Previous/PalestinaSolidalitySapporo 松元保昭氏のパレスチナ便り pdf jtd

みなさまへ(転送可)おひさしぶりです。5度目のパレスチナに来て、はやひと月近くになります。CPTの研修も無事終え、いまはアイザリヤで文化センターや孤児院の取材をしています。今月中にはヘブロンに戻る予定です。これから何回か「パレスチナ便り」を送りますので読んでみてください。パレスチナ連帯・札幌 松元

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松元保昭200906121-印象記
松元保昭20090612b2-睥睨する入植地
松元保昭200906163-かれはテロリストだ
松元保昭200906184-パレスチナ社会―もうひとつの問題
松元保昭200906205-パレスチナ、ある家族の夢―ヴィジョン・センターの創設
松元保昭200906216-ラザロ・女の子の家(ラザロ女子孤児院)
松元保昭200906267-水
松元保昭200907068-パレスチナ人って、誰?
松元保昭200907159-占領経済:死なぬよう、生きぬよう
松元保昭20090803a10-平和をつくりだす人々―Tent of Nations
松元保昭2009073011-キブツからパレスチナへ その1、キブツの生活
松元保昭20090803b12-キブツからパレスチナへ その2、私の中に黒い雨が
松元保昭20090803c13-キブツからパレスチナへ その3、平和の種を蒔く
松元保昭2009081614-神は細部に宿る-その1
松元保昭2009082415-神は細部に宿る-その2

松元保昭200906121-印象記

2年半ぶりにパレスチナに来た。驚いたことは、西岸支配がほぼ目論見どおり完結しつつあることだった。カランディアとベツレヘムの巨大チェックポイントで南北の首根っこを押さえられ、北でも南でも入植地を眼にする山がなんと増えたことか。誰に聞いてもセツルメント(入植地)が増え続けているという。さらにそれを囲む巨大な大蛇のように8メートルの分離壁が全域で縦横にうねっている。

とくに東エルサレムからジェリコにむけて拡大されている最大入植地マアレ・アドミウムを中心とするエリアはミリタリー・エリアに接続して地図上では完全に南北を分断している。いわゆる大エルサレム構想の実現である。ちなみに点在する入植地周辺はさらに入植地管轄地域と軍事エリアに囲まれているのだから、西岸全体のおよそ三分の二の土地はイスラエル軍が直接管理支配していることになる。ヨルダン回廊からヘブロン南部までの広大な領域はすべてミリタリー・エリアである。ここでは軍法がすべてに優先するので「安全」の名の下に家屋や農地の破壊、土地の強奪、おなじことだが人権・生活権の侵害と破壊がすべて許される。ジュネーブ条約など国際法の入る余地はない。そういう地域が西岸の三分の二であることは記憶にとどめておくべきだ。軍事占領とは、そういうことだ。

西岸を4つないし20ほどの島(バンツースタン)に閉じ込めるというイスラエルの政策はほぼ完結しつつある、というのが第一印象だった。「二国家共存」などという絵空事をやりとりする「国際社会」のなんと虚ろで欺瞞に満ちていることか。自治区などといっても厳然とイスラエル軍のコントロール下におかれ日毎にIDチェックを受けるパレスチナ人は指導者もなく、照りつける太陽の下で全生存への重圧と砂利を噛む諦念に満たされているかのようだった。

とくにジャッファ門内外の「イスラエル化」には眼に余るものがある。門の内側、スークの上方は、02,03年のころは閉鎖された店が多く閑散としていた。06年、門のすぐそばでイスラエル批判、ファタハ抗議の気炎をあげていたコーヒーショップの親父はすでにつまみ出され、ユダヤ人の店が立ち並ぶ。小路にはネオンが瞬き観光客とユダヤの若者がビールをあおる。門の外側には最大繁華街ベン・イェフダ通りに通じるマミラ・ショッピングモールが整備され銀座か原宿のようである。おまけに建設中の近代的なトラム(市電)が、ダマスカスゲートの真ん前を通るのだから景観は大きく変わるだろう。

正義はどこにも実現されずに、不正義を闊歩する文明国イスラエルと不正義の泥沼に首まで浸かったパレスチナとが同時並存している逆さまの世界、それがこの地だ。


松元保昭20090612b2-睥睨する入植地

睥睨(へいげい)とは、「あたりを睨みつけて勢いを示すこと」と辞書に書いてある。今回はじめてマアレ・アドミウムの高台から東エルサレム方面を眺めてみた。まさに睥睨する気分である。パレスチナを車で走ると左右の丘陵の高台に、レンガ色の屋根の白い建物が整然と立ち並ぶ新興団地がいくつも眼に飛び込む。パレスチナ人の村落はほとんど谷あいの斜面にありむき出しのコンクリート色をしているから、山頂にある白い西洋風入植団地とはすぐに区別がつく。それにしてもなぜ山の頂上にばかり団地群をつくるのだろう。イスラエル側は「セキュリティ」と答えるだろうが、まさに「お前たちとは住んでいる世界が違う」と言わんばかりの差別化の象徴的景観が入植地だ。

この入植地が西岸には121ヵ所もあり人口何万という巨大入植地が12ヵ所ある。入植者総人口は28万5800人で、東エルサレムの入植者約20万人を加えると50万人に達するという。さらに100ヵ所のアウトポストといわれる違法入植地、ユダヤ人専用道路、入植地管理の周辺エリアが加わる。08年では、イスラエル領内の人口増加率が1.6%だったのに対し入植者増加率が4.7%だったという数字にも、入植地の急速な増加が認められる(数字はイスラエル内務省)。

問題なのは、土地強奪の上に成り立っているこの入植地が西岸パレスチナを虫食い状態にし、ヘブロンのような入植者による絶え間のない人権侵害の原因であり、「和平」を阻んでいる最大要因であるのだが、あとで触れることにする。

さて睥睨とは、見下ろすこと、見下すことである。入植地ばかりではなくイスラエルに入ると否が応でも若いイスラエル兵の男女と視線をあわす。彼ら(彼女ら)の目線は終始、睥睨である。二十歳前後の若者が誰彼かまわず、まず睨みつけ、顎で「行け、戻れ」を命ずる。他方、パレスチナ人はチェックポイントでもセルビスでも、毎日のようにこの視線を浴び無礼な所作に黙って耐え忍ばなければならない。ヘブロンなどでは、自分たちのモスクに入るときでさえそうなのだ。

徴兵の若者たちが、「睨みつける他者がいる」というディシプリン(規律訓練)を通過すると、ほどなく彼らは、ガザの子どもたちを殺してもいいという「安全神話」のなかに入って行く。軍はまさしく国民養成機関として立派に機能しているのだ。そういえば、国立ホロコースト記念館ヤド・ヴァシェムに、なんと兵士の多いことか。

ヨーロッパを周るといたるところに十字軍時代の砦が残っている。その多くが山の頂にあり街もできている。軍事施設といえばそれまでだが、ゴシックにしても天を目指す営為と異民族を睥睨支配するヨーロッパの欲動を、ここイスラエルで感じている。パレスチナ人が、高い山頂に住まないのはなぜだろう。神殿の丘のように、高いところには神が住んでいるからなのだろうか。入植地とパレスチナの村々をみて、そんなことを考えた。


松元保昭200906163-かれはテロリストだ

He is a terrorist.―パレスチナを歩くと、イスラエル兵がこう語るのをしばしば耳にする。

CPTの研修もなかばのころ、私たちは3日ほどヘブロンに滞在していた。研修とは、パレスチナ・イスラエル双方の活動家やNGOからレクチャーを受けたりさまざまな被害をうけている現地の声に耳を傾けたり視察をする毎日だ。私たちは、イブラヒーム・モスクに近いスークの中ほどに位置するCPTのオフィスに寝泊りしていた。

その日の夕刻、視察を終えイスラエル監視塔が据えられているH2(注)の中心ベイト・ロマーノからスークに入ると、何やら5人ほどの若者が店じまいをした鉄扉の前に立たされていた。見るとイスラエル兵が5人やはり店じまいした向かい側の店先の階段に陣取りあるものは銃をかまえていた。すこし先には、TIPH(ヘブロン暫定国際監視団)のブルーのジャンパーを着た二人がしきりに電話をしていた。立たされていた若者たちとイスラエル兵およびTIPHの間隔は、7~8メートルである。そこへ12名の赤い帽子をかぶった私たちCPTメンバーが被疑者・若者たちといっしょに援軍として並んだ。話を聞くと3人のパレスチナの若者がID(身分証明)を没収されたという。パレスチナでは、このIDがないと移動の自由はまったくない。ISM(国際連帯運動)の若者が2名まじっていた。にらみ合いがつづいた。イスラエル兵士はどこへ行っても横柄なもので、少年たちは立たせておいて、自分たちは階段に腰をおろし銃をかまえて睨みつけている。

私はイスラエル兵に近づき、「座ってもいいか?」とたずねた。いいというので、タバコを飲みながら「彼らは何をしたんだ?」とたずねた。兵士は答えないのが常道だ。するとしきりに上司と連絡をとっているリーダーらしき男が、「かれはテロリストだ」とつぶやいた。はぁー?と思ったが、日本がどうだ、空手がどうだとしきりに場の転換をはかってみた。兵士たちは大勢のインターナショナルズに囲まれて、2名のIDを返却し釈放した。しかし1名は返さない。にらみ合いはつづいたが、ついに兵士たちは上司の命令でモスク側の兵舎に1名の少年を連行していった。もちろん私たちCPTもISMもTIPHも追いかけた。しかし残念なことに、遮断された鉄扉のまえで私たちは何もできなかった。みな落胆してスークを戻っていると、ほどなくA少年(20)が笑顔で走ってきた。10分ほどで釈放されたのだ。みな歓声を上げ少年と抱き合って喜んだ。もしインターナショナルズの人々がいなければ、少年は何ヶ月か何年か刑務所で暮らさなければならない。とがめられた嫌疑は何か。「態度が悪い」ということだった。

つぎの日私たちはイッサ・アムロという地元の活動家の案内で、完全にゴーストタウンになっているシュハダ・ストリートから入植地テルル・メイダ周辺を視察していた。イッサ・アムロは、ユダヤ人入植者に攻撃されたり嫌がらせを受けたりしたパレスチナ人の証言を集めB’TSELEMなどの人権団体に寄稿しているパレスチナ人である。ヘブロンH2は、ほぼ50メートルおきに兵士のチェックポイントがある異常な街である。旧市街スークの入り口はブロックなどで完全に遮断され小さな兵舎を通過しなければテルル・メイダ地区に登ることはできない。パレスチナ人であってもガイドの許可証をもっているイッサ・アムロは日常的にこの検問を通過している。ところがその日、イッサは止められた。若い兵士が見た瞬間、「お前はテロリストだ」と言って通さない。問答をしているところへイスラエル軍のジープがやってきてイッサと言葉を交わす。ジープの上司がOKサインを出すと、若い兵士は面白くなさそうにイッサと私たちを通した。

私たちの研修も終えた6月6日、やはり旧市街スークでひとりの少年がイスラエル兵につかまった。彼は背が高いが8歳の子どもである。6人のイスラエル兵に取り囲まれ彼はおびえていた。そして首根っこをつかまれ暗がりのトンネルに引きずられていった。よくパレスチナ人が殴られるところである。通りかかったCPTのバーバラ・マーティンが、イスラエル兵に問うた。兵士が言うには、少年がたったひとつの石をミリタリー・ポスト(監視塔)に投げたというのだ。バーバラは、この少年と同じ歳の自分の孫が石ころで遊ぶことを思い出し兵士に問うた。「あなたには、石を投げて遊んだ兄弟はいなかったの?」兵士は答えた。「かれの親は石を投げてはダメだと教えていない。われわれが教えているんだ。」そして付け加えた。「かれはテロリストだ。」

バーバラも付け加えた。「イスラエル兵のこのばかげたステートメントを聞くのは初めてではない」と。(REFLECTION Hebron: One little boy/By Barbara Martens/6 June 2009 http://www.cpt.org/gallery )

イスラエルでは、パレスチナ人とおぼしき人間は皆が皆テロリスト容疑者である。つい口から出てくるイスラエル兵のこの言葉は、その後かれを人間として扱わなくてもよいという合言葉になっているばかりか、ガザ虐殺のさいに「テロリストと戦って何が悪い」とオルメルトが言ったように、イスラエルのいっさいの支配、横暴、暴行、略奪、破壊、虐殺の「正当性」の符牒となっている。一方が名指し、その瞬間他方がバーバリアン(野蛮人)に変貌し、その逆はありえない。しかし首根っこをつかまれた8歳の子どもをテロリストに仕立てているのは、ひとりイスラエルだけなのだろうか?

