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山本史郎20060610『バグダッド・バーニング』の魅力
山本史郎20060505滑稽なのはどちらか、「ザルカウィ」か? 米軍か?
山本史郎20060328不屈のイラク 原文
山本史郎20060218イラク情勢ニュースの動機と経過

山本史郎20060610『バグダッド・バーニング』の魅力

書籍『バグダッド・バーニング』の続編が近く刊行されるそうだ。バグダード・バーニングの日本語サイトに近刊予告が掲載されている。

最初に書籍化されたのはイギリスで発行されたものらしいが、その本は昨年10月、ルポルタージュ文学に贈られるユリシーズ賞の3位を受賞し、さらにブログそのものも賞を獲得するなど、リバーベンドのブログ『バグダード・バーニング』は、今やイラク発のブログとして、世界的にも注目されるものになった。

ちなみに、Yahoo英語版の<Iraq War Blogs and Diaries>でも、バグダード・バーニングはずっと上位に掲載されつづけている。比較的に早い時期から、日本でもこのブログが女性有志によって翻訳され、日本語サイトで読むことができるようになったのは嬉しいかぎりで、私自身もその恩恵に浴してきた。

占領下イラクにおける日々のニュースや重大事件の評価・分析といった点では、他の情報源からもニュースや評論、レポートなどさまざまな情報を得ているのだが、やはり、バグダード・バーニングならではという貴重な内容(質)がある。

他にはないリバーベンドの文章の特徴とは何だろうか?

言うまでもなく、これはブログである。つまり、とりあげるべき重要なできごとやテーマを選んで、それに関して取材してレポートするというのではなく、現にイラクの首都バグダッドに住んでいて、日々の生活のなかで筆者が感じたこと、外の世界に伝えたいことが時を移さず書かれていく。

当然ながら、そこには筆者自身の感じ方・考え方が反映されるし、その筆者の感性にもとづいて周辺のことがらも拾いあげられる。あくまでリバーベンドという1人の生きた人間の感性を通しての作業である。しかし、そうでありながら、他の個人ブログとは異なって、家族や隣人たち、さらには相互に訪問しあう親戚・知人などとの会話も再現され、あるときには物語りのように構成されることさえある。そうすることによって、自分たちの主張や思いを客観視しつつ、イラクからのメッセージとして世界に発信しているのだ。

普通のイラク国民の常識と米国産プロパガンダの影響を受けている人々との間のギャップを埋めていく手段として、リバーベンドはそのような構成を意図的にとっているのではないか、と、ふと感じることさえある。世界的な賞を受賞する理由の一つに、このようなブログ全体の構想力のすばらしさもあるのかもしれない。ブログといえば、インターネット上での日記的なサイトと説明されることも多いが、リバーベンドのブログはそのような個人日記的な水準ではなく、文学の域に達しているのかもしれない。

それは例えば、次のようなことにも効果的にあらわれている。

書籍の続編に収録される時期は、ブログ更新の日付としては2004年の6月以降になるのだが、実際の内容としては、懐古や体験談といった形での叙述もからめながら、今の占領の直接的な契機となった2003年3月の米軍によるイラク侵攻以降の重要なポイントもおさえられている。しかも、そうした日々を自分や家族はどのような体験として、どのように感じながら生き延びたか(あるいは、生き延びることのできない人がいたか)というふうに描いており、年表的に何がいつあったかと確認するのとは決定的に違う。

だから、占領下イラクの実情について、またイラク国民の側からの受けとめ方として、仮にニュース等で概要は知っていることであっても、一定の評価を自分で持っていることであっても、あらためてリバーベンドが描くものを読んでみたくなるのだ。そこには他の報道やレポートでは得られない内容と質がいくらもある。

ここで実際に、続編に収録される期間、つまり2004年6月以降に何が問題になってきたかを簡単に振り返ってみよう。2004年6月といえば、ファルージャで米軍の攻撃に対して住民蜂起ともいえる戦いが起こった直後である。この頃、イラクではファルージャの人々をたたえる歌が全国的な評判にもなったほど、バグダッドその他の地でもファルージャへの連帯感が高まった。そして秋から冬にかけては、ファルージャを始めアンバル州やユーフラテス川上流地域で米軍の大がかりな包囲・掃討作戦が展開されていく。

