平成22年4月26日
各 位
西松建設株式会社
当社は、最高裁判所判決の付言をうけて、広島県安野の現場で労働に従事された中国人の方々を対象として昨年10月に和解しておりますが、今般、当社にとりましては残る唯一の現場であります信濃川発電所建設工事現場で労働に従事された中国人の方々とも、本日、和解条項につき合意致しましたので、お知らせ致します。
当社は、信濃川発電所建設工事現場での労働のために強制連行された中国人183名分の一括した和解金として金1億2800万円を「基金会法人 中国人権発展基金会」に「西松信濃川平和基金」として信託する。
以 上
私は康健といい、北京で弁護士をしている。西松建設信濃川中国人強制連行・強制労働被害者訴訟の原告・韓英林氏らの代理人を務めている。
2010年3月22日、韓英林氏ほか原告らは声明を発表し、即時、その声明文を貴社へ郵送した。
原告は「声明」の第二項において、明確に自分たちの意思を表明した。すなわち、もし、貴社がこの「和解条項」をもって、西松建設信濃川作業所の一部の中国人強制連行・強制労働被害者あるいはその遺族と調印を行うのであれば、和解対象となる信濃川作業所の中国人強制連行・強制労働被害者の人数および金額にわれわれを含めないこと、さらに「救済」としてのいわゆる「償い金」の総額から我々の相当額を差し引くことを明記するよう要求した。さもなければ、われわれの合法的な権利に対して更なる侵害が生じたものと見なす。我々は必ずや貴社の責任を追及する、と。
西松建設が原告らの正当な要求を全く無視し、強引に原告らを「和解」の枠に引きずり込んだことを、本日はじめて知った。従って、原告らを代表して貴社に抗議し、以下の通り要求する。
一、「確認事項」の中で、当該和解は和解を受け入れる人に対してのみ拘束力を持つと記されている。すなわち、和解条項の調印を行う時点までに探し出されていない被害者、あるいは受け入れの意志表明をしていない被害者に対しては拘束力がないことを意味する。
二、本年3月22日に声明を発表した原告らは、西松建設との交渉に携わってきた被害者代表である。また、その他の二名の中国人強制連行・強制労働被害者の遺族も、当事者の意志を受け継いで同声明に加わり、西松建設の誠意のない和解条項を拒否する意志を既に表明した。彼らは、今回の西松建設との和解対象に自身らを含めないことを要求している。
このように、西松建設との間で和解条項が調印される前の段階で、すべての原告が明確に受け入れ拒否を表明したことから、「確認事項」が言及する対象に原告らが含まれないことは当然である。
三、西松建設が「確認事項」の解釈を口実に、原告らの意志に反して「和解条項」に原告らを強引に引きずり込もうとし、和解対象を「183人」と明記しようとしている。このやり方は、再び中国人を西松建設の強権下へ強制連行することを意味し、戦争中の中国人強制連行を再現するものではないか。
四、ここで、私は原告らを代表し、西松建設が直ちに上記の過誤を改めるよう厳正に要求する。中国人強制連行・強制労働被害者原告らの利益を引き続き侵害する行為のないよう要求する。
西松建設信濃川中国人強制連行・強制労働訴訟原告韓英林氏らの代理人
中国側代理人弁護士 康健
2010年4月19日
我是北京的律师 康健,是西松•信浓川中国劳工案韩英林等原告的代理人。
2010年3月22日,韩英林等原告发表声明,同日已给贵公司寄送。
原告在“声明”第2条中明确表示:如果你社持该“和解条款”与原西松•信浓川作业所部分中国劳工或遗属签订,则应在“和解条款”中明确表示所涉之拟“解决”的信浓川作业所中国劳工人数及金额均不包括我们,并应在施以救济的所谓“偿金”总额中,扣除我们这部份人员的金额。否则将视为你社对我们的合法权益实施了新的侵害,我们必将追究你社的责任。
今日知悉,西松公司完全无视原告的正当要求,强行将原告拉入“和解”圈内。为此,我代表原告向西松公司提出抗议,并提出以下要求:
1、虽然“确认事项”中,有该和解只对接受和解之人有约束力的表示,但该表述应当是对在和解条款签订前尚未找到之人或尚未表明立场之人而言。
2、作为3月22日发表声明的原告,是与西松公司谈判的代表,他们及代表另外2位劳工的遗属,已在该声明中公开表示拒绝接受西松公司无诚意的和解条款,并表明不允许将他们纳入本次西松和解之中。
因此,对于在西松和解条款签订前已明确表示拒绝接受的全体原告,当然不应适用“确认事项”中的这一处理形式。
3、如果西松公司以“确认事项”中的解释为借口,违背原告意志,将原告强行拉入“和解条款”中所称解决“183人”的序列之中,则具有再次绑架中国人至西松公司权力辖属之下的性质,这种做法与战时西松公司绑架中国劳工有什么区别?