さらにあの「ばかげたステートメント」は、魔法の杖のように世界各地で乱用されている。チョムスキーのカリカチュアを地でいくように、日本では最近テロリストが「海賊」になっているようだ。先に名指すこと、先制攻撃をすること、これが要諦だ。

北海道では、人っ子ひとりいないサロベツ原野や根釧原野、積丹半島にも「テロ厳戒中」の看板が立っている。だれひとり異議申し立てをしない。「テロリスト」はかりにイラクやアフガンやパレスチナにいても、日本のどこにもいないことは子どもでも知っている。日本では視界にないものが、ここでは可視化され名指しされる。

アジア大陸の両端に起きているこの認識の対極は、異常と正常ではなく、ともに異常な世界の支えあうヤヌスの顔なのだ。この認識の対極を覆いもつ「反テロ戦争」のトリックと呪縛から、私たちは解き放たれていない。いないからこそ、ここイスラエルでは大手を振って「ばかげた理屈」がまかり通る。暗がりで首根っこを押さえられ「教育」されている8歳の子どもと、ローンと生活苦に首根っこを押さえられ「反テロ戦争」と「先制攻撃」の洗脳をされている私たちと、重なる。


松元保昭200906184-パレスチナ社会―もうひとつの問題

まだ現地に暮らしてひと月足らずだが、ほんの少し見えてきたことがある。幾人かのアラブ社会・イスラーム知識人が指摘してきた「アラブの腐敗・堕落」に通じるものかもしれない。一言でいえば封建的遺制とでもいえるものなのだろうか。とはいっても、研究やリサーチをしたものではないので多分に憶測の入り混じった感想としてきいてほしい。

アラブ・パレスチナ社会は、家族が単位になってなりたっている。家族といっても日本のような核家族ではない。田舎に行くと「家族は何人ですか?」ときくと30人、50人の数をあげる。アッツ・ワーニでは、130人と答えられてびっくりした。ようするに親戚縁者は「家族」なのである。都会と田舎は違うが、じっさいに30人ばかりで共同生活をしている家族はいくつもある。家族の長は、いうまでもなく男の家長である。この家長たちが地域や職業によってさまざまなグループや野合・連合をつくり出す。家族中心のこの構造は、地域ボスをつくり、また家族内の問題を隠蔽する男社会優位の伝統を再生産させているようだ。

孤児とは、その家族からさえもこぼれ出てしまった子どもである。イスラエルの攻撃や逮捕・拘留によって、孤児が生まれる例もないわけではないが(昨年支援したダール・エイタンには、ジェニン虐殺で家族全員が殺された6歳の子どもがいたが)主要な原因ではない。なぜなら自爆攻撃はもちろん紛争の犠牲者は、シャヒード(殉教者)として家族が手厚く保護されているからだ。むしろ孤児院などで聞いてみると、父親の異常な暴力、性的暴行を含む暴力が原因になっていることが多く、圧倒的に閉鎖的な家族自身の問題から生じていることがわかる。

たとえばヘブロンはもっとも保守的な地域で複数の妻帯者が多いという。4人の婦人をかかえている家族も珍しくはないのだそうだ。人間であるから、仮に夫に嫌われしまった奥さんはもはや元の家に戻ることも出来ず、その子どもまでが虐待されてしまうといった例である。後で送る「ラザロ女子孤児院」には、洞窟で足をしばられ宙吊りにされていたというヘブロンのA子(8歳)、歯も抜かれガソリンをかけられ大火傷をしていたB子(7歳)などの事例がある。

こうした孤児院には、自治政府の援助がないことも家族中心社会の現れのようだ。ムスリム社会であるから、昨年のダール・エイタンのようにイスラームのワクフによって孤児院が経営されているところもある。しかしマイノリティのキリスト教徒が経営する孤児院は(欧米キリスト教会が支援している病院やプライベート・スクールなど多数あるが)、自治政府の援助は無論なくきびしい運営を余儀なくされている。

横道にそれるが、援助にあぐらをかいているようなNGOや施設もみた。ベツレヘムのあるNGO施設では、夜になっても何十もあるホール・食堂の電気を一晩中朝まで煌々と点けているところもあった。援助をうまく利用している地域ボスたちがいることも垣間見た。自治政府から地域に下りてくるカネを横取りしたりするようなボスがいても、日本のような制度化された利権集団がいることを考えれば、なんら不思議ではない。(ひとのことなど、言えないのだ。)

またパレスチナ社会にいると、異常にごみが多いことにも気付かされる。とくにここアイザリヤは、街中ごみだらけと言ってもいいくらいだ。各所にダンプがあって毎朝ごみ収集車がかき集めるのだが、いつもごみが山になってあふれ出ている。おまけに空き地があれば、ごみを捨てるのは習慣のようだ。道路の舗装がひどいことはイスラエルの占領政策の結果かもしれないが、このごみ問題は自治の未発達、コミュニティ感覚の欠如を疑わせるに十分である。

ついでに言えば、車もほとんどがごみのような車である。20万キロをとっくにオーバーした、日本では三度も廃車にしたような埃だらけのポンコツがあふれている。とうぜん、日本の車も多い。さきのごみも大半はビニールなどの化学製品である。第三世界の貧困国は、つくづく先進国の「ごみだめ」になっていることを嫌でも感じさせられる。だからこういう経済構造が、自立を阻んでいることも確かだ。

とはいえ、どんな自治をしているのかたずねてみた。むかしはムクタールという村の長(おさ)がいておおむね善政をしいていたらしいが、市町村自治体の議会が出来るようになると同族集団の大小によって選挙も決まり必然的に地域ボスたちが議会を占める。電気、水道、道路が自治の主要な問題らしいが、横領、賄賂がなかば公然化していて、現に、村長や町長が汚職で逮捕され何度も選挙を繰り返す自治体もあるという。住民も議会などにあまり期待はしていないようだ。だれに聞いても、職がない、壁とチェック・ポイントで往来の自由がない、希望を持てない、などが重大問題なのだが、地方自治体には手も足も出ない問題なのだ。孤児やごみなどの問題は二の次三の次となる。占領と伝統が、二重にパレスチナ社会を閉鎖に追い込んでいるようだ。

とはいえ、アラファト時代から言われてきた自治政府の「腐敗・堕落」、エジプト、ヨルダン、サウジ等々の親米利権イスラーム国家群などの成立事情も、このように再生産されている「伝統」を考えればすこしは納得がいくというものだ。

こうしてみると底辺のパレスチナ人の苦難は、当面五つの巨大な力のもとで呻吟していると考えた方がよさそうだ。第一に、アメリカを先頭とした日本も含む卑劣な「国際社会」。第二に無論、泥棒国家イスラエル。第三に、金権独裁の周辺アラブ諸国。第四に、売国奴アッバス自治政府。第五に、これに連なるパレスチナ内部の地域ボスたち。パレスチナ人の解放とは、容易でないことがわかる。

しかし貧しい人々によって、子どもたちの教育をつうじて地域のあたらしい絆をつくりだす試みもなされている。孤児たちも巻き込んだアートとミュージックによる再生とは、次号をお楽しみに。


松元保昭200906205-パレスチナ、ある家族の夢―ヴィジョン・センターの創設

ウィリアム・ボスカールジャンさん(60)は、アルメニア教徒のパレスチナ人だ。若いころヘブロンの著名なウード奏者にみちびかれパレスチナ民族音楽の世界に入り、いまもアルクーツ大学などで教鞭をとっている。妻はナブルス出身のクリスチャンであったが、2年前に他界した。ウィリアムさんの祖父母たちは1915年からオスマン・トルコ帝国ではじまったアルメニア人虐殺のディアスポラ(離散の民)で、シリアを南下してパレスチナの地に定住した。ウィリアムさんは、パレスチナ人のナクバ(破局)である第一次中東戦争後の1949年に生まれている。したがって、彼は三代にわたって虐殺と追放を体験してきたといえる。

東エルサレムの東側には、人口3万5千人を擁する西岸最大の入植地マアレ・アドミウムがある。イスラエルは大エルサレム計画を実現するため広大な領地を分離壁で囲み西岸パレスチナ人を南北に分断しようとしている。このため全人口25万人のアイザリヤ、アブディス、サバハレの3地域は三方を8メートルの壁に囲まれてしまった。従来は10分でエルサレムに行けたものが、いまはセルビスでも1時間かかる。とくにジェリコからエルサレムにいたるジェリコ街道はラザロの物語で有名なように新約聖書時代からイエスも歩いたという地だが、いまは8メートルの分離壁によって無残にも直角に分断されている。

第一次インティファーダを地元アイザリヤで闘った経験を持つウィリアムさんは、1995年に音楽センターをつくった。しかし2000年からの第二次インティファーダで閉鎖に追い込まれてしまい分離壁に囲まれ閉鎖社会になったこの地域の子どもたちは、文化にも閉ざされるようになった。ムスリム人口が圧倒的に多いパレスチナの学校では男女別の二部制で通常音楽教育がなされていない。以前は、自由にエルサレムに行き音楽や文化に触れることができたが、壁に囲まれたいまはその多くが自由をはばまれている。失業率も年々悪化する一方だ。ウィリアムさんは言う。

「私たちは貧困ではあるけれど、それが問題なのではない。私たちは闘争を繰り返してきた。しかし闘争だけでは希望はない。閉ざされた社会の中でも自由で創造的な平和を創り出すことこそ必要だ。封建的な地域ではあるが、若い男女が一緒に音楽を奏で絵を描き一緒に民族舞踊を踊ることは、閉ざされた世界から新しい希望の世界をつくりあげることになる。」

「私の夢は、ここに土着している住民がともに家族として孤児たちと合唱団をつくり、パレスチナだけでなく世界各地を周ることだ。私の家系は音楽一家だが、ラマッラなどのエリート教育を目指してはいない。音楽は、LOVE、PEACE、FREEDOMを実現するものだ。」

エルサレムで生まれた次男のヌバールさん(27)は、ピアノとトロンボーンが専門でコンソルバトワール、マグニフィカントの卒業生で、このヴィジョン・センターの代表を務めている。父がラムレ出身のベツレヘムの難民キャンプで生まれたマナール・ワッハーブさん(23)は、三男ミラッドさん(26)の婚約者だが、ともにセンターの事務局を担当している。

こうして、この音楽一家は2008年アイザリヤの地に「ヴィジョン・センター」を創設した。合唱、各種楽器演奏、民族舞踊、絵画、語学など地域の若者の文化センターとして、定着しつつある。しかし自治政府の援助が皆無なのに加え欧米NGOのサポートも少なく、ボスカールジャンさん一家はみな外で週何日かのアルバイトをしながらこのセンターを支えている。世界中から支援が寄せられているアッバス自治政府のお金は、こうした貧しい地域や孤児たちのところには届かない。これもパレスチナ社会のもうひとつの問題だ。

今年で2回目のサマー・スクールとサマーキャンプがもうじき始まる。パレスチナの夏休みは、6月から8月の3ヶ月と長い。暑い夏を分離壁に閉ざされ家の中だけで過すのは子どもにとっても辛い。このセンターでは地域の子どもたちのために、アート、ダンス、ミュージックで午前中の4時間をすごすサマースクールを毎日開催し、ことしからは私たちのサポートで孤児院の子どもたちも参加している。さらに毎週土曜日には、ナブルス、ラマッラ、ジェリコ、ベツレヘムに、ローテーションを組んで月4回のサマーキャンプを二ヶ月かけて実施する。アメリカ人、フランス人の学生ボランティアも加わり、ゲーム、スポーツ、ダンス、ミュージック、ドラマ、アート・ワークショップ、水泳、植樹など、多彩なプログラムが準備されている。6歳から13歳までの約200人の子どもたちが参加するが、ムスリム社会では男女一緒の混合プログラムはこの地域でもはじめてだ。ウィリアムさん一家がクリスチャンだから出来たことだ。さらに閉鎖されている孤児院の子どもたち40人も一緒に参加できることになったので、確実に地域の子どもたちが結びつき始めている。外に出ることの少ない貧しい家庭からは大歓迎で期待されている。こうしてこのセンターは、地域が宗教の違いや利害を越えて子ども中心の文化活動でひとつになることを願っている。

ちょうど訪問した日に、5人の孤児たちが音楽を学びに来ていた。ウィリアムさんが合唱と楽器と楽曲を教えていたが、その熱心さには驚かされた。アイザリヤという地は聖書時代から外来者を快く迎えることもあって孤児院が多い。しかしどこも貧しく衣食住だけで精一杯のようだ。とくに楽器などは高嶺の花でキーボードひとつもない。だからこのヴィジョン・センターが出来たおかげで、望む孤児たちも音楽教育に接することできるようになった。

私たち「パレスチナ連帯・札幌」では、昨年から女の子の孤児5人がこのセンターで音楽に触れられるようにサポートをしてきた。それは昨年男の子の孤児たちを一日ピクニックに連れて行った際、「女の子の孤児たちはいないの?」という問い合わせが多くあったからだ。これがきっかけで、ことしはこのサマースクールとサマーキャンプに孤児たちが参加できるようになった。この夏の試みが成功するよう、私たちは陽の当たらない女子孤児院とヴィジョンセンターを援助したいと考えている。

代表のヌバールさんは、こう言っていた。

「パレスチナでは、仕事もなく失望し麻薬や暴力に身を投じている若者も少なくない。ミュージックとアートこそ内面の平和をつくりだす。子どものころから感情のこもった心で新しい世界をつくること、これがいまパレスチナには大切だ。」

