Previous/阿部政雄 新渡戸稲造に学ぶもの -国際交流の大先駆者-(阿部政雄 著)

「国際的視点から日本の未来を考える」ことが重要となってきた。そして「リクル-ト疑惑」による日本政界の腐敗に世界の注視が注がれている時、われわれの日本人の道徳、倫理観が大きく問われている。われわれ日本人が「国際国家、日本とは何か」という命題に真剣に取り組むとき、是非とも忘れてはならない国際交流の大先駆者がいる。

それは、新渡戸稲造博士である。

五千円札の中で優しくわれわれに微笑んでいる明治、大正、昭和初頭に活躍した最大の国際派の巨人、新渡戸稲造は「科学者、国際人、武士道的愛国者、実務家、教師、社会教育家、宗教的平和主義者」(大宅壮一)といった多彩な顔を持つ。

大宅は、さらに新渡戸稲造こそ「明治以後の”理想的日本人”はだれかということになると・各界を通じて第一人者とすることには異論が出るだろうが、総合判定では、ベスト・スリ-か、少なくともべストテンのなかに入ることは確実と見てよい。」と言う。

新渡戸博士に多彩な経歴については、既に御存じの方も多いと思う。しかし、今、ここで新渡戸博士の略歴をざっと紹介しよう。


新渡戸稲造は、文久二年(一八六二年)、盛岡市で武士の家に生れました。クラ-ク博士の『少年よ、大志を抱け』で名高い札幌農学校に第二期生として学んだのですが、同級生には、キリスト教の指導者内村鑑三もいました。卒業後、アメリカ、ドイツに留学、メリ-・エルキントン嬢と国際結婚、母校の教授を皮切りに第一高等学校、東京帝国大学、東京女子大学で人格的教養主義の教育を教え、「実業の日本」、「婦人画報」などの雑誌を通じて全国の青年や婦人に大きな影響を与えたのです。

また国際舞台では、名著『武士道』をはじめ、多くの英文の論文、書物を通じて日本を国際的に紹介するとともに、国際連盟事務局次長を七年勤め、ベルグソン、アインシュタイン博士、キュ-リ-夫人ら世界の超一流の学者と今のユネスコの前身にあたる知的協力委員会を創って、著作権、国際語(エスペラント)、教育の交流、普及など意義深い事業を遂行しました。

しかし、晩年、昭和の初頭から、日本が軍国主義の道を急速に歩み始めるにつれて、当然のことながら、新渡戸の唱える国際協調の道は険しくなり、京都、上海で開かれた「太平洋調査会」の会議で、何とか日米間の戦争の防止に必死の努力を続けた後、最後に、昭和八年のカナダのバンプに太平洋会議で日本代表団団長として出席した後、発病し悲劇的な客死をしたのです。

新渡戸博士から学ぶもの

これほどのスケールの大きい国際人の足跡から汲み取るべき遺産は豊富である。その中から現代に生かしうるものをわれわれは出来るだけ継承しなければ大きな損失ではないですか。

国際国家を標榜する日本に生きるわれわれが新渡戸から学ばねばならぬは、

ではないでしょうか。

ともに、「宇宙船地球号」に乗っているわれわれ人類すべての者が戦争をやめて協力しあわねばならぬ現在、日本人にとって最も渇望されているテ-マです。

人格と教養の教えは教育基本法に

冒頭にも触れたように、今、リクル-ト疑獄の発覚から一部高級官僚の腐敗が露呈し、多くの政治家たちの倫理観の低さが嘆かれている。こうしたどん底のような政界の腐敗を見ていると、一体現代の日本の教育の基本的理念とは何なのだろうかと心配になる日本人が多いに違いありません。

そこで、読者に熟読願いたいのが次の文章です。

「教育は、
人格の完成を目指し、
平和的国家及び社会の形成者として、
真理と正義を愛し、
個人の価値をたっとび、
勤労と責任を重んじ、
自主的精神に充ちた
心身ともに健康な国民の
育成を期して行なわなければならない。」