それは2005年1月末の暫定国民議会選挙にむけた「治安」対策でもあったが、実際には昨年10月の憲法承認の国民投票、12月の国民議会選挙へと政治プロセスが進行しても、イラク国民の生活はなんら改善されず、それどころか一般市民にまで対象を広げたテロ・誘拐・拷問・殺害が吹き荒れるばかりだった。それも内務省の治安部隊や警察、あるいはそれと連携する民兵による犯罪がエスカレートしており、バグダード・バーニングを読むとよくわかるが、一般の報道で伝えられる「宗派間抗争」などではない。(リバーベンド自身がイスラム教徒を自覚しても、宗派を意識することなく、また宗教の違いを超えて人々が平和的に共存するイラク社会で育っている。宗派や民族への帰属意識を最優先のものとする感覚は平均的イラク国民にはない。)

そしてこのようなニュースになりそうな問題だけでなく、その地に住んでいる人々はなんら改善される気配のない毎日の生活に直面しているのである。電気、水、ガソリン、砂嵐のあとの掃除、冬が終わって夏を迎える前の片付け、ラマダーンを迎えラマダーンを終えるときの家族・親戚のならわし、あるいは街のあちこちで誰かが体験する自動車爆弾や警察の捜索等々、どれ一つをとっても生活と切り離すことができなかったり、のっぴきならない深刻なできごとだったりする。

リバーベンドは政治的に重要なテーマについて果敢に筆をとる(キーボードをたたく?)だけでなく、身の回りのできごとや日々の生活に根ざした視点からも、「占領」という現実を浮びあがらせ、政治の動向を見すえている。このことも『バグダード・バーニング』が読者をひきつける理由の一つだろう。

これらの一つ一つについては、結論めいた文章でここに紹介するより、実際にリバーベンドがどのように伝えているか、彼女のメッセージをじかに受けとめてほしい。そのメッセージの全体を受けとめるという点では、同じ姿勢でPCと向きあって読むよりも、書籍の方が親しみやすいだろう。ゆったりしたり、かじりついたりして読むのにふさわしい文章でもある。


山本史郎20060505滑稽なのはどちらか、「ザルカウィ」か? 米軍か?

『ザルカウィのビデオ』が4月25日にインターネットで公開されたとして、米国メディアや日本のマスコミでも取りあげられた。米軍もこのビデオがいかにも本物であるかのように、イラクでのゲリラ掃討作戦の口実にしている。米軍が戦っているのはこのようなテロリストだというわけだ。実際にはそうした口実のもとに、ラマディでの住民攻撃などがおこなわれており、米軍が「ザルカウィ」云々を利用しているという構図だろう。

「ザルカウィ」とカギカッコを付けて書くのは、ザルカウィの存在も含めて、その役割について、米軍発表およびそれを伝えるマスコミの言葉を信用できないからである。

米軍が「ザルカウィの役割」を誇張し悪用してきたことは、これまでにも指摘してきたし、4月には、米国の主要メディアに数えられるワシントン・ポストも米軍内部資料を使って暴露したことを紹介した。

米軍がザルカウィの役割を誇張--ワシントン・ポスト記事を読み解く

米軍の「ザルカウィ」利用はまだ続くようで、昨日(5月4日)は、バグダッド駐留米軍が記者会見で新たに入手した「ザルカウィ」の映像を紹介した。バグダッドの南ユスフィヤ地区で最近おこなわれた掃討作戦において捕獲したもので、前の「ザルカウィのビデオ」にはない映像もあるという。

※CBS Zarqawi Flubs Seen In New Iraq Video

その会見において、イラク駐留米軍の広報担当リック・リンチ少将は「ザルカウィ」の映像のマネまでしてみせたという。

曰く;ザルカウィが持っている機関銃は自動式(=自動的に連射も可)なのに、彼は1発しか撃たなかった。彼は武器の操作を自慢しているが、自分の武器も扱えない、と。

すなわち、米軍が「ザルカウィ」について発表してきたことが事実だという前提のもとに、「テロリストの頭目たるザルカウィ」を自分の武器も扱えない無能な人物だとバカにしてみせたというわけだ。

だが、まともな判断の持ち主が冷静に受けとめるなら、こう理解するのが妥当だ--そのような人物がイラクにおける反米勢力の頭目だという米軍の主張こそ滑稽(こっけい)そのものではないのか。