聖書に「ヴィジョンなき民は滅ぶ」(箴言)という言葉がある。パレスチナの人々が屈することのないヴィジョンをもつことを願うとともに、私たち日本人のヴィジョンを考えさせられている。


松元保昭200906216-ラザロ・女の子の家(ラザロ女子孤児院)

アイザリヤは、エルサレムの東4キロほどのオリーブやブドウ、アーモンド、野菜などを生産する小作人の多い聖書時代からの農村であった。エルサレムからジェリコへ向かうジェリコ街道にあるため人の往来に昔から寛大で、イエスの物語にも登場するラザロの遺跡がいまでも街の中心にある。イギリス統治時代は2500人くらいの農村であったが、ヘブロンなど各地からの移住者も多くなり今では20数万人の小都市になっている。近くに大規模な入植地マアレ・アドミウムがあることから、2000年の第2次インティファーダ以後、三方が8メートルの分離壁に囲まれてしまっている。イスラエル側の雇用の道も閉ざされ、失業率は年々上昇して高学歴への就学機会もなく若者の将来は暗い。

「ラザロ・女の子の家」は、現在4歳から17歳までの31名がスタッフ6名とともに家族として暮らしている。年齢別に三つの部屋で共同生活している。もちろん自治政府の援助は皆無だから、外国からの援助を当てにして運営されている。

創設者のサマール・サハールさん(48)は、エルサレム生まれのカトリック教徒である。1971年両親とアイザリヤへ移住し、80年代両親が男子のジール・アマール孤児院を開設すると彼女も教師として運営に携わってきた。しかし多くの問題ある家庭からくる孤児たちは、男の子とともに当然女の子もいる。ジール・アマールには女子は受け入れられない。問題ある家庭では、女の子への虐待がつづく。この現実に罪を感じた彼女は、1997年2月、兄弟がすぐ会えるところとしてジール・アマールのすぐ下に女子孤児院を開設したのだった。

パレスチナ・アラブ社会は、家族の絆が強く家族単位で社会が成り立っている。反面、各家族の閉鎖性も強く、たとえば父親の暴力など家庭内の問題が表に出てこない封建制が根強く残っている。多妻制が認められているムスリム社会では、(ほとんどが一夫一婦制で生活しているが)なかには経済力があれば複数の妻をもつことができる。子どもが出来てしまった第一か第二の婦人が嫌われたり虐待されても帰るところがない。そういう子どもも孤児院に来るという。

サマールさんは言う。「開設した当初は、孤児ではなく大人の女性たちが多かった。イスラエルの刑務所から出てきても行くところがなく、ここへ逃れてきたのです。」日本のような「駆け込み寺」がないのだ。つい先日もサマールさんは、自治政府大統領アブ・マーゼン(アッバース)に直訴したという。それは、夫の打ち続く子どもへの暴力に耐えかねて5人の子をもつ母親が夫を殺してしまった。その女性の釈放を直訴したのだという。5人の子どものうち男の子3人はジール・アマールへ、女の子2人は彼女が引き取った。「子どもをかばった彼女に罪はないのです。彼女が釈放されれば、子どもたちはまた家族で暮らすことができるのです。」とサマールさんは言う。

父親の性的暴行も多く、洞窟で足をしばられ宙吊りにされていたというヘブロンのA子(8歳)、歯も抜かれガソリンをかけられ大火傷をしていたB子(7歳)。まだ4歳のC子は一年前ジェリコで雨の中道路の真ん中に捨てられていたという。両親から虐待され昨年東エルサレムの墓地で野宿していた10歳の少年D君は、男子孤児院にいる。

サマールさんは、「これはけっしてイスラエル/パレスチナ紛争の結果ではありません。パレスチナ社会自身がもっている問題なのです。政治的な問題が引き起こしているというのは誤解です。パレスチナ内部の問題をイスラエルの責任にするのは間違っていると思います。そしてインドでもアフリカでもおそらく日本でも起きている普遍的な問題なのです。」と強調する。

「私たちは自立をしたいのです。あるとき、イスラエルの女性たちが助けてくれました。その結果、二人の男の子がイタリアへ修行に行きピザ作りを学んでくることが出来ました。これで私たちはパン屋をつくることができました。ここからは人種差別は生まれません。私たちは、職のないパレスチナ人に職をもってほしいのです。」この孤児院では、子どもが成長するともっとも質の高い教育機会を与えることを誇りにしている。

「教育は―」とサマールさんは続ける、「世界を開く鍵なのです。そしてパレスチナの未来を切り拓くのは子どもたちです。これが私たちの目的の第一です。第二に私たちはここを孤児院とはいいません。私たちはファミリーをつくっているのです。ですから将来は、学校を卒業した子どもたちが一緒に生活できる“家(ホーム)”をつくりたい。そして第三に私には夢があります。アイザリヤ・アブディス・サバハレの壁に囲まれた3地区には病院がありません。25万人もいるのにですよ。とくに母親のための病院をつくりたい、これが私の夢です。」

いまも時間をみつけては欧米にドネーションを集めに歩いているという。

さいごにサマールさんは、こう結んだ。「生命は、神と悪魔の闘いの結果です。私たちは悪魔と闘っているのです。この闇の中で騒ぐより、その中で一本のローソクを灯すほうが大切です。」

パレスチナ連帯・札幌では、ことし、この「ラザロ・女の子の家」の孤児たち31名が、地域の子どもたち約200人にまじってサマースクールとキャンプに参加できるようサポートすることにした。どの孤児院も地域との交流がなく否が応でも閉鎖された環境にあるからだ。暑くて長い夏は、家の中に閉じこもっている子どもたちには過酷だ。子どもたちの新しい結びつきも生まれる。ラマッラ、ナブルス、ジェリコ、ベツレヘムの4ヵ所に一日バス・ピクニックできることを、子どもたちは楽しみにしている。


松元保昭200906267-水

CPTヘブロンでは、3日間シャワーなしでみんなが過した。そしてそのままさらに3日間、まだ各家に汲み井戸のある19世紀の村のような南部のアッ・トワーニ滞在だから都合一週間もシャワーのない生活を耐え忍んだというわけだ。日中の暑さはいつも35~40度はあるだろうか。とくに午後になると西日が熱い!という表現がぴったりあてはまる。だからCPTでは、若い男女二人が一時的にダウンした。こちらへ来てひと月以上にもなるがもちろん雨など一度も降らない。3ヶ月以上この状態が続くそうだ。

CPTでは、野菜や食器を洗ったり洗顔したり洗濯したりした水は、すべて流さずバケツに溜めておく。その水をトイレに使うのだ。一回するごとにひしゃく1、2杯の水をトイレにかける。それがアラブ式水洗トイレだ。大便などは2、3回でも流れないが、それも慣れっこになる。洗濯や調理の水をトイレに使うのはなかなかの知恵だと思った。ちゃんと臭い消しになるのだ。

ついでに言えば、トイレでは紙は流さない。使った紙はみな流さず溜めておく。あとでゴミといっしょに捨てるのだ。大便でも小便でも男女とも皆こうする。最初は違和感があったが、慣れるとたいして気にならない。イギリス統治時代からのものだそうだが、60年代まであった日本の和式トイレに較べるとはるかに近代的だ。

それにしても、シャワーのない生活はシンドイ。たまに使っても勢いがなくだらだらとしか出てこない。しかもたいして熱くないのだが、それでも出るだけありがたい。日本のような水圧のシャワーはここでは考えられない。(熱いシャワー、かけ流しの温泉が懐かしい!)

しかも週に一度くらいは西岸のどこでも断水があるようだ。パレスチナはいたるところ丘陵になっている。水は高いところから無くなるから、丘の上に位置する家々が何日も断水ということになる。ビルの5階、4階も同様に断水が続く。シャワーどころではない。調理やトイレの水は必須だ。

だから皆、普段から水を溜めておくことを絶やさない。パレスチナでは、どこの家庭でも大きなバケツやタンクを置いている。私も食器洗いや手洗い洗濯水はちゃんとバケツに入れてトイレに使うようになった。それにしてもこの慢性的な水不足は、なんとかならないものだろうか?村のボスが、水道代―これはイスラエル側に支払うもの―を横取りしてその穴埋めのための断水もあると聞いたこともある。しかしそれだけが原因とは思えない。

こんなことだから、パレスチナの多くの人はまず水、職、壁、チェックポイントを生活の障害にあげる。こんなに水が不足しているのだから、あの高いところに居住している入植地はどうなのだろうか?入植地に住んでいるタクシー・ドライバーに聞いても、ネゲブ砂漠のキブツにいるユダヤ人に聞いても、こんなことはないという。しかもユダヤ人家庭にはたいてい芝生付の庭があり日中はスプリンクラーが回っている。入植地にはプール付の家もあるという。

じつはWHOでは、一日一人当たり100リッターと勧告している。ところが西岸パレスチナ人の一日一人当たり水消費量は50リッターしかない。それに対してイスラエルの数字は4,5倍以上の280リッターである。西岸入植地への供給量ももちろん含まれる。この差はどこからきたのだろう。

パレスチナの入植地の地図をみた人も多いと思う。じつに入り組んだところに入植地があり、それを壁が取り囲んでまだらの大蛇が西岸を絞め殺しているようにも見える。そのなかで22キロも内陸に食い込んでほとんど指のかたちに近い北部のアリエル、ケドゥミム、カルキリヤを見ればイスラエルの意図は明瞭である。ここは占領している西岸の2,2%にすぎないが、しかしもっとも価値ある西側帯水層の水資源なのだ。だからイスラエルの分離壁と入植地は、パレスチナの大地とともに水資源をも奪い取っているわけだ。どうしてこうなったか?

歴史をさかのぼってみると、真実がみえる。1967年8月ミリタリー・オーダー(MO:軍令)92によって、イスラエルは西岸・ガザの水資源をめぐる権限を軍司令官に移管した。同年11月の軍令158は、新しい水道施設の無許可建設を禁止した。さらに翌1968年12月の軍令291は、すべての水資源を押収しそれらがイスラエル国家の所有であることを布告した。このときパレスチナ人の井戸は破壊された。1982年にはイスラエル水株式会社メコロットが占有し掌握した。これ以降、西岸パレスチナ人はこのメコロットから水を買わされるようになる。ユダヤ資本メコロットは、現在パレスチナを含む全イスラエルの90%の水を管理している。

オスロⅡによってイスラエル/パレスチナの合同水資源委員会が創設された。しかしイスラエルは、パレスチナ人の水道敷設計画に繰り返し拒否権を発動しどんな開発をも妨げてきた。パレスチナ人が西側帯水層を利用するため溝を掘ることをただの一回も許可しなかったのだ。これは結果として、パレスチナ人がユダヤ人の会社から3倍以上の高い水を購入するよう強制するものでもあった。

西岸の大部分はエリアCという直接イスラエル支配下にある地域である。ここのパレスチナ人の水使用量は、帯水層全水量の17%に制限されている。ユダヤ人入植者をふくめた全イスラエルは、残りの83%を使用しているというわけだ。

つまり1967年の占領以来、イスラエルはほぼ完全にパレスチナ人の水資源を支配してきたのだ。分離壁と入植地はあきらかにパレスチナ人の水にかんする権利を剥奪している。

国際法によれば、パレスチナ人はすくなくとも西岸の真下に眠っている東側帯水層の水資源のすべてに十分な統治権をもっているはずである。せめて西側と北側の帯水層にかんしても正義にかなった公平な分配が認められるべきである。さらに国際法が「公正と道理」をかかげるのであれば、イスラエルはパレスチナ人の水資源を違法に使い続けている現在から過去にさかのぼって賠償支払いをしなければならないはずである。

シャワー、トイレの話から結局、占領に行き着いた。パレスチナ人は自分の土地に眠っている水をイスラエルに奪われ、そしてイスラエル人よりも高いカネで買わされている。スプリンクラーと汲みひしゃくという占領経済の「さかさま」の事態がここにはある。(数字などはPASSIAから。)


松元保昭200907068-パレスチナ人って、誰?

