Previous/Home YAMABEYukiko山邉悠喜子氏
人民網日本語版20160602日本人の元人民解放軍兵士が回顧録出版 中日友好願う
中国新闻网20160531日籍中国人民解放军战士回忆录出版 祈盼中日友好
山邉悠喜子20150228戦時日本の強制連行・強制労働に関する中国法廷での裁判審理についての意見書
人民網日本語版20140429山邉悠喜子さん 30年以上にわたり「731部隊」の歴史の真相を発掘 Video
央视新闻20140427日本老人30年挖掘“731部队”历史真相
中国档案报20140213让历史真相不再沉默
北京週報201012元人民解放軍兵士―山邉悠喜子さん
山邉悠喜子20100311『信濃毎日』新聞社に一言申し上げます
光明日报20041204山边悠喜子与日军毒气弹索赔案

人民網日本語版20160602日本人の元人民解放軍兵士が回顧録出版 中日友好願う

日本の侵略戦争が中日両国の人々にもたらした災難をつづった書籍「難忘一家人——一個日本籍中国人民解放軍戦士的真実記録」がこのほど出版された。同書の内容はすべて、日本人の元人民解放軍兵士・山辺悠喜子さんの口述と調査研究を踏まえた実体験を基にしており、戦争が人々にもたらした被害を明らかにするとともに、戦争に反対し、平和を大切にし、中日友好を願う気持ちが込められている。中国新聞網が伝えた。

資料によると、中国人民解放戦争の際、技術に詳しく学問のある多くの日本人青年男女らが中国共産党に入党、あるいは中国国籍を取得し、中国の革命事業のために奮戦した。

同書の作者である山辺さんは1929年に東京で生まれ、12歳の時に家族に連れられて中国にやってきた。16歳で人民解放軍に参加し、部隊と共に南下、24歳の時に帰国したが、差別に苦しみ、退職後は中日両国を頻繁に往復し、日本軍中国侵略時の犯罪行為の証拠を探し続けた。

同書の内容はすべて山辺さんの実体験を基にしており、16歳で人民解放軍に入った当時の楽しい記憶や、貴重な成長の日々をつづっている。山辺さんが配属された衛生部隊には、日本人の西洋医もいれば、中国人の漢方医もいた。医学の種類や国籍は違えども、皆互いに仲良く思いやり合いながら、生死を共にする戦友としての絆を結んでいた。山辺さんも、現地の人々が東北民主聯軍(後に中国人民解放軍第四野戦軍に改名)を信頼し、心から支援していることを感じ、「軍と民は家族」という言葉の意味を学んだ。また、「皇軍」と称する日本軍と東北民主連軍との違いを実感したという。

同書のテーマは「平和と友好を願い、未来を開拓する」だ。計16万字からなる同書には、作者およびその所属部隊が当時の人物や情景を撮影した写真が収録され、戦争の苦しみや、大量の毒ガス弾による被害が明らかにされている。

山辺さんは「私は1953年に帰国後、様々な困難に直面するたびに、中国の戦友の言葉を思い出してきた。中国での貴重な経験を思い出し、自分を励ましている」、「日本政府に過去に対する心からの反省を促し、中日関係の発展を促進するため、今後も積極的に活動していきたい。(中日が)互いに理解し合う『家族』となり、友好の伝統が世世代代続くことを願う」と語る。

88歳の山辺さんは、あの時代の自らの歴史を振り返ってどう思うかとの質問に、「中国の革命に参加したこと、青春を中国にささげたことを誇りに思う」と答えた。(編集SN)

「人民網日本語版」2016年6月2日


中国新闻网20160531日籍中国人民解放军战士回忆录出版 祈盼中日友好

中新网哈尔滨5月31日电 (记者 刘锡菊)黑龙江教育出版社31日发布消息,反映日本侵略战争给中日两国人民带来灾难的《难忘一家人——一个日本籍中国人民解放军战士的真实记录》近日出版。该书内容全部以日本籍解放军山边悠喜子亲口讲述和调研的真实经历为依托,再现了那场战争带给人们的伤害,也表达了对反对战争、珍爱和平、祈盼世代友好的期许。