山本史郎20060328不屈のイラク 原文(Iraq unbreakable)

3年がたって、世界はこれまでで最も反啓蒙主義的な時代に突き進み続けている。2003年2月15日、人類社会は大国に対抗してあらゆる手段を講じることを深く決意し、この恐るべき戦争に反対するために地球全体で同時デモをおこなったのだった。3年たったが、われわれが先んじて感じていた通り、それは大虐殺であり言葉では言い表せない残忍な流血である。3年がたって、イラクは独立国家としても、民族国家としても破壊されてしまった。その天然資源は略奪され、その文明と文化的遺産は奪われ、宗教的遺産は冒涜されて、国民は陵辱され、拷問され、ドリルで穴をあけられ、殺害され、溶かされさえした。この頃は皮肉にも、内戦を恐れて占領軍の即時・完全撤退の要求さえも後退している。

このたびの占領のまさに最初の日から、われわれは2つの陣営の力関係の進展を目にしてきた。一方は占領軍とその手先であり、もう一方はイラク国民とさまざまな形の抵抗である。イラク人のなかに一時的であれ占領軍を歓迎したという雰囲気があったとしても、終局目標にそって占領軍が使った手法はイラク国民の利益に反していて、これまでにない多数が離反し挑戦するようになった。

米国のイラク戦略は、アラブおよびイスラム教徒というアイデンティティを破壊してきて、アメリカの政治・経済・軍事支配を確実にするために、宗派・民族にそって3つの弱小で相争うものに分割することである。イラク侵攻は不法な戦争であり侵略という犯罪であったし、今もそうである。イラクとイラク人は国際法、つまりジュネーブ条約およびハーグ第4条約とならんで国連憲章によって保護される。米国を占領軍と規定した国連安保理決議1533に従うなら、米国は国際人道法のもとで宣言された固有の義務をみずからに課すべきだ。これらの諸条約は、占領軍に占領された国の社会的・経済的・政治的構造を変えることはできず、占領された国を占領以上の条約や協定でしばることもできないことを条件として課している。これにはこれまでになされた憲法、選挙、あらゆる契約が含まれる。

米国が指揮する政治プロセスは違法であったし、今もそうである。しかしブッシュ政府はそのことを隠し通そうとするだろう--「解放」といい、「国の建設」といい、あるいは「過渡期」といっても、この政治プロセスは不法かつ違法である。イラクの「解放」はイラク国民にいかなる主権をももたらさなかった。主要な国家主権のすべてが占領者の手に握られている。米国は計画を達成するために、スンニ派とかシーア派といった副次的なアイデンティティをあおることによって、イラク国民のあいだに宗派的な争いと市民間の抗争を助長した。米国は宗派至上主義者の民兵、暗殺チーム、そしてあらゆる種類の傭兵たちを養い、資金援助し、訓練し、募集してきた。また街全体、都市全体に対して許しがたい異常なまでの軍隊を差し向け、聖地ナジャフやファルージャ、タルアファル、カイム、ハディッサ、バクーバ、サマッラ、ラマディその他に破壊をもたらし、何万というイラク人の死とさらに数万人の拘束という結果をもたらした。軍事的手段によって国の法律を指図するつもりなら、占領こそ独裁の最高形態である。

この政策が占領によって利益を得る軍閥と封建主義、買収された個人を各地に生み出すことは確かだが、他方でイラク社会の大多数--疎外され貧困化させられた教育を受けた中間階級、労働者階級は国のサービスを享受できなくなり、若者は失業と市民的権利を奪われる--は米国のイラク政策を拒否するようになる。このことが占領に対する終わりなき闘争の根源となり、ついには米国を敗北させ、米国の政策を頓挫させるだろう。

占領軍がイラクにやってきてイラク政府が崩壊した。まさにその日から、全イラク国民の運動と組織による蜂起が始まった--それには女性の保護や失業青年、人権団体、労働組合、専門職の協同組合、環境問題と拘留者の権利擁護に携わる機関、そしてあらゆる文化・政治団体が含まれ、地方や部族単位の共同体や平和的レジスタンスと武装レジスタンスも肩を並べている。占領と宗派・民族至上主義に反対する全国民的運動が発展した。それは市民レジスタンス(非武装)から武装レジスタンスまでさまざまな形態を採用した。1つの形態が他の形態と対立するのではなく、むしろそれぞれに闘争形態を選択することを支持している。