4、我代表原告严正要求西松公司立即纠正上述错误,不要继续实施侵害中国劳工原告权益的行为。
西松•信浓川中国劳工案 韩英林等原告代理人
中方 律师 康健
2010年4月19日
現在、中国人強制連行被害者が損害賠償を求める西松・信濃川案は、「和解」成立の間際に立たされている。
2010年3月22日、信濃川案の五名の原告は「和解条項」案を拒否するとの声明を発表した。その理由は、2007年4月27日に日本の最高裁判所が出した中国人の損害賠償「請求権はすでに放棄された」という不当判決を、今回の「和解条項」に盛り込むことに西松建設が固執しているからである。その案を受け入れると、自分たちの請求権が放棄されたことを認めることになり、中国外交部が何度も繰り返し表明してきた立場にも反することになる。
中国外交部は、「日本の裁判所による『中日共同声明』に関する勝手な解釈に対して強く反対し、その解釈は違法であり、無効である」という立場をとっている。
この案件を代理する日本の弁護士の北京訪問の目的は、「和解条項」案を拒否する原告らとの委託関係を解除することと、和解案を受け入れる意思を表明している他の40数名の信濃川被害者との委託契約を結び「和解」を進めていくことにある。被害者の内部分裂がすでに公然の事実となっている。
日本で中国人強制連行被害者の損害賠償訴訟に携わっている民間団体は、二つある。その一つは学者の田中宏氏、弁護士の新美隆氏(故人)・内田雅敏氏、華僑の林伯耀氏らを中心とする「中国人強制連行を考える会」(以下、「考える会」)であり、もう一つは弁護士の小野寺利孝氏、高橋融氏を代表とする「中国人強制連行・強制労働事件全国弁護団」(以下、「弁護団」)である。
「信濃川案」に先だって、「考える会」が最初に強制連行事件の和解=「花岡和解」をまとめ、「花岡和解」モデルを作り出した。その特徴をまとめると、第一に、日本の加害企業の法的責任を否定し、戦争被害者の損害賠償請求を人道的な救済へと変質させ、僅かな金銭を用いて歴史的責任を買い取っていること。第二に、一括解決方式。11名の原告と鹿島建設との和解によって、かつて花岡に強制連行された986名の被害者全員の損害賠償請求権をこの一括解決により奪った。他人の権利を侵害したばかりでなく、実際には見つからない被害者の分を含めた多額の金銭をもたらした。第三に、基金の信託によって派生した基金運営委員会が、その基金の半分を公開・報告することなく運用でき、巨額の基金は人々を誘惑した。
このような和解モデルが、僅かな金銭を用いて日本の戦争責任・歴史責任を免れさせようとしていることは明らかであり、名誉と利益の両方の最大の享受者になるのは日本側の戦後補償運動に携わっている民間団体であって、決して中国の戦争被害者ではない。最近の中国では、中身が伴っていないことを「~された」とよく表現されている。この流行の表現法を借用すれば、被害者は「被索賠了(=被害者たちが損害賠償を求めているにもかかわらず、結果は「賠償」でも「補償」でもなく「救済」でしかない」ということになる。
事実に基づいてものごとを語るべきである。「花岡和解」後10年が経ったが、鹿島建設が支払った5億円の信託金は事実上、日本側の「考える会」の中心メンバーに握られている。基金の半分、つまり2.5億円は彼らによって歴史調査などに使われており、残りの半分を被害者に配布することになっている。しかし、いまだに986名の被害者のうち、520名しか見つかっておらず、その他466名の被害者が発見される可能性は乏しい。なぜなら、人口移動という要因の他、当時強制連行された被害者の中には偽名や偽りの住所を書いた者が多かったため、見つかる可能性がきわめて低い。一括解決方式がもたらした弊害は、他人の権利を侵害したばかりでなく、もとより見つからない受取人の分の巨大な残金が生まれることである。実際、花岡被害者が受けとった金額はわずかに一人あたり2万人民元であり、約3分の2に近い3.75億円が「考える会」に支配されて、彼らの社会活動に使われている。
従って、「花岡和解」後、「考える会」はそれまで以上の努力を尽くし、西松建設と中国人強制連行被害者との「安野和解」をまとめた。この二つの「和解」は枠組みと基本的内容がほぼ一致している。西松建設は360名の被害者に2.5億円の信託金を支払い、一人当たり69万円に相当するが、実際には一人に60万円しか支払っていない。なぜなら「和解条項」には当該信託金の使用項目として調査費、記念碑の建設費、被害者が当時の事件現場に赴き慰霊祭を行う活動費なども含まれているからである。現段階では、半数以上の被害者が見つかっておらず、見つからない人の分のカネは上述の社会活動に使われるのではないかと疑わざるをえない。さらに、「和解条項」では、この信託金は日本の民間組織である「自由人権協会」に信託されると規定されており、最初から中国に持ってこようとはしなかったのである。
誰が「和解」による利益の最大享受者であるかは言うまでもないだろう。