资料显示,曾在中国人民解放战争中,诸多懂技术、有文化的日本籍青年男女及各类人士,加入中国共产党或中国国籍,为中国革命事业浴血奋战。

《难忘一家人——一个日本籍中国人民解放军战士的真实记录》作者山边悠喜子女士1929年生于日本东京,12岁随家人来到中国,16岁参加中国人民解放军,随部队转战南下,24岁回到日本却饱受歧视,退休后频繁往返于中日两国,为日军的侵华罪行寻找证据。

该书内容全部以山边悠喜子亲历为记述内容,讲述了她16岁参加人民解放军及其在其间的快乐、宝贵与增长才干的时光。作者所在的卫生队中既有日本籍西医,也有中国籍中医。大家不分医种、不分国籍,彼此之间相处和谐,相互爱护,结成生死与共的战友情。山边悠喜子也首次体会到了当地人民对东北民主联军(后改为中国人民解放军第四野战军)的信赖和真心支持,从而第一次学会了“军民一家人”这个词,并亲身体会到了那些号称“皇军”的日军与民主联军的差距。

《难忘一家人——一个日本籍中国人民解放军战士的真实记录》主题为“祈盼和平,世代友好,开创未来”。全书16万字,结合作者及其团队拍摄的真实人物及图景照片,再现了那场战争带给人们的苦楚以及遗留的大量毒气弹对人们及其家属造成的巨大伤害。

“我自1953年归国后每每遭遇困难时,都会回想中国战友的话,用在中国的宝贵经历激励自己。”山边悠喜子说,她期待通过自己的积极活动使日本政府真诚反省过去,促进中日关系发展,并期待彼此成为互相理解的“一家人”,世世代代将友好传统发扬下去。

当88岁的山边悠喜子回答如何看待自己的那段历史时,她发自内心的答案是:“现在我为参加了中国革命而骄傲,为青春奉献给了中国而自豪!”(完)


人民網日本語版20140429山邉悠喜子さん 30年以上にわたり「731部隊」の歴史の真相を発掘 人民網日本語版20140429

山邉悠喜子さんは1928年、日本で生まれ、1941年に母親と共に中国に来て、遼寧省本溪鋼鉄公司で働く父親と共に暮らした。日本の敗戦と降伏後、山辺さん一家は訳あって帰国できなかった。同年12月、山辺さんは募集に応じて東北民主聯軍の看護士となり、その後解放軍が本溪から南下して広州へ行くのに伴い、解放戦争の全プロセスを体験した。1953年に日本へ帰国した。

1980年代初め、山辺さんは偶然、関東軍731部隊の歴史について聞き、ショックを受け、この歴史の研究を始め、また「731部隊罪状展実行委員会」を設立し、日本で731部隊の罪状に関する展示を数十回行った。その後、同委員会は日本ABC企画委員会と改称し、山辺さんは副代表に就任。731部隊の罪状遺跡の開発と保護のために多くの活動を行った。(編集YH)


央视新闻20140427日本老人30年挖掘“731部队”历史真相 Video

发布时间:2014年04月27日 08:26 | 进入复兴论坛 | 来源:央视新闻 | 手机看新闻

吉林省档案馆日前公布了89件侵华日军档案(>>>侵华日军档案揭露侵华日军暴行),其中有6件是关于731细菌部队的。“731部队”,是由二战时期侵华日军组成的一支特种部队,残暴地以活人为试验材料,进行细菌及化学武器研究。有一位日本老人,三十多年来始终致力于揭露731部队的罪行。她就是山边悠喜子。

