜丸の水爆実験の「死の灰」を被災したのをきっかけに、東京都杉並区で水爆禁止署名運動が始まり、平和を願う人々の気持ちに点火され、瞬く間に全国的な署名運動に発展しました。

ですから、一人でも多くの国民に教育基本の内容を読んでもらい、どちらが正しいか決着をつけようではないですか。子どもの教育を真剣に考えている父兄、お母さん達に教育基本法の存在を知ってもらうこと自身、日本を変える力となることでしょう。

憲法にしても、教育基本法にしても一番大切なのは実践であることは言うまでもありません。新渡戸博士の好きな言葉に「頭(かしら)一つ振れば角兵衛獅子となり」がありますが、憲法も基本法も実践してこそ価値が生まれるのです。

新渡戸博士は十九世紀のイギリスの思想家ト-マス・カ-ライルの「サータル・リサ-タル」(衣装哲学)を耽読されたといわれています。この本の教えは、「汝の最も手近に横たわる義務を果たせ。第二の義務は自らわかってくる」というものでした。

われわれは誰も、当面一番大事なことに全力投球すべきです。今朝(4月30日)の朝日の朝刊に小泉内閣の支持率が78%に達したと報道されていました。端的に言って、これは国政の主人公たる国民自身が大政を金権政治屋から奉還させ、大政を自ら掌握しようと言う意思のほとぼしりと見て取ることが出来ます。

国民が小泉首相に、利権にむらがる禿鷹のような政治業者の一掃であって、憲法改正だの有事立法などではないことを悟ってもらうしているとも解釈されます。またそうしなければなりません。

これから護憲勢力に求められるのは、敵失を待つと言うような安易な、「待ち」の政策ではなく、21世紀に生きる日本人が「世界諸国民から信頼を得る日本」を作るビジョン(未来像)をつくり出すことです。

日本の憲法の支持者も世界の中で増えつつあると言われいます。私達は、国連憲章、世界人権宣言などに比肩する日本国憲法や教育基本法をもっと有効にわれわれの生活の中に生かして行き、全世界の人々との真の連帯を図らねばならないと思います。われわれは、教育基本法と憲法を日本で実践するとともに、世界の人々の共有財産として活用してもらいましょう。

国民のエネルギーに光を

先回、日本の未来を拓く新しいビジョン作りの必要性、重要性をお話しましたが、戦中派のしんがりの私自身、1957年末にエジプトのカイロでのAA諸国民会議に参加して以来、西はモロッコから東はイラクまで、51回に及ぶアラブ諸国訪問の中でこの問題を考え続けてきました。

そして、1952年7月のナセル革命以後、アラブ民族主義が国民の間に充満する願望を一定の方向に統一することに成功すれば、つねに巨大な国民的エネルギーを核融合反応のように湧出すると言う数々の事例を目撃してきました。

今、小泉首相が改革を唱え、国民の間から、驚異的な支持率を獲得している事態を見る時、国民の間に蓄積された自民党政治の腐廃への不満のエネルギーの大きさに驚かされます。そして抜群のパーフォーマンスと裏腹に、具体的な政策に乏しく、「靖国神社参拝」に固執する皇国史観の小泉首相では、国民の希望など実現できっこないし、また日本の破滅に繋がる逆コースは断じて許してはならないとの決意を新たにします。

そして同時に、革新陣営も変革を求める国民の願いに答えるビジョンつくりを緊急の課題として迫られているのだと思います。

テレビの中で、予期せぬ高支持率に酔ってえびす顔の小泉首相の姿を見ていて思い出すのは謡曲「紅葉狩り」です。

見破られたアメリカの正体

私が中学一年生の昭和16年12月、大平洋戦争開戦の数日前にラジオが、平安時代中頃に平維茂(たいらのこれもち)が信州の戸隠山で美女に化けた鬼女に紅葉狩の酒宴にさそわれ、酔って寝てしまった維茂を正体を現した鬼女に襲われ、乱闘の末、鬼女を討ち平らげたという伝説を鳴り物入りで流し、この鬼女の正体こそアメリカだと解説していたことです。