ここアイザリヤからエルサレムに出るには、36番のセルビスに乗って行かねばならない。これは20人乗りの小型路線バスで乗降ポイントはほぼ決まっているが、手をあげればどこでも止まってくれる便利なものである。最近はエアコン付きの立派なもので、小一時間乗って6シェケル(150円)だ。このほかにラマッラ、ベツレヘム、ヘブロンなどオレンジ色の自治区内セルビスがあり、さらに厄介なのは、多数のオンボロ・セルビスが不法白タクとして街を横行している。しかしこれに乗っても、イスラエルのチェックポイントを通過できないからエルサレムには行けない。絶えず街の中だけを往復して客を求めている。こちらはたった2シェケル(50円)だ。不法といっても交通警察や車検などないところだから、イスラエルから安く買ってくる廃車同然の車があふれている。

はじめてここへ来て不思議だったのは、チェックポイントでなかば自発的にバスを降りて黙って並んでイスラエル兵のIDチェックを受ける人々と(なぜか若者が多い)、バスに座ったまま車内でチェックを受ける人々がいることだった。私はインターナショナルズだから平然と座っているが、それでも必ずパスポートのチェックを受ける。しばらくこの区別が、何故なのか分からなかった。しかも誰でも行きたい者が、このセルビスに乗ればエルサレムに行けるものだと無邪気に考えていた。

ここアイザリヤ、アブディス地区は、昔から東エルサレムの一部として存在してきた。都市近郊の農村地帯がベッドタウン化しつつ変化してきた街だ。それが今では分離壁によって完全に分断され、かつて10分もあれば誰でもエルサレムに行けたものが、チェックポイントと壁を大きく迂回するため一時間もかけて行くことになる。たった2、3キロ足らずのところである。このチェックポイントは、巨大入植地マアレ・アドミムの入り口にあり、壁はこの入植地をイスラエル領内に取り囲むように造られている。東エルサレムと自治区を分断してイスラエルIDを持った特定のパレスチナ人でなければ「入国」させないシステムが完備した象徴でもある。

日本のなかにいると、海外渡航の際のパスポートでもなければ市民としてのID(身分証明)の必要性はほとんどない。しかしここパレスチナでは、このIDカードが生殺与奪の一切をにぎっている。出生、入学、結婚、移動、所有、売買などいっさいの市民的権利はこのIDで根本的に制約されている。これこそが「お前が何者であるか」の証明なのである。

「パレスチナ人」には、3種類のIDがある。もちろん選択するのではなく、一方的に宣告されるものだ。定期券のような二つ折りのIDカードには、ブルー、グリーン、オレンジの色分けで瞬時に分かるようになっている。ブルーは、イスラエル発行の「イスラエル市民権」を持つものの証明。グリーンはPA(パレスチナ自治政府)発行の証明書。オレンジは、1967年以前にイスラエル領内(多くは東エルサレム)にいた頑固なオールド・イスラエリと呼ばれるパレスチナ人だ。

さきのエルサレム行きのバスに乗れるのは、このなかでブルーIDのものだけである。もともとここは東エルサレムの一部だったから、イスラエル市民権を持つ人が多いのである。多いから、彼らを締め出すために壁の外側へと追いやったのだ。ややこしいのだが、イスラエル市民権とイスラエル・ナショナリティ(国民)は違う。前者は地方参政権だけがあり、イスラエルは「ユダヤ人国家」であるから後者はいうまでもなく「ユダヤ人」であることが優先される。選挙権だけでなく、無数の市民サービスが階層的に差別されている仕組みである。階層的といったが、東エルサレムに住むパレスチナ人はもちろんイスラエル市民権を持つが、ナショナリティがイスラエルであるイスラエル・パレスチナ人(イスラエル・アラブ)の市民権とは、また区別・差別がある。

1967年、イスラエルが東エルサレムを占領・併合したとき、ほとんどのパレスチナ人は、イスラエルの与える市民権を拒否したという。無論、「イスラエル国家」に対する抵抗である。それが今日では、93%のパレスチナ人がイスラエル市民権を取得しているという。東エルサレムのIDカードは、すべてヘブライ語で記載されている。電気、水道の請求書もすべてヘブライ語だという。網の目のような差別があって、このIDがなければ生活できないのだ。

さらにややこしいのは、グリーンやオレンジのIDを持つものでイスラエルに職を得たものは、「イスラエル・パーミッション」(通行許可証のようなもの)を所持できる。またイスラエルの病院に母が入院していたとすると、その夫と息子にはパーミッションが出る。たとえば、仲良くなったミラッド(27)はグリーンIDだが、エルサレムのホテルに職を得てパーミッションを持っている。しかしそれには、はっきりと朝5時から夜7時までの通行以外認めないことが記されている。彼の父親はオレンジで、エルサレムには行けない。彼の兄弟3人は、エルサレムに職がないのでイスラエルには行けない。彼の恋人マナール(23)はベツレヘムの難民キャンプ出身でグリーンIDしかないので、イスラエル領内には行けない。ふたりでエルサレム旧市街をデートするなど及びもつかない。ミラッドの叔父さんは、ブルーIDでアメリカ市民権を持っているが、逆に自治区内のセルビスに乗ることは出来ない。このように同一家族でも、IDの種類が異なることによって移動制限が歴然としている。またたとえエルサレムに行けたとしても、彼らはイスラエルのバスに乗れないし(自爆防止のためという)、かつての故郷、ハイファやナザレやティベリアスのようなところには永遠に行けないのだ。

さきの36番のセルビスで率先してバスを降りイスラエル兵のチェックを受けた若者はグリーンIDでパーミッションを持つものということだ。バスの中に座っている人たちはブルーIDだ。このバスにも乗れないで、陸の孤島ともいえる自治区内に一生暮らす何百万の人々のことに私は気が付かなったのだ。

言ってみれば、壁に囲まれた自治区は一種バンツースタンのようなもので、これを仮に「収容所」と名付けると事態はいっそうはっきりする。つまりあの36番の路線バスは「収容所」から出ることを許されたごく一部の者たちの専用バスなのだ。さらに別に労働者専用のチェックポイントがあって、時間を決められてそこしか出入りできないシステムになっている。イスラエルの軍事占領システムは鉄壁だ。

このように西岸だけでさえも、パレスチナ人の存在証明は散り散りに引き裂かれている。加えて450万人の難民をみるがいい。レバノンの、シリアの、ヨルダンの、口ふさがれ、職もなく、未来への希望を断たれた人々。その誰一人をとっても、同じ境遇、同等の権利を有する人はいない。みな固有の叫び声をあげているはずである。私たちは、「誰」をさしてパレスチナ人というのだろうか?


松元保昭200907159-占領経済:死なぬよう、生きぬよう

イスラエル製品のボイコットを!ここパレスチナでもどこのNGOオフィスへ行っても、「イスラエル・ボイコット」のポスターが貼られている。しかしどこの店に行っても、イスラエル商品であふれている。コーラ・ファンタ・水から電気製品は無論のこと、ナブルスの石鹸やタイベビールといったパレスチナの特産品までイスラエル商標である。パレスチナ人は、ボイコットなどできるのだろうか?ポスターを見ながら考えてしまった。

東エルサレムの若いパレスチナ人起業家に会った。子ども一人をもうけた30代の彼は、イスラエル企業などでは働きたくないし(もっとも働き口はないのである)、パレスチナ人としてイスラエルの食いモノにならずになんとかパレスチナ経済のために出来ることを探し求めているのだ。英語の堪能な彼は、インドや中国へも出かけていって交渉してくる。今はヘブロンなどの家具工場で使われるネジ釘の輸入を考えているという。ネジ…?

イスラエルは「セキュリティ(安全)」の名の下に、武器関連はもちろん、電気機器のいっさい、金属、建築、水道パイプや電気コードのはてまでパレスチナ人の関与を認めない。そればかりか輸入の際の検査で「安全・健康」などの項目でほとんど落とされるため、パレスチナ人の品目はきわだって制限されているという。だからせいぜい衣料品、家具、カーテン地、靴、サンダルなど人畜無害なものに限られるのだ。

彼は古くから東エルサレムに住むパレスチナ人であるから、当然イスラエル発行のIDを取得して経済活動も同等のはずである。彼に聞くとID、銀行、電話などの請求はすべてヘブライ語だという。郵便局のポストBOXは、何年経っても空きが来ない。イスラエル人の家庭には郵便が各家庭に配達されるのに、パレスチナ人はとりに行く。電話代などの請求にいたっては、たった一人の窓口の女性が28万人の東エルサレム・パレスチナ人の手続きを担当しているという。支払いが遅れるといつのまにか追加料金が加算される。彼は言う。「ようするに、税金などの義務は同じだが、権利はまったく違うんだ。イスラエル市民権をもったわれわれだが、市民サービスはまったく違う。おまけにたとえ金を貯めても入植地の家は買えないし。アラブ人は別なんだよ…。」「アラブ人」とは、イスラエル人のよく使うパレスチナ人に対する蔑称だ。

パレスチナは基本的に農業社会を基盤にしてきた。だからどこのスーク(市場)に行っても路上にはみ出してさまざまな野菜・果物が売られている。ところが東エルサレムなどイスラエル領内には西岸の野菜・果物が少なくなって、農薬を使った入植地やキブツの野菜が多くなったと彼は嘆く。「ジェニンのスイカが一番なんだけど、もう何年も食べてないよ」と。西岸の農民がダイレクトにイスラエルの市場に売り出すことは出来ず、かならずイスラエル商人を経由しているという。「でも路上でおばあさんたちが朝早くから並べて売ってるでしょ」と聞き返すと、「あれも全部いわば密売!ときどき摘発されるよ。」考えてみると、そう簡単にはチェックポイントを通過できるわけがない。検証責任は常に摘発される側にあるから、違反金の痛手は大きいという。

また狡猾なイスラエル企業家は、封鎖経済によって安くなったパレスチナ人の野菜・果物を大量にさらに低価格で買い叩き、「イスラエル産」としてヨーロッパに輸出しているという。若い起業家M君の話を聞くまで、パレスチナ人の経済活動がこれほど制約され利用されているとは知らなかった。

アイザリヤにいた青年ミラッド君を思い出した。彼は西岸から出稼ぎに週5日エルサレムのホテルで働く。ほんとはイスラエルなど嫌で自治区内のベツレヘムで働きたいのだが、給与が3倍も違うのだ。といっても、週5日働いて一カ月8万円足らずだ。その彼一人の稼ぎで、家族4人が暮らしているのだ。そういうパレスチナ人労働者が、西岸には11万5000人もいるという。

彼らはなぜイスラエルで働くことが嫌なのか。もちろんパレスチナを奪ったイスラエルを憎む気持ちがあるだろうが、もっと直接的には、毎日の奴隷のようなチェックポイントの通過なのだ。ハラスメントという嫌がらせが日常的にある。一例をあげれば、今年5月2日のこと。働くことの出来ない父を持ち学校に通っている3人の兄弟を養わなければならないナブルスの27歳の青年が一日150NIS(3750円)を得るために交通費・食事代のコスト70NISをかけてイスラエルに出るため、ニリーンのチェックポイントにきた。他の200人余りのパレスチナ人労働者と4時間ほど待たされたあげく、結局彼は捕らえられ留置されさんざん殴られ目を負傷して帰されるのだが、こうした事例は特殊ではない。イスラエル警察(といっても兵士と同じ武器と軍服で見分けがつきにくい)と兵士による脅迫とさまざまな虐待による暴力のためにパレスチナ人が犠牲者に突き落とされている事実は多いのだ。

それでも彼らは、家族を養うためにイスラエルに出稼ぎにでなければならない。1967年の占領の開始からイスラエルは占領地の経済を行政管理してきた。さらに1993年和平プロセス(オスロ合意)の開始から「追って通知があるまで」とガザと西岸の占領地に全般的な封鎖を強要した。この全般的な封鎖は、けっして解除されることはなかった。2000年10月イスラエルは、占領地とイスラエルそしてガザと西岸の間に数ヶ月間にわたってパレスチナ人の移動を制限して占領地に対してさらに包括的な封鎖を負わせた。B'TSELEMの報告を聞いてみよう。

「その封鎖政策は、パレスチナ経済の低開発を目的とするものであった。すなわち、イスラエルはパレスチナ人の自立経済に関する投資をやめ、パレスチナ人をイスラエル労働力に統合するよう仕向けてきたのである。結果として、イスラエルにおける労働所得がパレスチナ国内生産高の大きな一部を占めることになる。これらの占領地における労働力の三分の一からなる労働者たちは、何十万人もの扶養家族を養っているのである。占領地における資源の不足は、イスラエル内で稼ぐ日雇い労働に依存するパレスチナ人を増大させた。イスラエルは、占領地にきつい封鎖を押し付けることによってイスラエル内で働く多くのパレスチナ人の依存状態を存続させたのである。」

オスロ合意というものが、「パレスチナ人の自治」などハナから考えてはいなく、ただ占領を永続させるゴーサインであったことがわかる。私たち「文明国」「国際社会」の市民が騙されているあいだ、パレスチナ人の塗炭の苦しみも永続するというものだ。

さらに彼らは国民保険の部門でも、老齢年金、子ども手当て、障害年金、そして介護手当のような権利を拒否されている。日本でも年金未払いの問題が依然隠されたままになっているが、国民保険や年金のような社会的権利を受け取ることが出来ないでいるのだ。彼らの控除額はそっくりそのままイスラエル財務省に入っているという。彼らは訴訟に打って出ることもできるが、パレスチナ人の裁判費用には保証金(5000NIS:1250$US)を積まなければならない。なぜなら、彼らは外国に居住する者だと見なされているからだ。権利行使の建前だけは作っておいて、そのアクセスは困難な仕組みになっているのだ。

PCBS(パレスチナ中央統計局)によれば、絶対的貧困ラインは2006年では1837NISであった。2007年では貧困ラインは一家族2300NIS(約6万円)が必要であった。その絶対的貧困が、ガザで69.9%、西岸で34.1%である。IMFの2008年年次報告では、ガザの貧困ライン以下の生活者は少なくとも79%であると発表している。