侵华日军“第731部队”遗址,距黑龙江省会哈尔滨市区近一个小时的车程,每年都有大批民众来到这里,学习历史、缅怀同胞。而几乎每一年,都能看到一位老人,颤巍巍地倚着拐杖,神情肃穆,在每件展品前细细观看,不时向工作人员询问或提出建议。一丝不苟别在耳边的银发和不太标准的中文,让她看上去与众不同。工作人员告诉记者,这位老人来自日本,她叫山边悠喜子。

山边悠喜子说,回黑龙江就像回家乡。一年大多数时候不在日本,都是在黑龙江待着。有时候一年得来两三次,最多的时候每个月来一次。

85岁高龄曾长期在中国工作生活

今年85岁高龄的山边悠喜子,小学时随着工程师父亲来到中国东北。日本战败投降后,16岁的她加入东北民主联军,成为随军护士,跟随解放军从本溪一路南下,并结识了她的丈夫——帮助解放军组建空军的日本人山边贤藏,两人在1953年回到日本,与家人团聚。80年代初,已经退休的山边悠喜子再次回到中国,偶然间得知了“731部队”的罪行。

山边悠喜子回忆说,在部队的时候,有一个人说,哈尔滨有一个奇怪的部队,这个意思当时她并没有听懂。在长春的时候,外面有一个墙报,那个墙报里面,有日本作家森村诚一写的《恶魔的饱食》。由于当时中文不好,看不太明白,所以每天看一次。看了以后想,是不是这个“奇怪的部队”,她自己的怀疑越来越扩大了。

边学中文边研究协助调查30多年

正是这个怀疑,让山边开始了对731部队的调查工作。而这一查,就是30多年。1990年,黑龙江省社会科学院决定在吉林、黑龙江、辽宁、宁夏等地详细调查“东北沦陷14年史”,山边悠喜子听说后,马上报名要求参加调查。那时候,山边在黑龙江大学边学中文边研究,跟着四处寻找亲历者,并协助找到731部队的军官和士兵。有被访者告诉山边悠喜子:“石井四郎知道的话,我活不下去了,只能秘密地告诉你。”

在日办展览揭露“731部队”罪行

石井四郎和他创办的731部队的真相,随着一次次采访,在山边的脑中慢慢清晰起来。不过,她并没有满足于此。1993年,山边开始在日本举办“731部队展览会”,向民众介绍731部队为细菌战进行人体实验的罪行。与此同时,她还专门成立了一个机构,在日本举办各种募捐活动,为建设哈尔滨731部队罪行陈列馆筹集资金。但在当时日本的社会环境下,活动进展并不顺利。

整理翻译史料还原历史真相

日复一日,年复一年,山边就这样坚持着。她说,看到日本军队给中国人民带来这么多苦难,自己作为日本人,有责任还原历史真相。如今,山边正在整理搜集到的历史资料,做成回忆录留给女儿,并着手将有关731部队的中文研究著作翻译成日文。


中国档案报20140213让历史真相不再沉默

吉林省档案馆深入挖掘馆藏日军侵华档案为现实服务
作者:柴 丽   来源:《中国档案报》   2014年02月13日

2014年的春节对于吉林省档案馆的同志们来说,具有特殊意味。全馆同志以处室为单位,轮流24小时值守,确保馆藏档案的安全。

就在此前不久,日本首相安倍晋三不顾国际社会强烈反对,罔顾受害国民众的感情,撕破对外承诺,执意孤行参拜靖国神社,吉林省档案馆当即通过新华社、中央电视台等新闻媒体向外界公布了6项侵华日军专题档案,引起社会广泛关注,有力地回击了日本右翼势力妄图抹杀日军侵华战争的侵略性质的企图,对安倍晋三“拜鬼”行径给予强烈谴责。