この占領に反対するためにイラク人勢力によって採用されるさまざまに異なる方法は、その特定状況にもとづいているのだ。彼らは第二の権力を形成し、互いの痛みと連帯のなかで生活している。市民レジスタンスと武装レジスタンスは互いの正当性と合法性、必要性を認めている。彼らは占領軍とその手先、そして犯罪的な占領計画を打ち負かす共同闘争をすすめている。市民レジスタンスと同様に、武装レジスタンスはイラクの未来と領土、資源をめぐって主権と独立を守っている。(第二次大戦直後の)ドイツや日本と違って、イラクは独立した軍事力を持っており、それは降伏したことも、なんらかの協定に調印したことも、侵略者に降伏することもなかった。占領に反対して蜂起し、イラクの主権を正当として戦うなかで、イラク人のレジスタンスはイラク国家の正統な継承者となっている。

イラクの愛国運動の歴史を通して、1920年代から今日まで、真の愛国主義の主要な基準が外国のイラクに対する「覇権」に立ち向かうことであったことは明らかである。イラクの石油資源国有化政策と、石油収入を経済発展と社会基盤整備に投資する政策の継承は、石油産業をイラクの利益に奉仕させることを最終目標として、石油産業を適切に管理するための自前の幹部を育成するイラクの能力を誇示してきた。技術と資金、あるいは何らかの外国の助けが必要なときでさえ、イラクはそれを契約と合弁を通じて獲得してきた。イラクは常に、その油田所有権を国家以外の団体に譲ることを正当化したことはない、と、強調してきた。

過去4000年間、イラクは1つの社会的・経済的な国であった。このことは地政学的な知恵から生じている。イラクは幾つかの文明と人民が栄えた1つの流域であり、その最新のものはアラブ・ムスリム文明である。イラク国民とは、彼らの宗教あるいは民族に関係なく、これら諸文明および諸人民の遺産を受け継いでいるという表現である。歴史上、この地域に2つの国家が併立したことはありえなかった。市民が共通の国を形成することが人民の地政学的な利益であったことから、(2つの国ができると)1つの国はもう1つの国に譲り渡されなければならなかった。イラク国民を分断しようとする帝国の試みは幾度となく失敗してきた。<アラブ・ムスリム>というイラクのアイデンティティを力づくで破壊するには、1世紀以上かかるだろう。

現在のイラク国民の蜂起は、野蛮なグローバリゼーションと資本の「自由化」に反対する広範な闘争の一環をなしているだけではない。まさしく上述したような戦いなのだ。イラクがこれほど露骨に破壊されつつあるのは、イラク国民がその主権を多国籍企業に譲渡することを拒否しているからである。われわれは損失にうちのめされるかもしれないが、このイラク国民は彼らがこうむった人的および物的損失に対する補償金と損害賠償の公正な支払いとともに、占領下で採択されたあらゆる法律、協定、条約、契約の取り消しを求め、イラクの領土から占領軍が完全かつ無条件に即時撤退することを要求し、われわれのために忍耐する用意さえしてきた。

米国の計画は、政治的に、道義的に、経済的に、そして軍事的にさえ、既に失敗した。戦争には2つのタイプの戦略がある--つまり、敵を打ち負かす能力を持つか、そうでなければ相手の戦意をくじかなければならない。米国はこの1番目の試みに失敗し、2番目の試みを成功させるにはイラクの人口を完全に根絶やしにするしかない。イラク国民の抵抗する権利は、国連憲章の基礎をなすものであり、また国連憲章によって保護されてもいる。イラク国民の正統性と英雄的な戦いを支持することは、以前の秩序に戻ることを支持するという意味ではない。イラク国民は、みずからの運命と未来を明確にするなかで、その決意のほどを証明してきた。彼らはそれをみずからの手に握ってきており、将来、圧制の類を受入れようとしないし、受入れることもできないだろう。

イラクの若い世代は、いかなる占領も、外国の干渉も、一党制の国家も、専制も、独裁者の統治も拒否するだろう。イラクの若い世代は、宗教と政治の分離、男女の同等、イラクの天然資源をめぐる主権を守るために、歴史的な遺産と専門的な技術、そして近代主義を掲げている。この若い世代は国と国民の権利を空売りすることを受入れないだろう。人類は道徳的な破滅の渕に立っているが、彼らの戦いの成功はわれわれの魂の救済である。私の魂はイラク人だ。