西岸を歩くと、道路をはじめ上下水道といった社会的インフラが未整備であることに驚く。「低開発」を目途としたイスラエルの封鎖行政が占領地全体を貧困に追いやってきた結果だ。手足を縛られ入り口出口を塞がれていては、パレスチナ経済の復興もあったものではない。経済封鎖は、なにもガザに限ったことでないことが分かるだろう。

きのうからヘブロンは断水だ。トイレに紙を捨てられないのも水量水圧が低く下水道が不備なためだ。私の寄宿しているベイト・ロマーノ・ゲートのすぐそばに古い廃屋になった元ホテルがある。こんな状態ではホテル業などやれるものではない。ゲートの内側には、立派なユダヤ人入植者の文化センターが建っている。元はパレスチナ人の小学校だったという。

もし700万イスラエル人が、水だけでもパレスチナ人と同じ境遇で生きるとしたら、たちどころに国外逃亡で人口は半減してしまうだろう。占領から42年、いわばパレスチナ人は「死なぬよう、生きぬよう」ワルシャワ・ゲットーのなかに閉じ込められているようなものである。ぽたぽた滴り落ちる水を見ながら考えた。


松元保昭2009080310-平和をつくりだす人々―Tent of Nations

雲間から朝日が立ちのぼり、このオークの丘を照らしはじめる。ひんやりとした冷気が、丘陵の岩肌に点在するオリーブやブドウ、アーモンドなどの樹々の葉を濡らす。わずかのヤギ、羊、ロバとともに、古くからナサール家の人々が暮らしている。7つもあるケーブ(洞穴)のひとつから出てきたダウードは、ブドウの葉をなぜながら「聖書の昔と同じだね」と、朝の仕事に出かけた。

ここ標高950メートルのベツレヘム南西で最も高い丘からは、周囲360度を眺望でき、まさに「天と地に我あり」と感じられる独特の場所だ。しかし周りをみると、幾何学的に並べられた入植地5ヵ所が東西南北にこの丘を取り囲んでいる。自家発電のため夜の11時にはすべての電気がここでは消えるのだが、周辺の入植団地群は煌々と明かりを照らしている。30メートルもあるイスラエル軍の円筒監視塔までが全身光を放っているのだから、異世界の侵入者の基地でもあるようだ。ともかく、大地とともに生きるこの丘だけが深閑とした闇の恵みを受けている。

ここTent of Nationsと呼ばれるナサール家の農場は、祖父たちがオスマン・トルコ時代からこつこつと耕してきたところだ。ベツレヘムから10キロほどのところだが、建設中の分離壁が完成すると、自治区からも完全に分断されてしまう。地図をみると分かるのだが、ヘブロンへ行く幹線ルート60をはさんで東側には5万人を擁する入植地グッシュ・エツィオーンが南北に走り、西側には3万人のベターイリットをはじめ7ヵ所の入植地がひしめきあっている西岸でもきっての入植地群だ。イスラエルはこの広大な領域全体を併合するため、分離壁で囲み、かつミリタリーベースとして軍令優先の場所にしているのだ。不幸なことにTent of Nationsはこの中心に位置している。

1991年、入植者評議会の要望を受けたイスラエル政府は、このナサール農場の没収を命じた。祖父たちが1916年に購入した土地登記簿そして彼らが所有者であることを証明する必要な書類のすべてを持っているにもかかわらずである。いうまでもなくイスラエル政府の要求は国際法に違反する。ナサール家は、法廷に訴え闘った。(67年の軍事占領以来、これらの公的書類をもっていない多くの西岸パレスチナ人は、「証拠」がないとして土地を没収されてきた。)判決は、イスラエル政府側に調査の余裕を与えるため「延期」を命じ、この裁判は今日も続いている。ナサール家は裁判費用にすでに、14万$(1400万円)もかけてきた。

裁判の始まったとき16歳のダウード・ナサール(34)は、この土地をめぐる争いとともに成長してきた。彼は、「やはり1997年から2003年までの6年間が苦しかった」と振り返る。何とかこの地を入植地にしたいイスラエル政府と、道路建設のためにもナサール農場の土地が必要な入植者とが、一体となって数々の攻撃、嫌がらせ(ハラスメント)を激しくさせたからだ。(一段高い丘から見下ろされることも、イスラエル入植者には許せないのかもしれない。)

週に一度は、銃をもったセツラー(入植者)たちが夜入れ替わり農場に侵入しては樹を切り、脅しに来る。攻撃のひとつに、ダウードの母が銃で脅迫されたことがあった。あるときは、計画的にオリーブの樹250本を根こそぎ引き抜いていった。ダウード自身も10人のイスラエル兵に囲まれ銃を突きつけられ4時間拘禁されたこともある。彼らは、「投獄」するぞと脅した。さらに、この地にパレスチナ人を生活させたくないイスラエル政府は、敷地に存続するような基盤整備のどんな開発も禁止し、その上電気配線や公共水道のアクセスさえも禁ずると命令した。

このような行為について、「パレスチナ人に暴力を焚きつけることはたやすい。しかし多くの人々にとって、状況を甘んじて受け入れるかあるいは移住するか選択肢がそれしかないかのようにも見える。私は別の道を選んだ。すなわち、『敵になることを拒む』という別の選択を決断したのだ。」と、クリスチャンのダウードは語った。別のところで彼は書いている。「私たちは、責めの悪循環(責任のなすりあい)という考え方から離れたいと思った。そして欲求不満や挫折感の回路をなにかもっと積極的なものの中に見出したいと思った。」と。

法廷闘争と周囲のイスラエル入植者からのハラスメントの只中で、ナサール家の人々は平和の道を選んだ。それは、互いに学びあう教育と互いに平和をつくりだす活動のために、世界中の人々にこの土地を開放することであった。そのゆえに彼らは、Tent of Nations というプロジェクトをこの地で始めたのである。それは、異なった背景を持つ人々の間に、そして大地と人間との間に『架け橋』をつくるという、試みである。

2003年にジャスト・ピースのヨーロッパ・ユダヤ人のメンバーが訪ねてきた。そして彼らは、ユダヤ人入植者にもぎ取られた替わりに250本のオリーブの樹を植えたのである。2008年には、平和活動家の訪問者グループの女性が、近くのイスラエル入植地に住んでいる友人をTent of Nationsに連れてきた。その女性は9年間入植地で暮らしていた。しかし、自分たちの周辺エリアにパレスチナ人が生活し苦境にたたされていたなどとは気付くこともなかったという。彼女は入植地から出た。

和解と理解、そして平和の架け橋をつくるために多様な文化の若者たちが互いに連れ合ってここに来る。その数は年間3000人にもおよぶという。この地に来るイスラエル人やインターナショナルの人々によって、毎年、500~1000本の樹が植えられている。「平和は草の根から成長する」と、ダウードは言う。

私が訪問したときも10カ国以上30人ばかりの若者たちがボランティアに来ていた。ちょうど2年前から切望されていたソーラーパネル取り付けの日であった。ドイツの「緑の舵(Green Helms)」というオルタナティブのメンバーであるトーマス(30)がイスラエルから購入してきたものである。これで日に4.5KWの発電が可能だ。丘の反対側へ行くと、ユダヤ人の若者シャロン(33)が何ヶ月もかけて環境にやさしいコンポストトイレを手作りしていた。ダウードは、こんどは風力発電だ、と言っていた。じつはこうした投資は、万一、自治区からも切り離された場合、この土地が自活し独立するために持続可能な基盤整備が不可欠なのだ。

また夏の間は、ベツレヘムの子どもたちが毎日バスでサマースクールに通ってくる。インターナショナルのボランティアたちが、スポーツ、歌、ダンス、絵画、工作といった課外授業を担当しどうじに英語も学べるのだ。涼しいケーブがローテーションで教室に使われる。この子どもたちは、植樹とともに秋になるとアーモンドやオリーブ、ブドウの収穫を手伝いに来る。

「このようなアクションは、占領の現実を変えられないかもしれない。しかしこれらの行動は、深く分断されたグループ間の関係をより良い方向へもたらすための小さなステップなのです。これらのプロジェクトよって、パレスチナ人が犠牲者になるのではなく、むしろわずかな希望でも未来を見つめるような勇気が与えられることを望んでいます。私たちがこのシンプルな道で試みていることは、私たち民衆のやる気を引き起こすことであり、『これが未来である』ということを示すことなのです。」と、ダウードは語った。

ダウードの父ビシャーラは1976年に亡くなった。遺言は「この土地を平和のために使ってくれ」というものだった。最近イスラエル政府は、土地購入の話を持ちかけているという。ダウードは言う。「この土地は、私の母です。母を売るわけにはいかない。」テンガロンハットをかぶり笑みをたやさず未来を見つめるパレスチナの新しい若者が輝いてみえた。寛容と相互理解を基礎にしたTent of Nationsは、未来の市民社会のための、そして正義と平和のためのひとつの隅のかしら石として生きている。

※イスラエル・キブツを出て、ここに魅せられたひとりの若い日本人女性がいる。次回は彼女のパレスチナとの出会いを報告したい。


松元保昭2009073011-キブツからパレスチナへ その1、キブツの生活

最初に彼女に会ったとき、「捨て身で求道する若者」がここにもいるな、と懐かしい感慨にふけったものだった。しかもイスラエル・キブツから、抑圧されているパレスチナのひとつの平和の拠点に180度転回して道を求めつづけている。日本人、といっても彼女はあまり自覚のない在日韓国人だ。最近は日本でも多くなってきているのだろうが、世界各国の若者たちと付き合って来た彼女が、どんな道を求め、どんな人間になろうとしているのか話を聴いてみた。

考えてみると、日本のパレスチナ問題を牽引しているジャーナリストの広河隆一、土井敏邦両氏も、若いころキブツから出発したのではなかったか?この地は、聖地、世界の求心地。太古の昔から、神の義を求めて苦難を乗り越えてきたところ。しかも、過去と現在の最大級の不正義が同居している現代史の特異点。いまなお道を求める若者を引きつけてやまないようだ。

彼女は、宮田恵、33歳。大学の文芸学科で物書きにでもなろうかと学び始めたが、自分の空っぽさ加減に呆れて日本を飛び出し、インドを手始めにスペインで3年間フラメンコを学びフランスなど各地を放浪したあげく、イスラエル・キブツに魅せられ5年間の生活を経験した。現在彼女は、前回紹介したTent of Nationsでボランティア生活をしている。ヘブライ語、英語を自由に話し、いまアラビア語を学び始めている。まずキブツにたどり着いたところから、彼女の話をきいてみよう。

「ヒブルー? どこの言葉? これが私とイスラエルとのはじめての出会いとなる。インドにいたとき、2人のイスラエル人が私に話をしてくれた。彼らはキブツで生まれ育ち、18歳で3年間従軍した後、お金を稼いで時間と場所の制約のない旅に出た。20歳そこそこの若い2人の男が、イスラエルという国の歴史から、文化から宗教まで丸一日かけて熱心に話をしてくれた。」

「この国にほとんど知識のなかった私にとって、さながら、まっすぐに伝わってくる自国への愛と誇り、どこの誰かも知らない私をすぐに彼らの家へ招待してくれた。その歓迎がとても新鮮で、心のそこから温かみを感じた。キブツという生活共同体がそういう人間を育てるのか、それともこの国のせいなのか?それとも・・・」

「この出会いで、私はどのようにユダヤ人がキブツを作ったのか、作らざるを得なかったのか、人間が共に生きるうえでの平等性、効率性を追求して生まれたモシャーブ(農業生活共同体)というものを教えられ、強く興味を持ちはじめた。」

「“一人ひとりが、できる最大限を与え必要なものをもらう”、というモットーを基礎とし、キブツという大きな一つの家族、人間の理想郷・・・そんなイメージは私のイスラエル観を180度変えた。その”イスラエル人”という生き物に私は惹かれて、この―未知なる惑星―を訪れることを決心したのだった。」

「私が現在住むキブツは…」といっても、いま彼女はここから出てしまった。これを話したときはまだキブツにいたときだった。つづけて彼女は言う。「1976年に生まれた、比較的若いキブツだ。90人のメンバー、子供150人、そして30人は国内外からのボランティアが住み、イスラエル南部のネゲブ砂漠のど真中にあるキブツ・サマールだ。」

「10年前、5ヵ所のキブツを転々としたとき、どのキブツも私がイメージしたモシャーブ(農業生活共同体)、人間の理想郷というものには合わなかった。多くのキブツは農業から工業へと転換し、人間が共に生きることよりも“経済”が共に生きる目的となってしまっていた。」

「“最大限を与え、必要なだけもらう”というモットーは輝きを失い、メンバーが増え、生活が多様化し、一律給料制が導入されることにより、“最小限を与え、最大限をもらう”という能率主義がそこかしこに顔を出していた。そこで、私は人々に尋ね歩いた。“まだ本当の共同生活をしているキブツはあるのか?”と。そうして得た答えが、いま私が住むキブツ・サマールだった。」