真实档案不容日右翼抵赖

吉林省档案馆此次对外公布的6项档案分别为:有关南京大屠杀方面的档案、有关在日本靖国神社供奉的甲级战犯罪证、有关证明强征慰安妇是日本政府行为的档案、有关侵华日军和日本企业强征奴役中国劳工并使用童工的档案、有关“731部队”在华暴行档案、有关日军囚禁奴役二战盟军战俘档案。这一组组档案就像一把把匕首,撕破日本右翼势力丑恶嘴脸,又像一支支利箭,射向颠倒是非的始作俑者。

12月26日,当新华社在新华网上推出第一篇南京大屠杀档案的相关报道后,社会震动很大,24小时多一点的时间,网络点击量就达到了448万,被260多个网站相继转载。一时间,讨伐日本右翼势力之声在跟帖中此起彼伏,相关报道也引起中央领导,吉林省委省政府和国家档案局领导的高度关注。

此次公布的档案都是从关东宪兵队司令部档案中选取的,其中不少档案标有“绝密”字样。吉林省档案馆馆长尹怀表示,这部分档案所显示的日军侵华事实还只是冰山一角,大批的档案内容还将会在后续的工作中得以重见天日。1945年日本天皇宣布投降后,关东宪兵队仓惶焚毁档案材料,部分档案材料因苏联红军逼近,未及彻底销毁而被深埋地下。20世纪50年代初,长春建筑施工时发现了这批劫后余生的档案,随即被省公安厅收存整理。1982年,这批档案被转交给吉林省档案馆保存。

吉林省档案馆馆藏日本侵华档案总量近10万卷(件),90%为日文档案,较为全面地记载了1931——1945年间日本对我国东北地区的侵略活动,是目前已知的现存最完整、数量最多的日军侵华档案。这些档案主要包括以下几个方面:关东宪兵队司令部档案、伪满洲中央银行档案、唱片档案、伪满时期新京(今长春)各重要建筑物图纸以及横滨正金银行北京支店及伪满洲国各机构形成的档案。

转变工作思路让档案“发声”

其实,此次及时对外公布档案绝非偶然。由于馆藏日本侵华罪证档案数量庞大,档案基础状况较差,加之其大部分文字为古日文,翻译力量不足,吉林省档案馆接收这批档案进馆后,整理进度十分缓慢。2000年初,建立起案卷级检索工具,2010年完成日本关东宪兵队司令部档案全宗案卷级检索工具。2001年起,吉林省档案馆陆续公布过有关关东宪兵队向“731部队”实施“特别移送”情况的档案,反映“731部队”在新京(长春)、农安进行“防疫”活动的档案以及日伪征用劳工档案史料。2003年,吉林省档案馆和日本日中近现代史研究会、日本ABC企划委员会共同编辑中、日文版《“七三一部队”罪行铁证》,日本学者山边悠喜子称,此书不啻为“向日本右翼势力投掷的一枚重磅炸弹”。

尽管如此,系统全面地翻译整理日军侵华档案还远未提上日程。近年来,日本政府内多名高官竞相发表否认日本殖民和侵略历史罪责的言论,令中国和韩国等受害国民众义愤填膺。新上任的吉林省档案局馆长尹怀与领导班子集体研究决定,改变重保管、轻研究的工作思路,克服一切困难,系统、全面地翻译研究侵华日军档案,让档案“发声”。局馆集中力量,分成9个专题组加紧开展日军侵华历史档案的翻译研究工作,拿出铁的事实,让日本右翼势力无言以对,令世界人民尤其是日本人民彻底认清日军侵华历史真相,揭露日本右翼势力妄图复辟军国主义破坏世界和平的非正义企图。

2012年8月28日,日本时任首相野田佳彦说“强征慰安妇的记载没有看到,也没有日本的证人,所以采用了自称是慰安妇的证言”。吉林省档案局馆长尹怀随即在《中国档案报》发表了题为《侵华日军档案见证强征“慰安妇”的罪证何其多》,列举了6条罪证档案,有力地回击了野田佳彦。尹怀的文章及其工作思路很快得到了国家档案局领导的肯定。经过一年多的努力工作,吉林省档案馆的侵华日军罪证专题研究已经取得阶段性成果,2013年12月19日,他们与新华社进行了沟通。当安倍晋三12月26日参拜靖国神社之际,新华社的采访稿已经准备就绪,一份份日军侵华罪证档案将侵华罪行牢牢地钉在了历史的耻辱柱上。