驚くほどの格調の高い教育方針が、日本の教育基本法の第一条の目的の中に明記されているではありませんか。

さらに、その前文には、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にして、しかも個性ゆたかな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。」と書かれているのです。

ここで是非とも皆さんが忘れてはならないのは、この人間の尊厳と自由との上に立てられた個人主義的倫理観の確立を目指すこの教育基本法が、決して戦後の占領軍から草案を示されたものでなく、まごうかたなく、日本人自身の手によって制定されたものであることです。

そして、この教育方針に色濃くにじみ出ているのが、新渡戸稲造が生涯説き続けた人格主義的教養主義なのである。

では、それは何故なのだろうか。

それは、「この基本法の生みの親たる教育刷新委員会の委員38名中、新渡戸先生と浅からぬ関係にあったと推定出来る方々は、8人を下らないようである。安部能成(委員長)、南原繁(副委員長)、関口泰、天野貞裕、森戸辰男、河井道、上代たの、田島道治の諸氏である・・・・。」という教育基本法制定当時の文部省の学校教育局長であった日高第四郎氏の言にあるように、この基本法の直接の生みの親が、文学における漱石山脈と並び称せられる教育における新渡戸山脈に連なる人々だったからです。

また、自由主義者の東大教授として追放処分にも屈せずファシズムに抵抗し、「「学生に与う」等の著書により学生の教育に影響を与えた河合栄治郎、戦後まもなく文相を勤めた前田多門や田中耕太郎、矢内原忠雄東大総長、日本社会党委員長となった河上丈太郎らも新渡戸の一高校長時代の愛弟子でした。

新渡戸博士は、矢内原忠雄の言うごとく「人が人として有する品格即ち人格の自覚と教養」を根底に置き、全ての点に円満な、狭苦しくない、片よらない人間を作ることを教育の目的とされてきたのであった。

博士は、明治三十三年から七年間、一高(旧制第一高等学校)の校長に就任した。当時の一高(旧制第一高等学校)の校風は、世俗に超然たる”篭城主義”といった、弊衣破帽いわゆる蛮カラ主義、閉鎖的、特権主義的かつ国家主義的思想であった。僅か一年半あまりの間に、人格的教養主義というリベラルな校風に切り変えてしまった。

博士は、また東京女子大学の初代学長となったのを始め、日本における近代女子教育の先駆者であったばかりでなく、社会的啓蒙活動の面でも大きな足跡を残した。また売名的だ、学者にあるまじき行為だとの中傷、非難をものともせず、当時の通俗雑誌に「修養」、「一日一言」、「女性の生き方」などを執筆しつづけてきた。博士は自分の原稿をまず最初に女中に読ませ彼女が理解できるまで十分推敲したと言われ、その文章は極めて容易で読みやすいものであった。これは、真に愛国的な学者ならば、自分の得た高い知識をなるべく低い人々にも分かつのが当然の義務とする博士のヒュ-マニズム思想の実践である。

興味深いのは、通俗雑誌への寄稿は中止すべきだとを諌めに来た当時の東大生だった吉野作造が、返って博士からそのもつ社会的意義を教わり、後年「中央公論」、「改造」などの雑誌で論陣を張る学者となったことは、正に「ミイラ取りがミイラになっ」たということである。

また、博士は小日向の自宅で、民俗学郷土会を開き、「地方(じかた)」の研究を主催し、それが、参加者であった柳田国男によって日本民俗学として確立されていったことも記憶されねばなりません。

相互に学びあう国際交流

しかし、「われ、太平洋の橋たらん」という有名な言葉にあるように、新渡戸博士は、そもそもの出発点から国際交流は一方通行でなく、対面交通であるべきだという信念を持ち、かつそれを実践し続けてきた。博士の一生涯を通して最大の目標は相互の優れた文化を学びあい、自国の文化をより豊かにしようというものであったのである。