国際的に見れば、アメリカにおける戦時中の日系人被害者への賠償、オーストリアにおける第二次大戦中の強制連行・強制労働被害者への補償、ドイツにおける「記憶・責任・未来」基金、そのいずれも上述した日本の「和解」とは異なっている。これらの例について言えば、まず加害者には真の謝罪があって、歴史的責任を負う勇気が見られる。そして、実在の被害者に賠償あるいは補償をし、被害者側は訴訟と弁護士に関わる費用を支払った後、残りの金額を全部受け取れたことによって、きれいに終止符を付けることになった。
「信濃川案」は「弁護団」が代理している。同じ西松建設の傘下にある作業所のため、「安野和解」の交渉中に、「弁護団」から「安野和解」の被害者と一緒になって交渉しようという要望を出したが、「考える会」から拒否された。 「信濃川案」を代理する日本の弁護士らは今の「和解条項」には決して満足してはいないものの、それでも和解実現をすすめる内在的な理由は、「考える会」が「花岡」と「安野」の和解を終えてから、今度は三菱との交渉を開始している点にある。これからは「考える会」がすべての中国人強制連行案件を和解の形で次々とまとめていくような状況になると、「弁護団」側としては成果がないままでは済まないという、今までにない緊迫感とプレッシャーを感じたのであろう。
3月22日、信濃川案の日本側代理人弁護士は原告らに次のように述べた。今回の和解は我々にとってもたいへん苦渋の選択であるが、この和解がなければ、我々の手には闘うための武器がなくなる。三菱、三井のような影響力を持つ企業が、いまだに強制連行問題を解決しようとせず、今後我々は三菱や三井との闘いを望んでいる。今回の西松建設との和解が成立したら、今後の闘いにとてもメリットがある。皆さんの気持ちは理解しているため、今度こそ闘いのなかで真の謝罪を勝ち取ることを目指していく、と。
これは名のみで実がないも言い分であるが、中国人被害者が日本に対する損害賠償を求める訴訟は20年もの道を歩んできた。明らかになったのは、日本社会が過去の侵略戦争について真に反省しておらず、戦争遺留問題を解決するにしても、今の日本社会が受け入れる基準はいわゆる「花岡和解」モデル以上ではないという現実である
日本の「外務省報告書」の記載によると、1943年3月から1945年5月までに中国から38,935名の青壮年男子が日本へ強制連行され、35社の大手企業の傘下にある135ヶ所の作業場で苦役に従事させられた。今は35社のうち24社しか残っていない。一方、中国人被害者が日本の裁判所に対して損害賠償を請求した訴訟は15件ある。訴訟対象は23社の企業に関係し、被害者の人数は25,226名となっている。15件のうち10件は既に裁判が終了し、5件は二審或いは三審の段階にある。終了した10件のうち3件は「和解」になった。信濃川案も「和解」の間際に立っている。訴訟を提起した案件が今後すべて「花岡モデル」での和解になると、中国人戦争被害者が日本に要求した損害賠償は、最終的に慈善的・人道的救済の形で片付けられ、結局、日本の戦争責任は曖昧に解決されてしまうことを意味する。
実は、賠償請求訴訟に入る前の段階で、花岡蜂起のリーダーだった耿諄氏は鹿島建設に未払い賃金を要求し、北海道にいる被害者仲間の劉智渠氏と日本の作家・石飛仁氏に代理人を委託していた。その後、田中宏氏、新美隆氏、林伯耀氏をはじめとする「考える会」は、「戦争被害者が日本に対して損害賠償を要求する」という正義の旗を掲げたため耿諄氏の心を打ち、それまでの委託関係を解消し、「考える会」関係者に委託した経緯がある。民族の大義の旗を高く掲げたが、結果は虎頭蛇尾で、初志に反したうえ内容まで変質した「和解」となり、悔やみきれない結果となった。
中国人の弱点は、いつも「民族の利益」を取るか「個人の利益」を取るかという葛藤の地平において、やむなく後者を選択してしまうところにある。
1997年7月という早い段階で、日本の『留学生新聞』の記者が中日戦争遺留問題について田中宏氏にインタビューしたことがある。「保守勢力の影響力が大きい日本で、このような敏感な活動をして怖くないか、危なくないか」という質問に対して、田中宏氏は次のように答えた。「いいえ、僕も『国家主義者』だから、僕こそ『右翼』だよ! 日本の名誉のためにやっているからだ」。
日本の愛国者たちが公平と正義を欠いた「和解」をもってして、自国の戦争責任を免責する。他方で、中国の被害者らは僅かな金銭により、歴史問題における自身の発言権を喪失してしまう。20年近く戦後補償訴訟が歩んできた道がようやくはっきりと見いだしたのはこういう現実である。
作者:旻子(ミンズ)、本名:李旻、中国作家协会会员、作家。代表作:『尊厳——半世紀を歩いた「花岡事件」―』等。
联络方式:E-mail : minzi8301@yahoo.com.cn
第二次世界大戦中、あなたの会社と日本政府は中国人労働者の強制連行、強制労働を共謀し、その不法行為を共同で実行してきたにもかかわらず、あなたの会社は、当時の中国人労働者への不法な人権侵害行為の事実に対し、最近まで責任の履行を放棄し続けてきていました。