档案工作责任在肩义无反顾

日军侵华档案的翻译研究实在不是一件轻松的工作。吉林省档案局馆副局馆长、新闻发言人穆占一介绍说,馆藏日军侵华档案不仅为古日文,而且大多为公文体,馆内人才储备不足,资金保障也存在很大缺口,依靠现有力量完成全部翻译工作至少需要70多年。即便是50人的翻译力量,挑重点档案翻译,也至少需要七八年的时间才能全部完成。近两年来,我们每年对外招考两名日语专业的干部,现在馆内已有5名自己的日文翻译。此外,我们还采取与有关单位合作的方式,加紧开展翻译工作。

2012年以来,馆内加大了对历史档案的研究工作,为培养年轻同志研究档案、研究历史的热情,馆里定期举办档案文化沙龙活动,每期一个主题,交流各自的研究成果。

依据馆藏,吉林省档案馆确定了14个专题三大板块(“钩沉”“黎明”“血仇”)的研究。其中,“血仇”板块明确指向侵华日军时期档案,14个研究专题中9个专题属于这一板块。由于资金匮乏,外聘翻译人员所需费用都是从局馆有限的经费中挤出来的。对于参与翻译和研究的工作人员来说,这项工作也是一种精神的折磨,每天面对血淋淋的档案记录,内心的压抑无法排遣。历史档案管理处处长赵玉洁是长期从事日本侵华档案相关工作的档案干部,在最初接触侵华日军档案的那些日日夜夜,经常失眠落泪,研究“731”专题档案的同志甚至一度患上了抑郁症。

尹怀表示,即便如此,我们仍将继续深入挖掘、研究日军侵华罪证,承担起档案人的历史责任。现阶段一是做好深度宣传报道的准备。与国内外媒体配合,更加深入、系统、全面地揭露日军侵华罪行,有力反击、批驳日本右翼言行。二是抓紧做好日军侵华档案的翻译出版。我们将加大人力物力投入,争取用两年时间完成伪满洲中央银行全宗的翻译整理,做好出版工作。此间,根据反击日本右翼言论的需要,有重点地发掘整理日本关东宪兵队司令部档案,保证社会各界对这部分档案的利用需要。鉴于这部分档案曾被日军焚烧和掩埋,损毁严重,我们将在原来抢救保护的基础上,对实体档案再进行保护并开展档案数字化工作,确保这部分档案永续利用。三是深入挖掘档案,举办相关展览,出版书籍,创作出充满正能量的档案文化作品,开展爱国主义教育。目前,我们已与央视、吉视传媒联合筹备拍摄《关东宪兵队档案解密》等系列纪录片,多个展览脚本也已完成,等待适当时机对外展出。

原载于《中国档案报》2014年2月13日 总第2569期 第一版
责任编辑: 段立琳

北京週報201012元人民解放軍兵士―山邉悠喜子さん

山邉悠喜子さんは普通の日本人女性だが、山辺さんと中国、そして中国の軍隊、中国の人々との間には、特別で、そして不思議な関係がある。山辺さんは中国の人民解放軍に加わっていたことがあるからだ。

12歳で海を渡り中国へ

941年、わずか12歳だった山辺さんは母親に連れられ、遼寧省本溪市に住む父親の元へとやってきた。当時山辺さんの父親は本溪にある日本の炭鉱会社で働いていた。中国に来るまで、山辺さんは中国で当時繰り広げられていた抗日戦争についてよく知らなかった。山辺さんはなんと言っても当時わずか12歳で、まだ子供にすぎなかったからだ。中国の地を踏んだ後、周囲でさまざまな出来事が起こり、山辺さんはようやく興味を抱くようになっていった。