小泉首相も早晩、美女の仮面をかなぐり捨て、集団自衛権などを整備、実行する本者の鬼女に変身しかねませんが、大勲位から始まり小泉首相に至るタカ派を操縦するのは国際舞台で「人権外交」などカッコいいことを喧伝してきた、アメリカです。しかし、そのアメリカこの5月3日のジュネーブで行なわれた国連人権委員会のメンバー改選で落選し、1947年の同委員会創設以来、維持してきたメンバー国(53ヶ国)としての地位を失いました。これは、イスラエルのパレスチナ人の抑圧の唯一の支持国、無法なイラク空爆、「京都議定書」からの離脱、ミサイル防衛構想の推進、中国に対する非難決議案提出など、米国の強硬な反人権政策に、発展途上国が反発したなど取り沙汰されています。アメリカは国連分担金の支払い停止を議会で議決するなどで報復し、正に鬼女、「ならず国家」の正体をさらけだしています。小泉首相始め自民党はこの「ならずもの国家」と一体となって国連加盟国全体を相手に集団自衛権の行使する運命共同体を完成しようというのでしょうか。

アメリカの軍産複合体の企む戦争政策への抵抗は日に日に大きくなっている国際社会において、日本国民の平和への戦いを国際的な戦いと連帯させる必要がますます高まっています。その第一歩は沖縄にある米軍基地の撤去を国際的舞台で大いにクローズアップすることが大切です。本土の日本人自身が沖縄問題に目をつぶると言うバブル時代に培養された集団エゴイズムから早く脱却せねばなりません。

みんなでビジョンを出し合おう

最後に舌足らずになるのを覚悟の上で、1867年6月、長崎から大阪に向かう夕顔丸に中で起草したという坂本竜馬の「船中八策」にならって作った私なりの私案「新・船中八策」を紹介させて頂きます。諸兄姉から御批判をいただければ幸いです。

私案 新「船中八策」
  1. 大政掌握
    (国会は国民の代弁者たるべし、国民の手に政治を)
  2. 敬天愛人
    (倫理とヒューマニズムの再生、新渡戸稲造著『武士道』に解明されているように日本人には伝統的倫理がある)
  3. 憲法実践
    (憲法、教育基本法は飾りものに非ず、たえざる実践でその内容を豊かにすべき。)
  4. 第三世界への開眼
    (日本人は多くの国で尊敬されている。日本の眠れる潜在力の発見のために)
  5. 世界平和
    (平和憲法、国連憲章、世界人権宣言などとのドッキングを。平和と豊かさを求める人々の数ではわれわれの方が圧倒的であることに自信を持ちたい)
  6. 国際文化交流
    (世界は広い、学びあい、無益で悲劇的な戦争をなくし、新しい人類のルネッサンス文化の創造を)
  7. 諸民族の主権尊重
    (天は民族の上に民族を作らず、普遍の原理の追求を)
  8. 日本を良くすることが世界の最大の貢献
    (竜馬は「日本の洗濯を」といった、世界に求められる日本を目指そう)

「世界に役立つ日本」のために

「日本人は長い眠りから目覚めよう」

教育基本法を中心に、このコラムで日本の未来像などを披瀝させて頂きましたが、最後の9回目として、「世界に役立つ日本」とは何かを考え、「われわれ日本人よ、眠るから目覚めよう」と訴えたいと思います。

私にとって忘れられないのは、60年後半から70年にかけてアラブ連盟駐日代表部に勤務していた時、副所長だったスーダンの外交官アブデル・ラーマン・マーリ氏は「アラブは親日感情の沁み通った大地だ。ここに種を撒き育てることは、われわれの義務だ」と言う言葉です。35年前にエジプト文化省の国際協力局長も「われわれアラブ人は日本に長い間プラトニック・ラブを感じていた。もうそろそろ永過ぎた春を終らせねば」と語ってくれました。