そのため、当時の中国人労働者は日本の裁判所で訴訟を提起し、あなたの会社と日本政府による当時の不法な人権侵害行為に対して、謝罪の要求と賠償の請求を訴えました。
日本の司法制度のもと最高裁判所では一連の判決の中で、あなたの会社と日本政府は共謀し、中国人労働者の強制連行、強制労働などの不法行為を行い、さらには過酷な人権侵害を行ったことのいずれもが認められました。しかし最終的にあなたの会社が法律上の責任を負うべきとの判決は得られなく、それは明らかに法律の基本原則に反するものでした。
数ヶ月前、あなたの会社は、「和解」という形で、中国人元労働者との間における重大な人権侵害という歴史的遺留問題について、解決したいという意思表示をしました。我々はあなたの会社のこの動きを承知したうえ、中日両国の弁護士に依頼し、あなたの会社との交渉に臨みました。
しかし、非常に残念なことに、あなたの会社は、2007年4月27日の日本最高判決に示された今回の中国人元労働者の請求は「請求権の放棄」に該当するという極めて不当な判決内容を「和解条項」として盛り込むことに拘泥してきました。
われわれは、中国人が賠償を求める「請求権をすでに放棄した」というような誤った判断決して認められず、もちろん救済的ニュアンスの「償い金」も決して認められないことは、代理人弁護士を通じて表明してきたとおりです。
あなたの会社は、中国人元労働者との真の和解を求める意思があるなら、誠意を示さなければなりませんが、現在の「和解条項」の内容を見る限り、あなたの会社の誠意を読み取ることができません。
あなたの会社が提示された「和解」は、様々な事情を考慮した結果であるかもしれませんが、少なくともあなたの会社は和解という形で、歴史上の重荷を下ろしたいのではないかと、我々は理解しており、そのように受け止めてきました。
しかし、あなたの会社がこれまでの歴史事実や責任に対して、あやふやな態度や形ばかりの金銭を出すだけで重大な人権侵害の責任を終結させようというのであれば、我々は決して看過することができません。また、このままでは、あなたの会者が歴史責任の重荷をおろすこともできませんし。中国人被害者があなたの会社や日本政府に対して抱いている不信を取り除くことができないだけでなく、さらに深い傷を負うことになります。
先日、我々は代理人弁護士から、あなたの会社が誠意なき「和解条項」をあくまで固執していると聞きました。
そこで我々はここに、あなたの会社に対して、厳粛に声明を発表します:
1、あなたの会社が現在の誠意なき態度を続ける限り、我々はあなたの会社から提示された「和解条項」を認めることはできません。
2、もし、あなたの会社がこの「和解条項」をもって、元西松・信濃川作業所の一部の中国人元労働者あるいはその遺族と調印を行うであれば、その「和解条項」の中で和解対象となる信濃川作業所の中国人元労働者の人数および金額、そして、われわれがその和解に含まないことを明記しなければなりません。さらに救済を施す所謂「償い金」の総額から、我々の相当額を差し引かなければならなりません。さもなければ、あなたの会社はわれわれの合法的な権利に対して更なる侵害が生じたものと見なします。我々は必ずあなたの会社の責任を追及することとします。
3、我々は中国人元労働者の合法的な権利を守るために、今後も引き続つづきあなたの会社と戦います。
西松信濃川案 中国労働者 原告 韓英林 原告 李恕相続人:陳福梅、李玉芝、李剛 原告 李祥相続人:李迎紅(鴻)、李迎剛、李迎江、李迎芳、李洪勤 原告 候振海相続人:候建国、候秀英、候東格、候書英、候玉娥、候運龍 原告 郭真 相続人:郭増福、郭俊青、白艶紅 西松信濃川 中国労働者 霍増田相続人:霍金鎖、霍金林、霍金柱、霍金山、霍玉花、霍玉英 翟文印相続人:翟玉旭
2010年3月22日
二〇〇三年三月一〇日付け中国新聞網では、四月二日に「花岡蜂起の指導者・耿諄を含む河南省の花岡被害者及び遺族二〇余名が、それぞれ二五万円(約一・六万人民元)の賠償金を鄭州で受け取ることになった」と報じた。「花岡事件」の中国人強制労働被害者による賠償訴訟は、我が国ないし第二次世界大戦におけるアジア被害国の戦後対日訴訟の第一のものである。平頂山晩報も中国新間網とほぼ同内容の記事を載せた。これは、人間性を失い中華民族の尊厳をも顧みず、ありもしない話をでっち挙げてことの是非を混交し、人々を惑わす報道をもって、私に和解の受け入れを強要する行為である。
これに対して私、耿諄は厳正に意思を表明する。私は、依然として屈辱的な和解に反対を表明し、恥知らずな鹿島の救済金受け取りを拒否する(但し、私本人に限る)。ただし、花岡の被害者には、各々自分の権利があり、受け取るか否かは本人の自由である。如何なる者もこれに干渉する権利はない。
耿諄は「花岡訴訟」の原告団長であるが、「和解」の正文に署名をしていないのだから、私に対して「和解」は無効である。
以下に「花岡事件」の過程を述べることをもって真相を明らかにしたい。