山辺さんは日本人が大勢の前で中国人を打ったり罵ったりするのをよく見かけた。ここは中国なのに、日本人はどうしてこんなに威張っているんだろう?中国の労働者はどうしてこんなに貧しいんだろう?どうして日本人は中国人を思うまま打ったり罵ったりするんだろう?山辺さんは次々と湧いてくる疑問に納得のいく答えを出すことができず、父親に聞いてみた。父親の答えはたった一言だった。「彼らが中国人だからだよ」。この答えを聞いて、山辺さんはますます当惑してしまった。納得も理解もできないままに、1945年8月15日を迎えた。

人生を変えた一つの鍋

1945年12月、山辺さんは遼寧省本溪市で東北民主連合軍に加わった。「その年、私はまだ16歳でした」。山辺さんは流暢な中国語で記者に語った。「実を言うと、国民党の軍隊も共産党の軍隊も、どちらも東北の私の家に来ました。ではなぜ私が人民解放軍に加わることにしたかというと、それは料理を作る鍋と関係があるのです……」。

「国民党の軍隊は私の家の前を通る時、母に鍋を借りに来ました。軍隊が立ち去る時には返すという約束でしたが、鍋は壊され、軍隊もそのまま行ってしまいました。その後、共産党の部隊がやって来て、若い兵士が母に鍋を借りに来ました。この兵士の着ていた服はぼろぼろで、鍋はきっと返ってこないだろうと考えた母は、家で一番古い鍋を貸しました。一週間ちょっとして、兵士が鍋を返しに来ました。兵士は『ありがとうございました』と言って踵を返すと、すぐに走り去って行きました。母が鍋蓋を開けて見てみると、鍋の中にはニンジンが3本入っていました。当時の苦しい条件下で、人民解放軍の兵士たちは自分の食糧を切り詰めて私たちに分けてくれたのです。私たち家族はみなとても感動しました。そして父は私にこう言いました。『お前はこういう軍隊に入りなさい!』そうして、私は人民解放軍に加わったのです」。

「当時、戦場の環境は非常に劣悪で、常に生と死の試練に直面せねばなりませんでしたが、戦友たちは苦楽を共にし、共に働き、厚い友情で結ばれていました。眠くなったり疲れたりした時には、『三大紀律八項注意』や『団結は力』などの歌を一緒に歌いました。これらの歌は私を励まし、教え導き、私は革命の道を歩む上で絶えず成長し、進歩することができました。私はもうすぐ80歳になりますが、こうした歌を歌うたびにまるで人民解放軍の軍隊の中にいるような気持ちになります」。

あっと言う間に過ぎた8年の軍隊生活

実のところ、軍隊に入った当初、山辺さんはうまく順応できたわけではなかった。それまで簡単な医療衛生知識を習ったことはあったが、それは書物の上のことにすぎず、「臨床」経験はまったくなかったからだ。すぐに仕事をこなすために、山辺さんは長征に参加したことのある女性看護師長や周りの経験ある医療看護員に教えを請うことにした。自分が身につけた後は、今度は山辺さんが現地の女性たちにそれを教えた。

戦いが終わるたびに、多くの負傷者が出て、病床や医療看護員が不足した。山辺さんたちは負傷者に簡単な包帯の処置をすると、現地の農民の家に負傷者を預けた。実際のところ、農民のほうも豊かだったわけではなく、家にはふとんが一組、横になれるオンドルも一つしかなかったが、農民はそんな中でも負傷者の看護や世話を引き受けてくれた。農民も同じ兵士であり、軍隊の兵士も農民兵士も互いに「兄弟姉妹」と呼び合うような親密な関係だったのだ。農民たちは普段からよく軍隊にやって来て、軍を手伝って掃除をしたり、水を汲んだり、食事の支度をしたりしていた。苦い作業ではあったが、農民たちはとても喜んでいた。同じように、秋の収穫期には、今度は軍隊のほうが農民と一緒に畑に出て、農作業を手伝った。