山本史郎20060218イラク情勢ニュースの動機と経過

ユッセフさんの真正直なお尋ねに敬意を表して、素直にお答えします。

<1>

「HPをやろうとした動機」ではなく、イラク情勢ニュースを始めた動機を述べる方が適切と思います。HP作成は、イラク情勢ニュースの開始より丸々2年遅れました。

このHPで最も古いのは、2002年1月のヤン・エーベル氏の『ブッシュ大統領の戦争教書演説』です。2月のブッシュ来日に向けて、他の方と協力して訳しました。これには伏線があって、前年9・11事件のあと、それを口実にしたブッシュ政府のイラク非難の間違いを明らかにする文書を訳したりしました。

それが2002年4月から5月にかけてのイラク訪問につながりました。が、同時に、万が一にもイラク攻撃が本格化すれば、イラクからの確かな情報なり、全体を把握したうえでの情報というのはイラク側からは困難になるだろうという予測していました。だから、そのような状況においても的確な情報収集・分析ができるように(確信をもって他者に伝えられるように)と、自分の感じ方、分析の仕方が通用するのかイラク現地で確かめておきたかったのいうのが最大の理由でした。

尋ねているのは「イラクを訪問した理由ではなく、イラク情勢ニュースを始めた動機だ」という声が聞こえてきそうですが、もう少し字数をください。動機といっても「気持ち」の問題ですので、一般論として一言で説明できる場合もありますが、この問題ではそこにいたる経過とあわせて「気持ち」がどのように動いてきたのかも説明しないと、「始めた動機」を理解していただけないのではないかと思うのです。

また、そのように動いてきた(=積み重ねてきた)動機を説明しておきたいという気持ちが私自身にもありますので、この機会にまとめてみることにしたわけです。

先ほどの続きになります・・・。 ニュースを始めた頃はまだ、イラク情勢に力を入れざるをえないものの、イラク問題に今ほど集中するつもりはなく、イラク情勢を重要な1つとして位置づけつつ、他の問題も多面的にかかわっていきたいと考えていました。しかし、アメリカが本格的なイラク侵略を始めるなかで、今のような形・構成にならざるをえませんでした。つまり、日本における他のものもろの政治・社会問題や国際情勢とのつながりを考えるうえで、イラク情勢が重要なカギとなったために、重要な問題の1つというより、中心的な問題に位置づけることになったのでした。

したがって、当初の意図とは異なりましたが、不本意という感じはまったくありません。

「イラクへの特別の思い入れ」というのと、似ているといえば似ていますが、上記のような経過なので、ある時点で「特別の思い入れ」なるものがあってというのとは違って、イラク情勢の方が特別に力点を置かざるをえない問題になってきたという事態の推移として受けとめてほしいと思っています。もっとも、イラクを訪問したりして、イラクの人々の気さくさというか、人なつっこいような親切さ、その奥にある知性や人間性にひかれていった面は否定できず、その意味ではある種の「思い入れ」がないわけでもありません。

始めた動機としてもう1つあげておきたいことは、2001年の9・11に至るまでの過程で、1991年の湾岸戦争以来、イラク側からのメッセージに直接触れる機会があったことに関係します。商業マスコミで伝えられないその種の情報に接すると、いかにアメリカ歴代政府の主張が間違っているか、それを鵜(う)呑みにする報道が間違っているかを知ることができました。だから、9・11以降のイラク情勢については、現実に目の前でおこなわれる世界規模での大いなる真実の偽装を明らかにしなければならないし、そのことに気づかなかった人々がやがて気づいたときに、認識を整頓するためにも、真実の側からの記録が必要だろうと思ってきました。

真実が覆い隠されたもとで侵略戦争という大事件が目の前で起こっているときに、知らせたいという気持ち、知った以上は他の人々にも知らせなくてはならないという義務感めいたもの、古い言葉を持ち出すなら、「義を見てせざるは・・・」という気持ちに似たものでした。

