Previous/Ichiro 志村墨然人 -墨描(すみがき)・中国人強制連行の図-
発行:中国人強制連行「聯誼会連合を支える会(準)」龍谷大学深草学舎田中宏研究室
1頁:「私がこの絵図を描く理由(わけ)」
22頁:「20 花岡蜂起・惨劇曼陀羅の図」

私がこの絵図を描く理由(わけ)

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私がこの絵図を描く理由(わけ)

志村墨然人

戦後60年を経ても、未だ解決に至らぬ「中国人強制連行」。この絵図は、北海道の連行事業所で、当時の加害行為はかく行われ、このように中国人たちが蒙った悲惨な日々の事実を、私の体験に基づいて描いたものである。

事業所は、北海道日本海側の西南部に位置する、後志(シリベシ)管内、積丹半島西南部の片隅にある小さな農村発足(ハッタリ)村にあった。村の東北部で建設中だった国策企業「帝国鉱業開発」傘下の玉川鉱山が、本格的操業に向けて計画した「選鉱場並鉱滓処理用沈殿池」造成工事を、施工していたのが鹿島組である。この工事現場を管理監督する鹿島組発足玉川出張所で職員として勤める私が、新しく入る土工夫代りの、中国兵捕虜を収容する施設「泰山寮」(飯場)の担当に廻されたのは、移入連行がほぼ決まり、現地山東省の済南出発が間近になった、4月中旬のことだった。

1945年6月5日の中国人たちの到着、日本敗戦で解放、そして12月初旬の帰国当日、突然二代目「労工」隊長が、発車直前の岩内駅プラットホームで米軍に逮捕され、その場から札幌に拘引されるハプニングが発生した。咄嵯の事で何か起きたのか判断できず、唯唖然とするばかりだった。これは隊長が、鹿島組と共謀し「労工」数人を虐待し虐殺したとの、忌まわしい容疑だったのである。北海道駐留の米軍第77師団検察側による厳しい取調べは、当然私たち鹿島組関係者にも及んだ。こうして翌1946年1月16日から4日間に渉って、札幌市役所の3階大会議室を法廷として、米軍の裁判が開廷した。これは米軍が北海道に進駐して僅か3ヶ月余りで行う初めての軍事裁判だったのである。

被告側の証人に立った私たちの証言もあってか、幸いにも無罪放免となった隊長を岩内駅で見送るまでの、9ヵ月余りを時系列的に描いたのが、此の絵図なのだ。この隊長を見送った後、私は鹿島組発足玉川出張所を辞め、思いがけない体験に翻弄された此の地を去ったのである。

この体験を、以後長い歳月、堅く胸に封じ沈黙し続けてきた。同時に50年近くも、此の地に足を踏み入れることはなかったのである。然しこの発足村の地に刻まれた中国人たちの事を忘れたことはない。この私の意識の中で、何故絵図に思いを寄せることになったかと云えば、かねてこの体験に対する忸怩とした思いと、後ろめたさから何時か此の体験を思いっきり吐き出し表現し、残してみたいという気持ちに駆られるようになっていた。

その発足村が、1968年、北海道発の原子力発電所の候補地に指定されたことから、にわかに世間の注目を集めることになった。原発ができれば、中国人が苦役を強いられた跡形もなくなるのではと心配になった。(原発は結局少し離れた所に泊原発としてでき、1989年に稼働。)こうして先ず往時の事業所跡を訪れた発足村は、戦後の合併で1971年には共和町に変わっていた。

中国人たちが起居した「泰山寮」も、50年の風雪の中で朽ち果て、その姿を形を見る術は出来なかったのである。また、中国人たちが重い畚(もっこ)を担いで現場を往復した、沈殿池工事の跡もすっかり草木に覆われ、その跡も定かではなかった。

この発足村を訪れた折、往時の出来事を知る人は皆無であった。それ以上に驚いたのは、『共和町史』の中にすら、中国人強制連行に関わる記述が一行も無かったことである。旧発足村発行の古い『村史』の中にもそれはなかったことに、唖然とさせられたものだった。これは道内各地の、中国人連行事業所があった市町村にも、同様のケースが多くあるのだ。この戦争が残しか歴史的加害事実を無視したり、勝手に消去することは、何人といえども許されるものではなく、歴史の歪曲以外の何ものでもあるまい。

このように、戦争がもたらした「負の遺産」として、つとに悪名高い「中国人強制連行」の非人道的加害行為は、今この発足(共和町)からも北海道内からも、忘れられ、消えようとしている。当時の連行企業の多くは、敗戦による事業中止や連行による損失被害として、国から多額の補償金と優遇措置を得て、戦後の高度成長と共に、総合商社やゼネコンとなり、戦前にも増して隆々と企業活動を続けているではないか。

これを巷の片隅から見るとき、己の長い沈黙に慚愧の念と反省を併せ、今更ながら連行企業に対する憤りを覚えるのだ。ぞれ故に、まだ自らの記憶が鮮明なうちに、誰の為でも、誰に頼まれたでもなく、唯自らを含め国が、連行企業が、犯した連行加害の実体を絵図に具現し、遅まきながら自責と償いの真意をこの拙い絵図に託すことに決めたのである。

これが私が絵図にこめた願いであり、且つ負の遺産といわれる絡印を「後事之師」として、何時までも消さぬため、この老体に鞭打って描き続けなければ、60年前の償いも、自責をも果す事はできず、また、私の戦後も終わらないのである。

(2008年4月 墨然人記)

志村 墨然人

1923(大正12)年生まれ。1945(昭和20)年、北海道発足村(現・共和町営丘)の鹿島組発足玉川出張所の職員として働く。画家。札幌市在住。


20 花岡蜂起・惨劇曼陀羅の図

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20 花岡蜂起・惨劇曼陀羅の図

みちのくの山々に囲まれ、青森県に近い秋田県北東部にある同和鉱山の城下町花岡。1945年、灯火管制下の6月30日深夜、突然、町の人を不安と恐怖に陥れる事件が発生した。

これが今に語り伝えられる「花岡鹿島組華労蜂起」。同和鉱山の採掘と花岡川改修工事に、連行使役中の華労800余名が、日頃加えられる暴力と侮辱、劣悪な生活環境への抗議行動として、一斉蜂起、実力行使に至ったのだ。

直ちに、大館警察署の知るところとなり、秋田地区憲兵隊も出動、これに青森地区憲兵隊も呼応。更には地元各団体も加わり、延員数2万数千の大捜索隊となって、蜂起華労の追跡に向かった。

華労たちも、深夜の山道を空腹と衰弱の身で「獅子ケ森」山頂近くに拠っていたところを、捜索隊に包囲される。発砲しつつ迫りくる憲兵隊、剣を振りかざす警察隊に対する華労には、徒手空拳のみだ。身を賭した激しい抵抗も遂に及ばず、次々と捕らえられ、花岡町内の「共楽館」前広場に運ばれたのである。

後ろ手に縛られ、2人1組に背中合わせの華労は、砂利の広場に座らされ、憲兵や警察などの狂気的拷問と暴力は間断なく加えられた。華労たちの周囲を取り巻いた、何百という人々が口々に侮辱、投石はかわしようも無く、華労たちの身を襲った。

真夏の炎天下を、このまま「三日三晩」も放置され、一滴の水、一片の食い物も与えられず、際限のない加虐を受け続ける中、昏倒し死亡する者多数を数えた。

この残忍極まりない大事件は、戦争中の厳しい規制の中で秘匿され、全国に報道される事は、敗戦後まで無かった。

絵本体 縦184.5cmx横339.0cm

表装込 縦196.0cmx横391.0cm