最初は、山辺さんはこうした状況をとても不思議に思っていた。山辺さんには日本の軍隊を恨む気持ちがあったからだ。中国の軍隊と一般の人々とがなぜこんな風に一つになれるのかが、山辺さんには分からなかった。それがある日、一人で「三大紀律八項注意」を真剣に読んでいるうちに、山辺さんは突然そのわけが分かったのだ。軍隊の幹部はよくこんなふうに訓戒を与えていた。「我々の軍隊はとても小さく、民衆の助けがなければ何も出来ず、戦いにも勝利することはできない。民衆が望まないことをし、三大紀律に反したら、非常に厳しい処分を受けることになる」。この時、山辺さんはあの時の兵士がなぜきれいに洗った鍋を返すことができたのかがようやく分かったのだった。

解放戦争が始まると、山辺さんは軍隊とともに移動した。山辺さんが所属していた軍隊は本溪から広州へと向かった。途中、山辺さんは中国の農民を始めとする一般民衆がどれほど人民解放軍を支持しているのかをその目で目撃した。軍隊が行くところではどこでも、山辺さんは熱烈な歓迎を受けた。もともとは数カ月で家に帰れると思っていたが、軍隊では十分に食べることもでき、生活も楽しかったので、時間はあっという間に過ぎていった。中国が解放された後、上層部はようやく山辺さんたちを復員させることにした。1953年3月、8年間もの間中国の軍隊に加わっていた山辺さんは、ようやく日本へと向かう船に乗ったのだった。

帰国後も中日民間友好交流を推進

日本に帰った後、山辺さんは中国での経験を忘れることはなかった。それどころか、山辺さんはこの特殊な経歴の一こま一こまをしばしば思い出した。かつて、山辺さんは日本の侵略者が中国の人々に対して行ったひどい犯罪行為を実際にその目で目撃した。日本は戦争に負けたが、戦争が遺した問題はその後長い間解決されず、日本国内でこの歴史の真相を知る人は多くはなかった。そこで山辺さんは仕事を辞め、あちこちをまわって資料を集め、抗日戦争期の中国人捕虜強制労働の問題、日本が中国に遺棄した化学兵器の問題、細菌戦問題や慰安婦問題についての研究に没頭した。数十年にわたって、山辺さんは疲れを知ることなく、日本各地を奔走し、日本の人々に向かって歴史の真相を伝え続けた。

後に、山辺さんは仲間と一緒に「731軍隊展示実行委員会」を設立し、現在までに日本で日本軍731部隊犯罪行為の展示を数十回行っている。また、山辺さんは『日本の中国侵略と毒ガス兵器』などの本を翻訳し、日本人に中国人の被った損害について伝えている。

山辺さんは記者にこう語った。「私を育ててくれたのは中国です。中国の発展のために役立つことをするのは、私の望みでもあるのです」。

「北京週報日本語版」2010年12月


光明日报20041204山边悠喜子与日军毒气弹索赔案

こちらの記事は、山邉さまご本人からの指摘があり、事実と異なるとのことです。調査中ですので、こちらの記事を複写しないで下さい。

1922年に私の父が開拓団で、山田某と出合って私が2歳の時……何とすべてが全く私とは関係が無い作品です。勝手に物語を作成するのは同姓同名者がいるのでしょうか?どこから持ってこられた文章か質問できますか? 山邉(2015/02/21 16:40)

在中国长大成人的山边悠喜子,归国后,维护和平正义,抨击侵略战争,鼎力支持中国战争受害者起诉日军遗弃毒气弹伤害索赔的跨国诉讼第一案,支持他们与日本政府对簿公堂,讨要公道,为维护世界和平谱写了一曲正义之歌。