(一)中国人が強制的に日本に連行されて苦役に従事した過程の概況:一九四四年、日本軍は、中国の抗日戦で捕えた軍人、および抗日根拠地で大掃討を実施した際にハ路軍に通じているとの罪名で捕えた無辜の一般住民のあわせて約千人を、前後して日本に連行した。途中で死亡した者を除いて九八六人が日本に到着し、秋田県花岡町の鹿島組(現在の鹿島建設株式会社)事業所に送られて苦役に従事させられた。鹿島の残酷な処遇により、わずか半年の間に死亡したものは四一八人に達した。
耽諒と苦難を共にした王敏らは、一九八九年一二月、鹿島に公開書簡を送って三項目の要求を行った。(I)被害者に鄭重な謝罪、(2)日本の大館と中国の北京の二箇所に死亡した人々を悼む記念館を建設、(3)九八六人の被害者あるいは遺族に一人五〇〇万円の補償を支払い受難の痛みを癒すこと。これを受けて、翌九〇年七月五日、双方は東京の鹿島本社で話しあった。鹿島の代表者・村上光春は、私たちの要求の第一項目に対して、その場で深く謝罪を表明した。第二、第三の項目については、双方が代表を派遣して協議を継続し、早期の解決を図ることを決定した。同時に「共同発表」を出したが、その後思いがけないことに鹿島はこの約束を反古にし、協議は中断したまま四年が経過した。そこで、協議には希望をもてないと判断し、耽淳ら一一人が原告団となって九八六人の利益を代表し、日本各界の有識者らの支援を得て新美隆を代表とする一六人の弁護団に委託し、九五年に東京地方裁判所に鹿島を提訴した。裁判所はこの案件を受理し、二年半の間に七回開廷されたが、証拠も取り上げず短時間の審理ですぐ休廷に入り、結局原告敗訴を宣告した。原告団は、公正さを欠いた判決に援して憤り、弁護団とともに東京高等裁判所に控訴した。高等裁判所はこの案件を受理し、九〇年の「共同発表」を基礎にして法廷外調停を行うとの提案を九九年に行った。
(二)原告団、調停を受け入れる:新美隆弁護団長は、原告団に対して次のように要求してきた。いわく、国境を越えた訴訟のため、往復はたいへん面倒だ。これを受けて原告団は、十分な信頼のもと弁護団に調停をすすめる全権を委託した。
(三)新美弁護団長は、原告団から全権委任を受けて鹿島との和解調停をとりまとめた。これを受けて二〇〇○年一一月一七日、北京のホテルで原告への報告集会が聞かれた。そこでは、共同発表を基礎として鹿島が改めて謝罪し、五億円の賠償金を出して中国紅十字会がその管理・運営(配分)を引き受けるという和解条項が報告された。原告団はこれを受け入れ、特に異議は申し立てなかった。原告団は、弁護団に対する深い信頼から全く内容に疑いを持たず、厳密に和解文書の提示まで求めなかった。会議の雰囲気は和やかで、田中宏教授が和解成功の祝辞を書いてはどうかと提案したので、私は求めに応じて次のように揮毫した。「歴史の公道を取り戻し人間の尊厳を守ろう 中日の友好を促進し 世界の平和を推進しよう」。北京からは中国紅十字会の幹部である張虎も参加していた。
(四)花岡事件が決着をみれば、余生を安らかに過ごせる。散会のまえに、耿諄は次のように提案した。新聞などに速やかに被害者を探す記事を載せること、紅十字会は千人の名簿にもとづいて花岡被害者・遺族がいる地の紅十字会に調査をさせ、該当者に証明書を持たせて北京で賠償金を受け取らせること、と。
私は、他の九八五人全員が受け取った後に賠償金を受け取り、もし一人でも受け取らなければ自分は受け取らない旨を表明した。また、人生も残りわずかとなり体も極度に衰弱してきたので、この事件に関する会議や活動にこれ以後は参加しないことも話したが、これに異議を表明する者はなく、会議は夕刻散会した。
(五)帰宅後しばらくして、日本から「和解条項」の文書と鹿島のコメントが送られてきた。それを読んだ私は、怒髪天を衝き、胸がはち切れんばかりとなって朦朧となり、昏倒して病院に担ぎ込まれた。
(六)花岡訴訟は「和解」で完全に失敗した。それを思う度に、胸を鋭利な刃物で突き刺されたような痛みを覚える。
「和解」に列挙されている各条項は、みな被害者に足かせをはめることばかり規定している。それは、九〇年の謝罪さえもご破算にするもので、記念館の建設については、一字も触れてはいない。僅かに五億円は出すものの、賠償でも補償の性質を含むものでもないと称している。
気骨のある中国人で、この仕打ちに対して、この上ない恥辱と悔恨を感じない者がいるだろうか? 和解の内実は会議で新美が説明した内容とまったく異なる。私は、和解に断固反対し、金の受け取りを拒否することを誓う。このような「和解」は、私には無効である。
(七)鹿島は、そのコメントの中で、中国人強制連行被害者を殺害したことには一言も触れていない。反対に自らを慈善家と任じて、どうあっても過ちを認めようとはせず、恥というものを知らない。
(ハ)いま振り返ってみれば、このような結果になったのは、私には人を見る目がないため欺かれ、利益を売り渡され、取り返しのつかない失敗をしてしまったからである。この責任は私が取らなければならない。本来、もうこの件には関わらないと決めていたのだが、思いがけず、民族の尊厳を失わしめる「和解」と恥知らずな鹿島の救済金の受け入れを迫られてきた。私はこれら脅迫者にはっきりと警告することにした。私は、九〇歳の老骨といえども人間性を失ったこれら卑劣な輩には断固として反撃する。