「キブツで生まれ育った2世代目、3世代目が作ったこのキブツの始まりは、こうしたい、ああしたいではなく、”どうしたくないか”がキーワードであった。<誰かにどこで何時間働くか決められたくない><階級・階層を作りたくない><平等という名を借りた平均的人間の扱いをしたくない>等々。そうやっていらないものを取り除いていったとき、残ったものは”個人の意志の尊重”だった。」

「やりたい仕事を好きなだけやる。1日3時間の人もいれば15時間の人もいる。農業で働く人もいれば、キブツの外で教師として働く人もいる。女性でもバリバリとトラクターで働き、休みは自分で決める。給料はなく、自分で必要なだけお金を事務所からもらう。食堂は24時間オープン、好きな時に好きなだけご飯を食べる。」

「こんな風に存在していけるのか? 破綻しないのか? という質問をよくされる。実際、このキブツは30年以上存在し、全てなされるべき仕事はなされている。なぜなら、人間はやりたいことをやるとき、責任というものが自然と生まれるからだ。やりたくないことをやるとき、意志も情熱もなく、いい加減になり結果はそれなりのものとなる。」

「ここではあらゆるサポートを受けた。とくに私の夢、職であるフラメンコダンサーの教師として活動することを常に後押ししてもらった。そして今、ここから出発しようとする私をも応援してくれている。」

「イスラエルとパレスチナとの橋を造りたい。そういう私の夢を話す時、みんな何かまぶしいものを見る眼をする。それは誰もがもう疲れてしまった、諦めかけている“平和”という道をまだ歩こうとする人間がいるという事実が、小さな希望を与えるからだと思う。」

「私には2500年の放浪というユダヤ人の歴史も、ホロコーストで、戦争で亡くなった家族もいない。民族や宗教を理由に憎んだことも、憎まれたこともない。ただこの国には、このキブツにはたくさんの経験と知恵をもらった、という感謝しかない。」

「みんな、いつでも帰ってこい。何か必要ならお金でも何でも送るから、体にだけは気をつけろ、そう心から声援をくれる。」

「私にとって、このキブツでの10年に渡る家族―友人関係がイスラエルでの基礎をつくっている。砂漠にオアシスを産み出し、今も“どうやって生きるか”を模索しつづける友人たちがいることが、イスラエルとパレスチナにいつか平和がやってくるはず、と信じる支えとなっている。」

********(つづく)********


松元保昭20090803b12-キブツからパレスチナへ その2、私の中に黒い雨が

「昨年、パレスチナ北西部のトゥルカレムにEAPPIでボランティアをしていた友人のイリスを訪ねた。10年以上前からキブツを拠点にイスラエルに出たり入ったりしていた私だが、その隣人であるパレスチナの現実を何も知らないことがしばらく前から気になっていた。受け入れる準備が整ったとき、全ては起こり始める。今思えばそれは溜めていた満杯のダムを開放したように、すごい勢いで水が流れ始めたようだった。」

「EAPPI(キリスト者によるエキュメニカル同伴プログラム)、彼らの仕事は朝5時に起きて農業ゲートの観察から始まる。分離壁が出来たせいで、自分の畑に行けないパレスチナ人用に何キロかごとに農業ゲートがある。朝6-7時、昼12-13時、夕方18-19時、一日に3回イスラエル軍によって開かれるこのゲートは、もちろん許可をもらった人たちだけが通ることが出来る。歩いてくる人、トラクターで来る人、ロバに乗ってくる人。その日はオリーブの収穫を終えたあとだったので、90人前後の農夫と10頭ほどのロバが列をなして待っていた。」

「ほぼ時間通りにイスラエル軍兵士は3、4人チームのジープでやって来た。一人は許可をチェックし、記録する。一人はその机まで誘導し、周りの状況を観察。一人は少し離れたコンクリート造りの壁からこちらにライフル銃を向けて監視。」

「その日はイリスに言わせると、とても行儀よい兵士たちだったという。きちんと一人ひとりに挨拶し、一人ひとりを人間として扱っているという感じを受けたという。じっさい、その数日後もう一度違う農業ゲートへ行ったとき、その言葉の意味が分かった。」

「私は自分の住むキブツのことを考えていた。収入源である7千本のナツメヤシ畑。そこに行くために許可が必要で、毎日決められた3時間だけ通れて兵士に銃まで向けられる。こんなに腹立たしいことはない。許可も得られないケースがあったり、畑に一番近いゲートではなく、隣の数キロ先のゲートへの許可が下りたりすることがあるという。私の中でどうしようもない悲しみと共に怒りがこみ上げてきた。」

「ホメッシュは2005年のガザ撤退と同時に撤廃された入植地だ。近郊の村々が集まって、そこに平和の象徴であるオリーブを植える、と聞いて私はイリスと共にそこへ向かった。まずブルカ村の役所に村の人々、外国人ボランティアが集い、フルーツジュースを飲みながら今日の予定を村長らしき人が話す。私たちを連れてきたアブドゥルカリム・ダルバが通訳をする。『今日は集まってくれてありがとう。私たちの村の近くにある元入植地にみんなで歩いて行って、出来たらオリーブを植えましょう。非暴力で、ということをみなさん忘れずに・・・』何故オリーブを植えに行くためだけに“非暴力で”と強調しなければならないのか良く分からないまま、私たちは外に出て歩き始める。」

「パレスチナ国旗、アラビア語で書かれたプラカードを掲げ、何十人という村人が歩く。例の村長が掛け声をかけ始めた。シュプレヒコールだ。アラビア語の分からない私にとって、そのプラカードも、掛け声も分からない。そういう群集についていくのは少々不安だった。ダルバを見つけ出し私は彼らが何を言っているのか、質問した。『俺たちはこの土地から出ない!水を取られて、たとえ死んだとしても俺たちの血でこの土地を潤す!そしてこの大地が俺たちを覚え続ける!』」

「これはオリーブを植えに行くのではなくてデモだなぁ、と思ってあたりを見回してみるとやはりオリーブを積んだ車やトラクターはどこにも見えない。が、私たちの後には救急車が2台もついて来ていた。オリーブのつづく丘陵の穏やかな道をくねくねと2キロほど歩いた先に丘が見えた。そしてゆっくりとその上に立つものが何かはっきりしてきた。イスラエル軍だ。」

「丘の先端には銃装備した3人の兵士、その後ろには大きな防弾車が10人以上兵士を連れて待機している。その丘へ近づくにつれて登りきった先には元入植地があり、その入り口には大きな石が境界線のように置かれているのが見えた。ようやくこの時点で、やっぱり、これはただオリーブを植えましょうなんて平和活動ではないと鈍い私はようやく悟った。」

「私たちは50人以上いる男たちの後ろの方にいて、前の状況は良く見えなかった。が、また以前の掛け声が始まり、丘の上から見下ろすイスラエル軍はびくともしない壁のように無表情で冷たく感じた。とあるPRESSジャケットを着たパレスチナ人が丘の脇から上ろうとするのを見つけて、兵士が銃を向けて下がるよう命令した。反対側のオリーブ林からも何人か通り抜けようとして、兵士から脅しをかけられる・・・。ということを繰り返している内に突然、兵士の一人が私たちの方めがけて手榴弾を投げた。その瞬間を私はスローモーションのようにはっきり覚えている。」

「イリスが私の手を取って、『催涙弾だよ!たまねぎ持ってこなかった!』と言いながら2人で走り出すと、2発目が投げられた。そして後ろに下がった男の子が石を投げ始める。何発目かの催涙弾のあと、ゴム弾が撃たれる。かなり動揺していた私だが、兵士たちは必ず誰にも当たらないよう発砲し催涙弾を投下していることははっきりと見えた。だがこの瞬間、私の中で目に見えない真っ黒な雨が降りはじめた。」

「人間がもう人間として話し合えない日常。ただ歩いてくる人間に対して、手榴弾やゴム弾という“暴力”を使わなければならない状況。もう撤退したはずの、パレスチナ人に返されたはずの土地が何故、軍によってまだコントロールされているのか?私がキブツで一緒に住むあの子供たちが、無邪気でいつも困ったときに私を助けてくれるあの子供たちがそんなことをしなければならない。感情を殺して冷たい機械になり、同じ無邪気で罪のない隣人たちに銃を向けなければならない!」

「どうしても、この現実を受け入れたくなかった。このままでは絶対にいけない、変えなければならない。何かこのためにしなければならない、私はそう決心した。」

「ガザ攻撃がはじまった。トゥカレムでも緊張が高ぶってはいたが、それほど以前とは変わらない生活をしている。私がいつも泊まらせてもらうサマールの家ではみんなテレビに釘付けになって、イスラエルへの憎しみと罵倒を繰り返す。私がイスラエルに住みイスラエル人と結婚していることを知っているサマールは、『なんでイスラエルに恵は住み続けているのか分からない。今すぐパレスチナにおいで!ユダヤ人には青い血がながれているのよ!!』そう本気で言っている彼女に私はなんと言い返せばいいのか分からなかった。『なにも出来なくてごめん。でも、イスラエル人にも、心から平和を求めている人たちがいる・・・。』」

「イスラエルという国がしていることは許せない。でもこの国に住んでいる人たちは、素晴らしい知恵と深い愛情を持った人たちだ。では、その“素晴らしい”人たちがこのパレスチナへの侵攻、占領、戦争を起こしているのはなぜなのか?」

「それは恐怖だ。3千年という追放と迫害の歴史を生き抜いてようやく“母国”を持ったユダヤの民。世界中に散らばりながらその伝統・宗教を守りどこへ行っても差別を受け、時に偏見や憎悪の的となりながら、屈することのなかった、信じられない力を持ったこの人たちは、今ようやく自分の家に“帰ってきた”。が、アラブ諸国に取り囲まれたこの小さな孤島にひとりぽっつりと生きるためには、自己防衛という手段しか頭に浮かばなかったのだ。常に“アラブ諸国はユダヤ人を海に投げ捨てたいと思っている”。それが彼らだ。」

「誰かが自分を殺そうとしている時(例えそれが被害妄想であろうと)、一体どう反応するかにはあまりオプションはない。逃げるか、戦うか、その相手をどうにか殺さないでくれるよう説得するか。イスラエルは戦うことを選んでいる。そして相手は自分より弱い、まだ家すらも持たない子供だ。」「その恐怖の鎖から解き離されないうちには、この地に平和はやってこないだろう。あるいは、恐怖を持ちつつも、人間としてこうありたい、平和に生きたいという光がその恐怖の闇に勝つとき、私たちはこの地に、世界に平和をもたらせると思う。それを助けるのが、想像力だ。」

「私は毎回トゥルカレムに行くとき、必ず訪れる人がいる。その一人がサディだ。彼は日本に政府の奨学生として経済を学びに行ったこともある日本びいきのパレスチナ人だ。日本だけでなくヨーロッパ各国に渡り、アメリカでも学生経験のある彼の視点は時にとても鋭く、とても重層的だ。ガザ侵攻のさなか、私はサマールと共にサディの事務所を訪れた。ドアを開けたとたん、サマールはサディに英語で私にも分かるように、『サディ聞いて!私は恵にすぐイスラエルを出るように言ったの。彼女はあんな残酷な国を捨ててこっちに来るべきよ、そうでしょう?』」

「パレスチナ人サディは静かに彼女をみつめて、私たちを座らせてからこう言った。『サマール、過激になってはいけない。ひとつ私の経験談を話そう。先週私は仕事から家に帰る途中、入植地近くの道路を通った。突然、誰かが私の車めがけて石を投げてきた。その時初めて、自分の家に鉄の塊が投げられてくるスデロットのことを思った。それがどんな恐怖か、それが日常にある人々のことを。』この彼の言葉を聴いて私は正直安心した。」

「私はパレスチナに足を踏み入れると、一言もヘブライ語を話さない。またキブツではなくエルサレムに住み、結婚はしていない、そう嘘をつくことがルールとなっている。それは私のとても親しい何人かのパレスチナ友人のアドバイスからだ。彼らは私の身を守るため、その人が本当に信頼できると分からない限り身元は明かすな、という。それはけっしていい気分ではない。常につじつまを合わせたり、ひょんなところでヘブライ語が口から飛び出ないように気を付け、私が誰であるか、何を考えているかはっきり言えない、隠さなければいけない状況。それはとても疲れる。」

「反対にイスラエルでは私の考えていること、トゥカレムでの活動、イスラエルへの批評・・・全て誰にでも自由に話すことが出来る。私が誰であるかを隠さねばならない状況は、言論の自由、仲間同士の信頼が欠けていることを表している。どんなに周りがサポートしようとしても、仲間同士が結束しないで内輪もめしているだけではどんな進展も望めない。が、サディのように自分を敵の立場において考えられ、自分がしていることの過ちを正せられるとき、そこには希望がある。被害者である立場はもちろんだが、それを超えて人間として仲間同士と、敵とすらも 手をつなぐことが出来るか。イスラエルだけではなく、パレスチナ側もまた自己変革を求められている。」(つづく)