昨年9月下旬にイラクで行われた「バビロン国際音楽祭」に参加した時も、バグダードを走る自動車の8割は日本製で、運転手は「何十年走っても、修理さえすれば立派に走る精巧な自動車を製造する日本人は素晴らしい」と賞賛していました。

1973年のオイルショック以後、陸続として訪日したアラブの指導者たちは「日本は明治維新後100年の間に世界の経済大国に発展をとげた。そのノウハウをわれわれアラブに教えて欲しい」と盛んに訴えたことを思い出します。

このように日本国民(日本政府ではない)はこちらが照れてしまうくらいに評判がいいのです。ヨルダンのシャンムート初代駐日大使は、「第2次世界大戦で廃虚になった日本を見事に再建したのは、日本国民です。日本の宝は地下に眠っているのではなく、地上で働く日本人なのです」と言明していました。

また筆者の何より好きな言葉は、作曲家の池辺晋一郎氏と組んでバレー『アブシンベルの幻覚-静と動」を製作した中江要介駐エジプト大使が池辺氏に述べられた「日本で一番素晴らしいのは日本人ですよ」という名言です。

喜納昌吉氏は「東洋と西洋の文化の狭間に位置する日本と日本民族には、世界をまとめる役割があるんです」と語っていますが、1955年のバンドン会議の開かれた頃、上原専録先生も『世界史における現代のアジア』でもこのことを日本の歴史的使命として指摘されていました。

ジュネーブの国際連盟で事務局次長であった新渡戸稲造博士が6年半の勤務を終えて帰国する際、ドラモンド事務総長始め職員全員から「東洋社会と西洋社会の広大な距離の掛け橋として活動した」博士を讃え、「友を通せ! Pass friend」という送別の辞を送られています。

確かに、冷静に現代世界における日本の立場を振り返った時、日本は今、東西、そして南北の掛け橋となる重要な歴史的使命を課されていることを痛感します。

また、日本憲法や教育基本法を持つ日本人にこそ担いうる重要な役割なのですし、日本国民はそれを達成する資質に恵まれているのです。ただ戦後のアメリカの占領政策の中で遂行された愚民化政策で大分骨抜きにされた部分はありますが、多くの日本人は民族的魂を失っていません。ただ自覚していないだけの話しです。

そんな優秀な国 民と長い歴史と文化を持つ日本が、何故アメリカの腰巾着のように従属しているのか、という日本政府への失望はアラブばかりか世界の多くの人々の抱いている疑問でしょう。

小泉首相が靖国神社参拝を「国のために殉じて人の霊を慰めたい」と言うのなら、沖縄の問題、えひめ丸の沈没事故などで堂々とアメリカに主張すべきことを主張することが本当の鎮魂なのです。硬骨漢を自称している小泉首相に贈る言葉は、折口信夫博士の『鎮魂とは、亡き人の魂を鎮めると同時に逝つた人の生前の才能や勇気を残された者がわが身に招来せしめる儀式である』です。

私たちはあの15年戦争で犠牲となったアジアの民衆、日本の国民の霊を慰めるためにも、超大国に対しても言うべきことを堂々と言うことこそ、日本人としての誇るべき伝統なのです。

私たちは、利権あさりと保身の術にのみ汲々とする政治業者をあてにすることをもう止めましょう。本当に日本の未来を真剣に考える人々を国政に送りださねばなりません。そして、自分の運命を他人にまかせる過ちを再び繰り返してはなりません。

美空ひばりの「車屋さん」の歌の中の都々逸にあるように

あてにならないお人は 馬鹿よ
あてにする人もっと 馬鹿

なのです。われわれは、もっと「汝自身を知り」、「自己の価値に目覚めるべき」時だと痛感します。

坂本竜馬は、彼の作った海援隊に「海から援ける隊」と振りがなを振ったと言われているます。多くの世界の人々から期待を寄せれている日本人は、今こそ「世界に役立つ日本」「世界に求められる日本」を模索して行く中で「日本人の眠れる潜在力、秘められた歴史的使命」を発見して行きましょう。