すなわち、札幌農学校を卒業した新渡戸博士が東大文学部に入学する際、外山正一教授から英文学を志望する動機を尋ねられた時、

博士は、『自分の考えによれば日本には日本固有の長所がある。西洋には西洋本来の長所があります。自分は日本の長所を西洋に紹介し、一方、西洋の長所はどしどし日本に輸入するそのような橋渡しを致したい。そのためには、一層英語に精通するを要する。そのために英文学を学びたいのんです。」と述べている。

絶えず外国の長所を見付けて、日本に紹介しようという姿勢は、博士の20代の外遊の経験をまとめた『帰雁の葦』の中で、「外遊者の着眼-塵や芥なら内にもござる」の中の「彼が長を採って、我が短を補うものにしたいものだ」という言葉、ジュネ-ブからの帰国後、国際連盟事務局次長時代の土産話『西洋の事情と思想』の第一章の「他山の石」でも「知識を広く海外に求めるというのは、悪い知識を求めることではない」という指摘に反映している。

7年にわたるジュネ-ブにおける国際連盟事務局次長時代にも、博士は国際的な文化協力に大きな業績を残している。

博士は、ベルグソン、アインシュタイン博士、キュ-リ-夫人ら世界の超一流の学者と頻繁に会合し、今のユネスコの前身にあたる知的協力委員会を創り、国際的な教育協力、学術交流について話し合い、さらに著作権、国際語(エスペラント)の普及など努めた。

美しく、表現力に富み、中立であるという国際語の条件を備えているエスペラントの国際的な普及は、新渡戸博士が国際連盟事務局次長だった時代が最も活発であったことにも是非一言しておきたい。

名著、英文「武士道-日本人の心」

さらに、博士は、国際連盟の中の最大の英語による雄弁家で、連盟のスポ-クスマンとて活躍されたが、日本を国際的に紹介する膨大な英文の著作を表わしたことも「太平洋の橋」精神の表われであった。

とりわけ、10年の歳月をかけ、1878年、36才の時に書き上げた名著、英文『武士道』は、過去にも大きな国際的反響を与えてきたが、現在に生きる日本人が自らの倫理、道徳を今一度根本から問い、日本人とは何かを見詰め直すためにも極めて重要な書物である。

この「武士道」の序文にその執筆の動機が次のように語られている。

若き日、博士がドイツ留学中に、散歩の途上で、ベルギ-の宗教学者ド・ラブレ-博士から『宗教教育のない日本にどうして道徳教育が授けられるのか』と問われ、その場で即答できなかった博士が世界に日本人の伝統的倫理を知らせようとこの『武士道』を書いたという。

そこで博士は、その後十年の歳月をかけ、一見、封建的で時代遅れの感を与える「武士道」という名の下に、日本古来の神道、仏教、儒教の中から日本人の守るべき道徳律--義、仁、惻隠の心、誠、名誉などの徳目を上げ、西洋の宗教や騎士道に決して劣らぬ日本の道徳の精髄を”武士道”として、古今東西の聖典、名著からの豊富な引用文をちりばめつつ、雄けいな英文で解明したのである。

日清・日露の戦争の間に発行されたこの『武士道』は、たちまち、日本の精神文化を知る最良の書として判を重ね、最終的には世界十六カ国に翻訳された。

国会議員、代議士、は今話題の人々であるが、博士は、随筆の中で、代議士、弁護士、税理士はその言葉に士(さむらい)という文字を付けている以上、武士のもつ高い道徳を持つべきではないかと言っている。

今は昔の話となった”井戸塀政治家”が懐かしいが、国会議員は少なくとも、武士の「武士に二言はない」、「名誉を重んじる」、「知行合一」などという気概をもち、「政治家に徳目を求めるのは、八百屋に行って魚を求めるようなもの」というような情けない風評を立てないようにしてほしい。

テレビ番組の中で悪代官や悪徳商人を懲らしめる『水戸黄門』や『遠山の金さん』、忠臣蔵の中で義に殉ずる武士の姿がわれわれ庶民の間で絶大な人気を博しているのも、武士道へのノスタルジャという健全な精神の表れであろう。その正義感が、単なる傍観者から「義を見てせざるは勇なきなり」という実践者に脱皮するエネルギ-に転化しないものかと思う。