松元保昭20090803c13-キブツからパレスチナへ その3、平和の種を蒔く

「隣国のパレスチナを月に一度行き来する内に、私の中である使命感が生まれた。こんなに近いのにあまりにかけ離れた二つの民をどうにか近づけたい。お互いに相手への恐怖と不信感で固まっている心を開きたい。どちらにも属していない私ならその橋を架けられる、と。が、そのためにはもっとよくパレスチナを知らなければならない。片側の文化を知り、言葉を話すだけでは不充分だ。まずパレスチナ人と共に住み、同じご飯を食べ、日々を生きること。それが私の課題となった。」

「ただ、一つだけ気がかりなことがあった。それは“嘘をつきたくない”ということだ。これまでのパレスチナ訪問で唯一嫌だったことは自分の出身・過去を隠すことだった。周りに住む人に、自分が考えていること、どうして自分がここまでやってきたのかという背景を素直に語れないことは、毎回私を悩ませた。と同時にイスラエルの友人にそのことを話すと、『やっぱりね。信用できない人たちなのよ。』と言われるのがどうしても苦しかった。」

「そんな時に出会ったのがテントオブネイションだった。キブツにやって来たドイツ人ボランティアのチャーリーにその存在を聞いてホームページを開くと、そこには“we refuse to be enemies, building bridge between peoples. 私たちは敵になることを拒否する、そして人々の間に橋を架ける”、という彼らのメッセージがまっすぐ眼に入った。私の目標そのものだ!ココに行かねば!私はすぐに決心した。」

「4月の初め、そこはまさに“春のお花畑”だった。黄・赤色の野花が地を飾り、砂漠から来た私の目と心をそこら中の緑が潤した。この最初の訪問で、私の心に一番残っているのは設立者のダウードでも兄のダハールでもない。ダハールの息子のビシャーラ(20)だ。若いパレスチナ人らしく髪にびっちりとジェルをつけ現れた彼は英語を流暢に話す、気軽な青年だ。」

「それは帰り際だった。突然私は誰かがイスラエルの有名歌手サリット・ハダッドの歌を口ずさんでいるのを聞いた。振り返ってみると、ビシャーラだった。私は彼に『イスラエル人の歌、唄ってるの??』驚いている私に彼は、『why not? Israelies and we are friends.』そう当たり前そうに答えた。私は泣き出した。この時、私はこの場所ならやりたいことに近づける、そう心から感じた。」

「7月、計5年間住んだキブツを出て、テントオブネイションに移り住んだ。ここには水道設備も、電気もない。水は冬の間に降る雨水を溜めて使い、電気は毎日夜の2時間だけジェネレーターを使う。砂漠のど真ん中なのに、一度も不自由なく水が使え、夏にはプールがあり、電気も途切れることなく使っていた生活から、テント暮らしへ。それは私にとって、この2つの国に存在する不平等を身をもって経験する必要な段階だった。」

「ベツレヘム近辺のパレスチナの子供たちを集めた、サマーキャンプが始まった。2週間という長いようで短い子供たちとの濃密な時間。今年のタイトルは、“bringing nature to life, learning hope planting peace、自然を生活に取り入れよう、希望を学び平和を植える”」

「毎朝8時半から2時まで40~50人の子供たちを、12人のインターナショナルが世話をする。環境テーマから、絵描き、色塗り、踊り、音楽、劇・・・様々な分野を子供の年齢にあわせて教える、というか子供と一緒に私たちも学んでいる、そんな感じだ。」

「6歳から12歳までの子供を世話した私のグループで、ハニンという女の子が一人いる。なにか影を持ったというか引っ込み思案で、いつの間にか輪からでて一人ぽつんと座っている。それがとても気になっていた。キャンプ5日目。子供たちに日常生活での問題と希望を一つずつ書かせた。<どこにでも行ける自由がないこと、パレスチナに平和を、海に行って泳ぎたい、占領からの解放>などのほかに、ひとつ<“死にたい、死んで天国に行ってお姉ちゃんに会いたい”>というものがあった。その日の終わりのミーティングで、どの子なのか見つけなければということを話した。翌日、その願いを絵に描くというクラスで、私はそれが誰なのか分かった。ハニンだ。それはあまりにも私の胸を振るわせた。私は彼女の影を見たのだ。」

「ある午後キャンプで働くボランティア全員でへブロンへ行った。へブロンはこのイスラエルーパレスチナ問題のまさにへそ、ともいえる場所だ。神に与えられた土地と信じ、力でコントロールしようとするユダヤ人と、同じくその場所を聖地として崇めるイスラム教徒・パレスチナ人との間の衝突が癒えない傷のように膿んでいる。始めてへブロンを訪れた私はあまりの憎しみのエネルギーに圧倒された。どうやったらこんなところに平和がもたされるのか、そんなことは可能なのか?あまりに大きな壁が私の前に現れた。その壁は、私の、平和を創る橋を架けたいなんていう甘い夢を見ていた非現実的な自分を押しつぶした。どんなに私自身が平和人間になろうとも、この世界に平和はもたらされない、その現実が目の前を真っ暗にした。では、一体私はここで何をしているのか?私のすべてをかけても大河の一滴にすぎない。その一滴をこの乾いた大地に降らせてもオリーブの木一本すら育たないだろう。」

「キャンプにブラジル人グループが現れたのは、あと最終日まで三日を残す夕方。彼らとドイツ人ユースグループと共に“若者の役割と挑戦”というタイトルでグループ・ディスカッションをした。現代の世界中の若者が直面している“hopelessness-希望の欠如”というテーマが浮かび上がった。この“希望の欠如”は、二つのタイプに人間をわける。問題を前にして自分の殻に閉じ籠もるか、どうやって解決していいか分からないまま混沌のなかに迷うか。そしてそれは“結果社会”という現代のシステムに深く根ざしている。」

「常に、何かを得ること、成功することに生きる目的を置くことを教育する世界だからだ。私たちは結果が得られないことにはエネルギーを費やさない。やる価値がないとあきらめる。自分のやりたいことを、その結果が得られるかどうかで選別してしまう癖がある。私もそうだった。だからへブロンで、私には変えられない現実に直面した時、ここにいる意味を疑い始めたのだ。」

「その瞬間、この夏のサマーキャンプのタイトル、“learning hope planting peace”が腑に落ちた。希望を学ぶ―それはどんな暗闇の中であろうと、いつかは朝日が昇るということを信じられる強い信仰だ。同時にその朝日を自分で見ることは出来ないかもしれないと知っていても…、その希望で、平和の種をまくのだ。」

「ダウードがそのグループ・ミーティングの終わりに語った。『年老いたおじいさんがオリーブの木を植えている。孫はおじいさんに、どうして自分ではその実を見ることもない木を植えているのか?と尋ねる。おじいさんはこう答える。あそこに立っているオリーブの木は私のおじいさんが植えた。あれはおじいさんのおじいさんが…。こうしてみんな見ることは出来なくとも、今生きている私たちのために植え続けてきたのだ。だから私も同じ事を、今している。』」

「ここで、私はどうやって生きるかを学んでいる。何を生きる希望とし、私がこの時代に生まれてきた意味を、私という人間をどうこの世界で役に立てて行くか、何を目的として生きていくか。どこまで到達できたかは重要ではない。毎日を、その希望に向かって自分がどう生きたか、それが大切なのだ。」

「最終日に向かい、ハニンはずーっとよく笑うようになった。自分から積極的に輪に入り、私にも英語で話しかけてくる。それはまさに希望だ。短い時間のなかで、一人の子供が笑うようになってくれたこと。それが私のこの、平和の種を蒔きつづける道を選ぶ希望となる。朝日を見ることはないかもしれない。でもこの種を蒔くことが、希望をもって毎日を生きることが私の生き方だ、と今は思える。」(完)


松元保昭2009081614-神は細部に宿る-その1

夕日が落ちるころ、岩肌をぬいわずかな草を求めて一日を羊たちと過した10歳ほどの兄弟ふたりが家路につく。ミレーの落穂ひろいをずっとさかのぼって、聖書時代を思わせるような子どもの羊飼いを夕焼けが照らす。無骨な岩肌を歩くと、棘を身につけた低い草が点々と群がり赤や紫のポピーが花を咲かせている。ときどき野生のジャスミンの香りが鼻をつき心地いい。丘の下からは、ロバの悲しげな鳴き声がいっそう懐かしい郷愁を誘う。

いくつもの大きな(山々といってもいいのだが)丘陵に囲まれたこのアツ・ツワーニ(At-Tuwani)という村には、電気も水道も通らず共同の井戸水と自家発電に頼りながら、わずかな家畜とともに4ファミリー約200人が19世紀さながらの暮らしを営み続けている。(前にも書いたように、パレスチナは大家族だ。だから道路の並び数軒が一家族ということも珍しくない。)家々はエルサレムやベツレヘムのような大きな石ではなく、昔ながらの泥石を積み重ねた家で、半地下の洞窟がまだ各家庭に残されている。

羊(ひつじ)はもちろん肉と毛と毛皮になり、山羊(やぎ)はバターやミルクをもたらす。とくに山羊の乳を乾燥させたラバンづくりは女たちの大切な仕事だ。よく三角形の白いおにぎりのようなものがスークで山のように重ねられて売られている。これがラバンだ。ヨーグルト・スープ料理の元になる高価なもので、女たちはこれをヤッタやヘブロンのスークに売りに行きわずかな現金収入を得るのである。男たちは家の中では何もしないというのがパレスチナの伝統だから、女たちは炊事、洗濯、刺繍、家畜の世話、ハンムスやラバンづくり、そして子どもの教育など、朝5時には起き夜10時11時まで働き詰めだ。

さっきも言ったように、この村には電気も水もひかれていない。水は共同の大きな井戸水が3ヶ所。これも昨年のように日照りがつづくと足りなくなり、現金で買わなければならない。電気も共同の自家発電だから、夜3時間ときまっている。だから、もちろん冷蔵庫や洗濯機などない。午後11時にもなると、発電は止まり村全体が月明かりにおおわれる。CPTやインターナショナル・ドーブ(DO)の人たちは、夏のあいだ屋根の上にマットを敷いて寝る。家畜が多い村だから、蚊もたくさんいる。なかなか慣れることはできないが、月明かりと満点の星が村を包む光景はしばし文明を忘れさせる。静寂と自然の懐のなんと豊かなことか。

朝になると、逸早く8歳かそこらの少女が釣瓶の井戸水を汲みに来る。あちこちで家族が朝のコーヒーを囲んでいる。ロバを移動させるのも、7、8歳の子どもたちの仕事だ。わずかな小麦畑は、ファミリー総出の麦刈りとなる。あっちの丘からは、早くも脱穀の麦煙が空高く舞い上がっている。朝早くから夜遅くまで働くこの村の男たち女たちは、30代にしてすでに深い皺を刻み家族の大黒柱となって威風堂々としている。ひと家族一日2ドルで生活しているこの村人たちの営みは、とうぜん自給自足を基本としている。分厚い焼きたてのパンのなんとおいしかったことか。入植地という異世界からの闖入者がいなければ、彼らはこののち何世紀でも家畜とともに貧しい、しかし平和な生活に自足しながら生きていただろうに、と心底やさしい村をあとにしながら感慨にふけったものだった。

ヘブロンの南20キロほどのこの小さなアツ・ツワーニという村が、私たちに知られるようになったのは、2002年、Ta’ayush(アラビア語で「共通のいのち」)という分離壁や人種差別、とりわけ入植者の暴力に反対するイスラエル人とアラブ人が連帯する草の根運動のグループが、ツゥーバからアツ・ツワーニへの通学時の入植者(セツラー)の暴力に着目したときからである。2004年秋、CPT(Christian Peacemaker Teams)と平和の鳩(Operation Dove)というインターナショナルズがこの村に入り、国際的に知られるようになった。彼らは、子どもたちの通学の安全を確保するためにこの村に入り、いまも村人の付添い人としてその活動をつづけている。まず子どもたちの声をきいてみよう。

「私たちはいつもマガー・アビードからツゥーバをへてあの鶏小屋に行きます。そこに兵士が待っていて、私たちはセツラー(入植者)に会うことになります。セツラーは車を通学途中の私たち目がけて突っ込んできます。そして時には、私たちを捕まえたり石をぶつけたりなぐったりします。セツラーは顔を頭巾で隠し棒を持っています。兵士は私たちの前をジープで行くのですが、いつも早く行ってしまいます。するとセツラーは、歩いている私たちを追いかけタマゴや石を投げつけるのです。

私たちは兵士にお願いします。「もっとゆっくり運転して」と。すると兵士は、「急げ!」とどなるのです。ときどき兵士も私たちを押し付けたり倒したりします。そんなとき、私たちはカバンをおいて逃げ出します。兵士はまた、とても汚い言葉をつかいます。キッパをつけたある兵士は、私たちを追いかけるのです。往復3時間の通学で、家に帰るとどっと疲れてしまいます。」