(九)日本各界の賢明な人々が「花岡事件」に一貫して大きな支持を寄せて下さり、中日間の伝統的な友好に尽力され、中日両国人民の深い友誼を打ち立てた。私は前後七回の訪日でこのことに深い感銘を受けた。
在日の華僑が祖国を熱愛し「花岡事件」へ力を尽くして支持をくださったことに、花岡被害者及び遺族は心から感謝している。
耿 諄 二〇〇三年三月一四日
私は、原告の一人として、昨年十一月二十九日に東京高等裁判所で結ばれたいわゆる花岡和解を決して受け入れることができません。
私の考えは原告団会議の場で繰り返し申し出ていましたが、先生方は私の意見を無視され、裁判所にも報告せず、外部にも公開しないできました。やむを得ず、私は、今年の六月二十五日に「花岡事件『和解』の欺瞞を告発する」という声明文を発表し、中日両国のマスコミに報道されました。しかし、先生方からは相変わらず何の反応をも得られていません。八月九日、北京で「花岡受難者連誼会」の幹事会が開かれた時、先生方は北京にいらしたにもかかわらず、会議には出席されませんでした。私は、通訳に先生方との話し合いを要求する旨を伝えてもらいましたが、拒否されました。原告の弁護士として、職責を果そうとしないでいることの理由は、単に職務上の「怠慢」だけなのか、それとも他に何か言えないことがあるのでしょうか。
早くも「和解」から一年になろうとしています。一九九九年八月十三日、先生方が鹿島に企業責任を認めさせると約束し、原告側に「全権委託書」を要求した時のことはいまでも鮮明に覚えています。しかし、「和解条項」では鹿島は企業責任を認めていないにもかかわらず、先生方は原告に代わってそれを「了解」しました。原告弁護士として、このような原則に関わる問題に関して、原告に報告もせず、当然原告の意見を聞くことなく、独断的に決定を下し、むしろ被告側鹿島の方に肩入れしています。このようなやり方は、職業倫理に反する行為なのではありませんか。
ここで、幾つか質問をしたいと思います。これまでのようにひたすら回答を引き伸ばしたりされず、真摯な態度で答えてくださるよう願っています。
第一に、「和解」成立前、「和解条項」の原文を原告側に示さず、十分な説明をも怠ったことは、原告側が和解の内容を知ったならば、必ずこの被告鹿島にのみ有利な和解を拒否することになったからではないでしょうか。
第二に、「和解」成立後、「和解条項」、裁判官の「所感」、及び鹿島のコメントについて、いち早く原告側に報告・説明すべきではなかったのでしょうか。どういった考えからそれを遅らせたのか、そして実際どのように報告・説明をしたのでしょうか。
第三に、原告の利益を代表・守る立場でなければならない弁護士として、なぜ鹿島側の劣悪な態度を放任したのでしょうか。花岡受難者連誼会幹事の耿碩宇の強い要請を顧みず、逆に鹿島に感謝の意を表したのはなぜなのでしょうか。
第四に、原告と花岡受難者連誼会に見られた「和解」への反対意見、耿諄氏の談話、私・孫力の声明に関して、先生方は無視されつづけ、いかなる措置をも取らないおつもりなのでしょうか。
第五に、この「和解」によってもたらされた看過できない結果のひとつとしては、「和解」を受け入れた被害者とそうでない被害者とを激しく対立させる可能性を孕んでいることであります。被害者同士がお互いに争い、加害者である鹿島が漁夫の利を占める、という事態に対し、弁護士としては何らの責任をも取らないおつもりなのでしょうか。
この「和解」は、花岡被害者やその遺族だけでなく、すべての 中国人民 に対する侮辱であります。「和解」内容にショックを受けた耿諄氏は卒倒し、私の兄も脳卒中などを患いました。事実を知っていた周りの友人たちで憤慨していない人は一人もいません。さらに、北京から河南省の耿諄宅に「良心を売り渡した奴!」との抗議の声も投げかけられました。原告らは無実です! 先生方は、原告らが「和解」の内容を知らなかった事実を明らかにすべきではないでしょうか。
ここで、私は再び通告します。二〇〇〇年十一月二十九日に成立した「和解条項」の全文は、原告の一人である私に対して説明されることはなく、中国語の文面も日本語の文面も見たことがありませんでした。当然「和解条項」に同意し署名をしたこともありません。したがって、花岡被害者の根本的利益を裏切り、中国人を侮辱した「和解条項」を認めません! この「和解」は法的効力を有しません! 私は、次のように要求します。迅速に有効な措置を取って、裁判所に通告し、審議を再開すること。歴史の真実を正しく記録し、善悪を明らかにすることによって、死者の霊を慰め、生きている人に希望を与える結果をだすこと。
上述の二点に対して、本年十二月二十九日までに公開回答を提出されますことを要求します。私は、得られた回答に基づいて、中日両国、特に日本の弁護士界に法的支援を申し入れるか否かを決め、自身の上告を申し立てる権利を断じて守るつもりでいます。正義を取り戻すため、平和を愛する中日両国人民、及び各国の平和勢力と協力し合って、鹿島から勝利を勝ち取るまで闘いつづけます!