日本人の倫理の根底を見事に解明した『武士道』を読んで感銘したアメリカの第26代セオド-ル・ル-ズベルト大統領は、60冊を買って友人の間に配布し、日露戦争の調停役をかってでることになったという。

筆者は、六年ほど前、1938年にベイル-トの日本総領事館の力で『武士道』がアラビア語に訳されていたことを知った。現在、筆者はそのアラビア語版の再版に努力を続けている最中である。

訳者のモクタ-ル・カナン氏は、その序文で、『”武士道”によって、日本の再興が、決してヨ-ロッパ人の盲目的引写しでなく、日本人自身の伝統的な道徳律、魂を保持してきた結果であることを発見した。』と述べているが、これら、他の国語に訳されたそれぞれの国でも同様の評価を受けていると思う。

「普遍の原理」の追及

「諸国民の公正と信義に信頼してわれらの安全と生存を保持しようとした」という憲法前文の中の”他国の公正と信義を求める”という意味は、世界には普遍の原理の存在を確信していることであると同時に、また他国にこれらの徳義を求める前に、自らの国を公正と信義に基づく国たらしめねばならないことを義務ずけていると言えよう。。

国際キリスト教大学の武田清子教授は、新渡戸の思想は、「日本の思想を外国人にわからせるだけでなくて、日本人自身が自己の中にある普遍的要素とか、普遍的なものにつながりうる可能性を自己発見していくというような見方」と指摘し、「異質の思想の相違点を差別し排除するのではなくて、対話の通路になる要素を見い出していこうとする」アプロ-チと述べているが、こうした姿勢こそ現代の世界に最も求められているものである。

戦後の日本国民が、世界の未来を先取りするような素晴らしい平和憲法を持つに至ったのも、たとえ、その起草者が当時のアメリカの占領軍であったとしても、その内容は、あの悲惨な15年戦争、第二次世界大戦の体験から生まれたものであり、また幕末の坂本竜馬の「船中八策」に始まり、明治の自由民権、大正デモクラシ-など、地下水のように真の民主主義の水脈が日本の民衆の中に脈打ってきたからであろう。

さらに、この日本憲法は、国連憲章、世界人権宣言、バンドン会議の諸原則や非同盟会議の諸国が掲げる道義の主張の中にも多くの共通点を持っていることは言うまでもはい。われわれは、今後、世界における普遍の原理を見つけていく努力を続けていく中で諸国民との間に多くの橋を架けていかねばならないだろう。

それは、日本国民が「世界市民としての自覚」(松本重治)ために必要であり、「世界に貢献する日本」の道を発見していく前提でなければならないであろう。

燃やされた「橋」

しかし、昭和の初頭から日本において軍国主義が台頭するとともに、国際連盟を脱退して、国際的孤立化の道を辿り、「国際的道義」に逆行する覇権の道を突っ走っていく過程の中で、新渡戸博士の「太平洋の橋」、国際連盟当時の「世界諸国間の協力のための橋」は無残にもメラメラと燃やされてしまった。

「個人の運命などいとも簡単に突き崩していく」横暴な帝国主義の時代の中では、新渡戸の墓銘に記されている「国際間の善意の使徒」の”善意”だけでは到底抗し切れるものでなかった。

もちろん、博士の側にも、世界の非圧迫民族、とりわけ中国民衆の独立運動に十分な理解が無かったことも否めぬ事実であろう。しかし、それまでを博士に要求するには余りにもねだり過ぎであり、当時の時代的背景、環境を思えば、博士の晩年の悲劇の多くは、日本が辿った軍国主義の道が博士に絶望的な努力を強いていったといわねばならない。

このバンプでの会議の最後の講演における新渡戸の最後の言葉--

異った国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。

世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定者たる日が来るであろうことを、世がここに期待するのは余りにおおきを望むであろうか