「あの女セツラーは、悪い女です。あるとき彼女は私たちを捕まえ、腕をひねるのです。私は兵士に助けを求めましたが、彼らはけっして助けようとはしてくれません。兵士は、ただ車に乗っていたり、遅く来たりするのです。私はときどき棒をもったロングヘアーのセツラーが追いかけてくる悪い夢をみます。目が覚めると、ああホントじゃなかった、と神に感謝するのです。学校のある時期は、セツラーのおかげで本当に嫌なときになっています。」

ある父親は、「子どもたちはセツラーに顔を殴られる。ときどき子どもたちは、一日中おびえていることもあります。セツラーは去らねばなりません。セツラーがいるあいだ、ここには安全はありません。ここには安全ではなく、不安と恐怖があるだけです。」またある母親は、「もし軍隊が子どもたちと一緒でないなら、私はこわくてしかたありませんし、子どもたちも怯えてばかりいることでしょう。そもそも入植地の始まりが悪かったのですが、今後はもっと悪くなるでしょう。セツラーはいまだに子どもたちを殴りつづけています。」

(私はこれを書いているとき、明治以降のアイヌの子どもたち大人たちが、やはり同じように、いやもっと過酷に制度的に、「和人入植者=日本人」にいじめられ、排外され、差別され、虐殺もされてきた事実を想い起こした。そしてまた、アメリカで、イスラエルで、南アで、南米で、アイルランドで、カナダで、オーストラリアで、そしてこの北海道、日本で、「入植」が既成事実化されて今日あることを思い知らされ、歴史の非情に困惑し、またレスポンスビリティの難しさを痛感した。)

ところで、セツラー(入植者)やソルジャー(イスラエル軍兵士)は、ここでどんなハラスメントをしているかというと、叫ぶ、わめく、罵倒する、脅す、殴る、押し付ける、押し倒す、負傷させる、追いかける、石を投げつける、パンツを脱いで尻を見せつける、軍兵士が故意にエスコートを遅れる(そのため通学の38,7%も遅刻している)、兵士はセツラーの暴力を放置している、故意に子どもたちから離れて危険にさらす、通学カバンを盗む、故意にルートを迷う、子どもたちをただゲートの前で待たせる、徒歩の子どもたちをおいて兵士は車を走らせる、羊飼いの少年を逮捕・拘束するなど、後で述べる毒物を撒いて何頭もの羊を殺すということを別にしても、ハラスメントと攻撃は日常的なものになっている。

DCO(イスラエル軍地区連絡事務所)とイスラエル軍兵士が、子どもたちの「付き添い」を命じられたのは、2004年11月である。国際的な非難にこたえてイスラエル国会が委員会をつくり、子どもたちの通学の権利を守る、ということではじめられた。とうぜん、ならずものである入植者(セツラー)の逮捕・拘束、違法なアウト・ポストの解体まで命じたものであるが、今日まで一人の逮捕者も出ないどころか、ハーベット・マオン・アウト・ポストの違法建築はもう二十数軒にもなっているという。(どうもここは入植地付きの「農産団地」になっているようだ。こういう違法入植地が増えている。)

なぜこういうことが起きるかというと、1981年に出来たマオン入植地(370人)のとなりに2001年不法なアウト・ポストが造られそこに宗教的な入植者が住むようになったからである。ちょうどマオン入植地とアウト・ポストのあいだに、むかしから使われているツゥーバ=アツ・ツワーニ間の最短距離の道路がある。この道はまた地域の中心都市ヤッタにも通じる、必需の一本道なのである。病院などはヤッタにしかない。子どもたちがこの道を避けるとすれば、片道2時間の山越えとなる。

ヘブロン地域一帯は、人口16万のヘブロン市を中心に55万(西岸人口の23,4%)の人口を擁する一大農村地帯である。南部の丘陵には、ヤッタという人口6万の古くからの商都があり、その周辺に多くの村々が点在している。そのヤッタから南東10キロにある人口200人足らずの集落がアツ・ツワーニだ。丘を三つ四つ越えたところにさらに小さな集落ツューバがあって、昔の子どもたちは10キロ以上のヤッタへの道のりを徒歩で通っていたそうだ。近年になって、アツ・ツワーニにも学校が出来、ツゥーバの子供たちもここに通ってくるようになったのだ。(ちなみに、高校は全員ヤッタに通う。)

ところが、このヤッタ地区に80年代初め次々と入植地がつくられた。1980年メザドット・イェフーダ(462人)、1983年オトニェル(752人)、スシヤ(737人)、カルメル(696人)など6ヵ所の入植地がヤッタをまるく取り囲んでいる。1972年につくられた最大入植地キリヤット・アルバ(7000人)を含めると、一万人以上の入植者がヘブロン地区に居住していることになる。しかもこの入植地周辺からグリーンラインまでは、ミリタリー・エリアとしてイスラエルの軍令が最優先される地域なのである。

アツ・ツワーニの村から見上げると、マオン入植地とパレスチナにはなかった移植された常緑針葉樹森―これがハーベット・マオンといわれるアウト・ポストだ―が見下ろしている。そしてセツラーたちは、村に忍び寄ってはさまざまな攻撃を仕掛ける。

(つづく)


松元保昭2009082415-神は細部に宿る-その2

2005年3月22日、アッ=トゥワーニ(At-Tuwani *脚注)村の住民がよく使っている羊飼いの通り道に丸薬のようなものが撒かれていた。村人とともに発見したCPTメンバーは、「トルコ石と同じ緑色で、アメリカで売っているネズミ用の毒薬に似ている」と言った。一週間後の3月31日、ついに羊4頭が死に、25頭の容態がおかしくなった。ガゼルもリスもヘビも鳥も死んでいた。村人たちは、マオン入植者とハーベット・マオン(アウト・ポスト)入植者たちがやったことがすぐに分かった。この2ヵ月で20回以上もさまざまな攻撃を受けてきたのだから。

ビルゼート大学の化学者は、たった50ミリグラムで一頭の羊を殺せる非常に殺傷力の強い毒物だと指摘し、触れても吸引しても人体に有害でかつ水に溶けやすく土壌も汚染されるだろうと警告した。村人とCPT(Christian Peacemaker Teams)およびOD(Operation Dove)のインターナショナルズは、ただちにイスラエル・ポリスを呼んだが、彼らはその後、「これは時間を要する問題だ」と報告するにとどまった。

このすこし前、3頭の羊と1頭の山羊が入植者のトラクターに轢かれたことがある。入植地の近くは立ち入り禁止区域だというのが、セツラー(入植者)たちの主張だ。その翌日、3人のセツラーが羊飼いを追いかけ回し、石を投げつけ、そして銃を向けた。

CPTの報告によれば、同じ年、1台のイスラエル軍のジープが羊飼いの方に向かって走って来るのを目撃した。車の中の兵士は全員顔を布で覆いゴーグルをつけていた。彼らは見分けがつかないまま羊飼いに近づき、こんどはお前たちと羊を撃つぞ、と脅かした。こうした度重なる入植者たちの嫌がらせ(ハラスメント)と暴力で、一時、この村から去っていく家族もあった。しかしCPTやODというインターナショナルズの後押しで、歴史ある土地に戻りはじめている。私たちが行ったときも、CPTのおかげでこの村はある、と入植地にもっとも近い畑をもつハフェツは言っていた。

パレスチナを歩くとどこでも必ずぶつかるのが、道路の真ん中に置かれた1メートル四方のブロックである。西岸最南端のこの辺鄙な村でも、やはり道路封鎖が行われている。これはとてつもなく大きな重荷となる。ジンバからヤッタの病院に行くまで3時間も余計に時間をとられるのだ。しかもなぜ封鎖されたか、パレスチナ人には理由がさっぱり分からない。さらに村の道路も舗装を許可しない。(5月に行ったときは土埃だらけの道であったが、7月にはきれいに舗装されていた。数年越しにやっと舗装されたという。きれいになった坂道で子どもたちが遊んでいた。)

しかしこういう例もある。毎年10月にもなると、オリーブの収穫を入植者の攻撃から守るためにイスラエル人が村にやってくる。入植者たちが200本のオリーブの樹を引き倒したあと、彼らは二日間でそれらの樹を植えなおした。また5月にもなると、ときどき入植者に焼かれてしまう大麦の収穫のために、やはりイスラエル人が援助のためこの村にやってくる。CPTのアルト・ギッシュはこう述べている。「村人たちはこれらのユダヤ人を喜んで彼らの家に招き入れる。私は何度もこれらのイスラエル人、パレスチナ人、あるいはユダヤ教徒とイスラム教徒とキリスト教徒が、ここで一緒に食卓を囲んだ。私たちはこのような未来を選ぶのだろうか、それとも恐怖と暴力そして抑圧の未来を選ぶのだろうか」と。

しかしイスラエルの占領支配は非情である。私が二度目に行った後のことである。CPTの報告によれば、つぎのように物語は進行した。ことし7月17日の朝、ある家族は、彼らの新しく造っていた家が前夜のあいだに壊されていたのに気が付いた。すぐ側に立っていた一本のオリーブの樹も、半分に伐られていた。その前日、アッ=トゥワーニの住民は村の所有地に6ヵ所の新しい小さな家を再建し始めていたからである。しかしその家族は、翌日からまた家を再建しはじめた。

建設中、ハーベット・マオン・アウト・ポストの入植者たちは、パレスチナ人が働いているところへ来て叫び声をあげていた。DCO(イスラエル軍地区連絡事務所)の将校たちは、パレスチナ人の土地所有者に向かって、この建築は違法だから働いているものたちを逮捕するぞと脅した。加えて、一人の将校は、建築を止めないならお前の所有しているものすべてを破壊すると、ひとりの住民に語った。こうした危険にもかかわらず、パレスチナ人は、自分たちの土地に自分たちの家を建てる権利を主張するためにも、建設をつづけるつもりだと語っていた。

7月20日午後、イスラエルDCOは、アッ=トゥワーニ村の9件の建築を中止するよう命令を下した。この軍令は、7軒の家屋、一つのケーブ(洞窟)、そして一つの貯水タンクに対して命じられたものだ。

DCOとイスラエル兵が来て命令を下しているあいだ、パレスチナの子どもと大人たちが一緒になって中止命令に抵抗しはじめた。ひとりのパレスチナ人がDCOと兵士たちに向かって、破壊命令は不法建築が拡大されつづけているハーベット・マオンのアウト・ポストに向けられるべきではないのか、と話しかけ抗議した。そのときパレスチナの子どもたちは、壊されようという家をみんなで取り囲み大声でシュプレヒコールを始めた。それは、DCOが命令を強行することを難しくさせる企てでもあった。事実、DCOや兵士たちは、子どもたちの大声でレシーバーや電話を使うことが出来なくなった。

この間、とうとうDCOの一人のメンバーがひとりの小さな子を殴った。つづいてもう一人の兵士がひとりのパレスチナ人を地面に押し倒した。ついにイスラエル・ポリスは、別のひとりのパレスチナ人を逮捕した。彼は、おそらく「兵士を脅した」罪を問われることになり、これからキリヤット・アルバのポリス・ステーションに連行されることになるだろう。

すると突然、パレスチナ人たちは軍兵士とDCOの前で大人も子どもも地面にひれ伏し一列に並んでアッラーに祈りを捧げはじめたのである。懇願と祈り、これこそ太古からの抵抗でなかったか。祈りこそ非暴力抵抗の極北ではないのか。CPTや他のもろもろの非暴力をうたう運動も、この歴史深い土着の闘いにはかなわない。私はあらためて、パレスチナ人の抵抗の根強さがやはりイスラームの信仰にあると考えさせられたのである。しかし、軍命令が取り下げられることはなかった。

ついに7月28日、電気を引くために新しく設置されようとしていた6本の鉄塔に対する破壊命令も下された。ことし3月19日この村を訪れた中東カルテットの特命全権大使トニー・ブレアが村のリーダーに対して「これは破壊させない」と口約束していたにもかかわらず、である。ここはミリタリーゾーンだから、何をもってしても軍令が最優先される。それが占領の現実だ。

さらにこのひと月前、ネタニヤフが大層に預言者イザヤを持ち出し「剣を打ちかえて鋤とし平和をつくりだそう」「パレスチナが非武装ならパレスチナ国家を認めよう」と言ったちょうどそのとき、非情なガザの封鎖はつづけられ非武装のアッ=トゥワーニの住民はこのような不正義に蹂躙されていたのである。家を破壊された38歳の家長ジュマは、「彼らはゲームをやっているのです。ギャンブルです。」と、政治の欺瞞性を透き通るような眼で看破していた。

電気も水道もない、西岸のさらに辺境のこの地で、巡りくる自然循環とともに家畜と日々の労働と貧しさのなかで生きる善良で純朴な人々に出会い、私はスピノザの言葉を思い出した。「神は細部に宿る。God is in the details.」(完)

※At-Tuwaniの表記を前回はアツ・ツワーニとしていましたが、アラブ文学研究者から日本語表記はアッ=トゥワーニにすべきだとご指摘がありましたので、訂正し ました。また前号のTa'ayushを、(アラビア語で「共通のいのち」)としましたが、このタアーユシュは、むしろ「共生」を意味するそうです。お詫びして訂正いたします。松元