花岡事件訴訟原告:孫力
二〇〇一年十一月二十六日
同時送付:中国紅十字総会、東京高等裁判所、中日両国のマスコミ
(山邉悠喜子・張宏波訳)
<人民網石家庄6月26日発(潘健記者)>:本日午前、花岡事件損害賠償訴訟の原告であり、花岡事件の受難者連誼会幹事の孫力氏は、花岡「和解」を受け入れるつもりは全く無いとの声明を発表した。この声明は石家庄市で開催された「花岡事件56周年記念フォーラム――中国人労工に強制労働を強いた日本政府と企業の罪を告発する」の席上で発表されたもので、参会者の熱烈な拍手を浴びた。声明の全文は以下の通り:
2000年11月29日、日本で出された花岡事件の「和解条項」は、原告には知らせることがないまま、鹿島と裁判所、弁護士が共同して画策し、つくりあげたものだ。
一審が敗訴となり、二審は六回開廷して審議未了のまま、法廷は和解方式での解決を提案し、同時に原告に対して「和解勧告書」を提示した。弁護士は原告に十分な説明を行うと同時に、それが90年7月5日の当事者双方による「共同発表」を基礎としたものであるから、原告の政治的目標は達せられていると繰り返し強調した。原告たちはこのような説明を受けて、「共同発表」の原則とは鹿島が歴史的事実を認め、賠償、謝罪に応じ、企業責任を負うものであることから、こうした原則が再度確認されるのなら、賠償金額が幾らか少なかったとしても、弁護士を信頼し、譲歩して和解には同意する意向を表明し、「勧告書」とは別の紙に署名・捺印した。様々な事情があって当日参加できなかった原告には、人を派遣して各家を回って署名・捺印を求めた。その際、弁護士は原告に対して、和解交渉の過程で生じる問題に対して随時対応できるようにするため「全権委任状」を書く必要があると言った。一同は弁護士に対する信頼と、交渉が円滑に進むためという思いから「全権委任状」に署名・捺印した。
2000年11月19日、北京での原告との会合で、弁護士は一同に、これが最後の報告です、主として皆さんに11月17日に達成された和解の具体的内容について報告します、事実上、「勧告書」の内容とほぼ同じです、と言った。彼は、「前回の和解案(勧告書を指す)と内容は基本的には一致していますから、再度の署名・捺印の必要はありません」と言った。その日の午後、更に一同に「和解達成はもうすぐです。みなさんの気持ちを表す為に、書をしたためて、そこに全員署名しましょう。私はそれを国内に持ち帰り、皆さんのお気持ちを伝えます」と言った。彼のすすめと誘導、働きかけで、一同はあの揮毫をまとめあげ、参加者全員が署名した。
2000年11月29日に日本で公表された花岡事件の「和解条項」と、同日に発表された鹿島の「コメント」を、私は12月の初めになってようやく、中国人留学生が中国語に訳した書面で目にした。その瞬間、驚いて雷に打たれたかのようだった。署名・捺印、全権委任状、揮毫という原告への三度にわたる要求は、すべて緻密に画策されたものであり、最終的に「和解条項」を世に送り出すための事前準備であったとはじめて分かった。
この「和解条項」は、受難者が1989年12月22日に発表した「公開書簡」、および当事者双方が交わした1990年7月5日の「共同発表」の趣旨とは、完全に相反しており、明らかに鹿島寄りで、鹿島を免責するものであり、中国人の顔に泥を塗ったものだ。56年前に内外を震撼させた「花岡蜂起」の義挙を「いわゆる花岡事件」と称して汚辱している。鹿島が法的責任を認めないことに対して原告はこれに「異論」が無いことになっているし、いかなる時、いかなる地域でも鹿島の罪を追究することを放棄し、以後は鹿島に「否」と言ってはならず、再度債権・債務問題を提起してはならないなどとある。なんと荒唐無稽なことだろうか! これは被害者の身を完全に売り渡す契約書だ! このような条項に原告が署名したと誰が信じるだろうか? 「和解条項」に呼応するように発表された鹿島の「コメント」は、花岡986人の労工を迫害し、そのうち418人もの人を虐殺し、殴り殺した罪には全く懺悔の気持ちがなく、歴史的事実と血腥い罪を極力歪曲し否認するものである。