以上がイラク情勢ニュースを始めた動機とその契機となったものです。

ブッシュドクトリンに対する嫌悪感が「ある」か「ない」かと問われるなら、「ある」と回答しますが、それはイラク情勢ニュースを始めた動機ではありません。

イラク情勢ニュースを始めた時期(頭のなかにはwebサイトとしてHPを作成する構想がありました)は、ユッセフ・マンスールさんがご指摘のように、「911テロの解釈がイラクに強引に結び付けられアフガン以後のイラク情勢」へと展開していく時期と重なります。

<2>

次に<レジスタンス>関係の扱いと視点についてです。イラク戦争前から、もしアメリカが大規模な地上部隊を投入してイラクに侵略すると<泥沼化>するだろうとは思っていました。一般のイラク人が自負している人類文明発祥の地に生まれ育ったという誇りと知性、アメリカ政府の傲慢な姿勢への反発からしても、根強い反侵略・反占領の戦いになると考えたからです。

それに、当時の日本の報道では、フセイン大統領とバース党による「独裁政権」とか「統制」ということばかりがイラクの印象として喧伝されていましたが、イラク現地では広範な人々が、湾岸戦争およびその後の不当な経済制裁を通じて、アメリカや国際社会の姿勢を具体的に体験し、見抜いていたし、それに関係する豊かな情勢認識を持っていました。

いわゆる政権トップの首をすげ替えれば、あとは侵略者・占領者に屈服するとは考えられませんでした。これは当時でも、イラクおよびイラク国民をじかに知る人たちが多く指摘してもいたことです。

とは言っても、それがどのような形態や組織として発展するのかはまでは判らず、正直なところ、今のような形でレジスタンス闘争が急速に(まだ3年になるかならないかです)展開されるようになるとは予測できませんでした。正規軍同士の戦力・兵器を比較すればアメリカ軍が比較にならぬほど優位であることは明らかなだけに、それと矛盾すると言っても過言ではないかもしれない反侵略略・解放のたたかいがどう展開されるか、具体的に根拠をもって予見することは困難なことでした。

しかしイラク戦争が始まって以降の経過としては、欧米やアラブ・メディアを通して、ザルからこぼれ落ちるような少ない記事やレポートなどを拾い集め、その中から真相に近いものを取り上げていくことで、レジスタンス運動の発展についての私の認識も遅れずについて来たと自負しています。

レジスタンスの声明などを当初から扱うと予定していたわけではありません。というより、開戦前の時点で、イラクが占領されたのち1年も経ずにレジスタンスが組織され声明を発表するということをイラクの国外で予想していた人が、いったい、どれほどいたでしょうか。とはいえ、なんらかの形で侵略と占領に反対するイラク人の運動が展開されるであろうし、その一環としてアピールなどがあるだろうという程度は予測されることでした。実際にそういうものの一部としてレジスタンスの声明なども紹介してきました。

アルカイダやテロ組織のアピールや行動については、その実行者の名前と組織は判らなくても、現実の活動形態や考え方、そして誰が犠牲になっているか、誰を喜ばせているかを基準に分析して、それはイラク人を代表するものと思えないと判断してきました。

その判断は、イラク・レジスタンスの方針や考えと、期せずして一致していたように思います。そのように一致する考え方や分析、メッセージに接すると、私自身も嬉しくなって紹介したくなるし翻訳してでも紹介する、それが結果として今のイラク情勢ニュース(urukunews)の構成となっています。(だからイラク・レジスタンス・レポートはwebサイトを始めた頃から紹介も始めましたが、イラク・レジスタンス・レポートを最初から紹介してきたのではありませんし、その存在を知ってから翻訳・紹介を始めるまでかなりの月日がありました。)

こうなったのが偶然なのか必然なのか、二者択一で選べ--と言われると答えるのが難しいというのが率直な気持ちです。つまり具体的な形までは想定していなかったけれど、大きな方向性としては意外性はありませんでした。決して<なりゆきまかせ>というのではありません。

少し長くなりましたが、イラク情勢ニュース(URUK NEWS)を始めるにいたったいきさつと動機、現在のような構成になった経過など、大まかに説明できたと思います。ユッセフ・マンスールさんの質問に答える形になりましたが、以前にも似た質問を他の方から受けたことがありますし、私としてもどこかでこの内容をまとめておく必要があるとは思っていました。はからずもwebサイト内に設けた<読者の広場=なんでもメッセージ>がその契機になったことは嬉しいかぎりです。