私の父・孫基武は花岡蜂起が失敗して捕まえられた後、大館市花岡町の共楽館前広場で生きながらにして殴り殺された。にもかかわらず、鹿島は「誠意をもって最大限の配慮を尽くしましたが、多くの方が病気で亡くな」ったと世人を騙した。動かし難い証拠は山のようにあり、罪を逃れることはできないし、法的責任を回避することは許されない。5億円で418人の命をあがなえるのか!? さらにこれは拠出金であり、救済であって、賠償や補償の性質を含むものではないとある。これこそ中国人に対するこのうえない侮辱である。
私は重ねて表明する:原告の一人として2000年11月29日に公表された「和解条項」の全文については、事前に弁護士から説明を受けてはいないし、弁護士は中国語の文面資料を提供しなかったし、さらにこの「和解条項」に署名・捺印もしていない。彼らは巧妙にも、原告を騙して「勧告書」へ署名・捺印をさせて、それを「和解条項」の署名・捺印にすり替えた。私は、被害者の根本的利益を売り渡し、中国人に屈辱を与える「和解条項」を認めず、断固として反対する。この「条項」は全く法的効力のないものだ。全ての原告は真相が知らされなかったのだ。
花岡蜂起56周年を迎えるに当たって、私は悲痛な思いで父を偲び、同時に鹿島に殺害された全ての労工先人に哀悼の意を捧げる! あなた方の魂がこの和解を知ったならば、この世の不正義に対して悲鳴と叫びを発していることだろう! 罪もなく殺されたあなた方の魂が黄泉の国でも永遠に心安らかに眠れるように、我々は必ず鹿島に対してその血の債務を取り返し、そして花岡事件の歴史的真実を取り戻すのだ!
鹿島との闘争は長期にわたって錯綜し、その道は決して平坦ではないだろう。私は堅い信念と決意をもって、正義の中日人民と世界の平和を愛する人々とともに、鹿島と最後まで闘い続ける!
中国人民を虐げ侮辱するのを許さない!
花岡事件損害賠償訴訟 原告
花岡事件受難者連誼会 幹事
孫力
2001/6/25
(山邉悠喜子・張宏波訳)
以上
1989年12月22日の鹿島組に対する「公開書簡」(別紙1)および1990年7月5日の「共同声明」(別紙2)、1991年1月6日「再度鹿島建設に送る公開書簡」(別紙3)、1998年3月4日の「声明」(別紙4)の原則に基づき、未完の事項について重ねて主張する。
耿 諄
2000年11月17日
(一)「花岡虐殺事件」は歴史的といえる悲惨な虐殺事件だ。もし鹿島がこれに対して誠意と反省の態度を示すことなく、残された課題を速やかに解決しないならば、必ずや世論が高まり多くの非難を受けることになる。
(二)「花岡虐殺事件」は鹿島自身の手で引き起こされたものである。その責任は他に転嫁できるものではない。当然、勇気を持って全ての責任を自ら負うべきだ。事実を覆い隠すための身勝手な理屈で責任を逃れようとすることは、鹿島の凶悪性とそれを改めようとはしていない姿勢を証明するものだ。さらに、鹿島が当時418人を無惨に虐殺したのは、故意であったことの証明でもある。
(三)鹿島は信用こそ命であると知るべきだ。それは一個人でも同じであり、一企業でも当然のことである。鹿島は今こそ、翻然と目覚めるべきである。既に次のような声があがっている;鹿島の富は累々たる白骨の上に築かれたものであり、どうして悲哀と憤慨を抱かずにいられるだろうか、と。
(四)鹿島には、過去を懺悔して人の道に従って責任を果たし、受難者の一切の問題について適切に対処することで、世の人々の理解と称賛を得られんことを希望する。
(五)いま心から鹿島に促そう。誠意と自覚をもって、主体的に受難者の要求に従って根本的な解決を図ること。罪悪の帳簿の中からこの血債を消し去る千載一遇の機会を逃せば、非難と告発が長く続くことになるだろう。この歴史的な血債は自然のうちに消えるものではないことを鹿島は深く考えるべきである。
受難者1000人の隊長 耿諄
一九九一年一月六日
(山邉悠喜子・張宏波 訳)
1944年から1945年にかけて、株式会社鹿島組花岡鉱山出張所において受難した中国人生存 者・遺族が今般来日し、鹿島建設株式会社を訪問し、次の事項が話し合われ認識が一致したの で、ここに発表する。
1990.7.5東京にて