2002年9月27日,新华

社北京报道:“9月5日至27日,应中方要求,日本政府派出以日本内阁府处理遗弃化学武器担当室室长岩谷滋雄为团长的挖掘作业团,在黑龙江省孙吴县进行了日本遗弃化学武器的挖掘回收作业。”据悉,这次挖掘作业共挖出467枚炮弹,其中化学炮弹193枚,另外还挖出日本桶装毒剂4桶,净重306.5公斤,毒烟筒154个,清理被污染土壤等1.8吨。

上述日本遗弃化学武器及污染物经密封包装后将运至专门设施存放,待日后由日方负责统一销毁。中方也派出以外交部处理日本遗弃在华化学武器问题办公室主任滕安军为团长的中方协助团,前往现场协助日方作业。

孙吴县曾是侵华日军的驻守重镇之一,最多时驻军达8万余人。日本战败时将大量化学武器遗弃在孙吴。1954年,孙吴县政府将发现的日本遗弃武器收集后集中掩埋在孙吴北山。

经中方推动,日方同意2002年9月实施挖掘回收作业,并分别于2002年4月7日派团来华进行相关准备。中日双方还事先制定了周密的挖掘计划和方案,并采取了必要的安全措施,确保本次挖掘作业的安全。

经中日双方努力,两国政府在1999年7月就签署了《关于销毁中国境内日本遗弃大量化学武器的备忘录》,日方在《备忘录》中承认在中国遗弃了大量化学武器,并承诺要履行《禁止化学武器公约》的销毁义务。目前,两国政府有关部门正根据《备忘录》的精神,就如何尽快销毁日本遗弃在华化学武器的具体事宜进行磋商。本次挖掘作业是在启动销毁作业前为减少日本遗弃化学武器对当地人民群众生命安全和生态环境的威胁而采取的一种临时性安全措施。

这条讯息传到日本列岛后,73岁的日本老人山边悠喜子脸上露出欣慰的笑容。在中国经历过日本侵华战争的山边悠喜子,战后50多年来矢志投身和平反战事业,频繁往来于日中两国,在揭露日本731部队滔天罪行的同时,倾情关注遗弃化学武器在战后给中国平民造成的一系列灾难,鼎力帮助中国受害者起诉日军遗弃化学武器伤害案的跨国诉讼,并在东京开庭。

山边悠喜子女士为什么要把毕生精力投入到艰难的反战事业中去,从而成为日中友好的和平使者,这要从她的人生足迹中寻找答案……

悠喜子的中国情结

1922年,列宁领导的苏维埃政府把日俄战争后仍驻留在远东的日本军队赶出了海参崴。这批日本军队以“过路”和“短期借驻”为名,在中国黑龙江、吉林地方政府猝不及防的情况下,强行进入东宁县三岔口镇,并马上派遣了一些化装成江湖医生的日本特务,把中国东北三省情况调查得一清二楚。为了最终侵占中国东北这片广袤的沃土,日本政府派遣了数千个以“垦荒”为名的准军事组织“日本开拓团”,为后来的侵华战争抢滩东北。

悠喜子的父亲,一个日本农家青年山田一夫也被征为开拓团成员,来到中国。悠喜子两岁的时候,1931年9月18日,日本悍然发动了震惊中外的“九一八事变”,侵占了中国东北三省。

在侵华战争炮火硝烟中,在中国生活、长大的悠喜子,继承了农民父亲纯朴善良的天性。她睁大稚气的双眼,惊异地注视着自己周围的变化。日军为什么把勤劳朴实的中国邻居,驱逐出村庄?一起玩耍的小朋友为什么不断的因冻饿而死,昨天还是这块土地上的主人们为何一夜之间成了日本人的奴隶?

在具有正义感的父亲山田一夫的感染、教育下,悠喜子逐渐明白了自己国家的军队是一支以强凌弱的侵略军,他们在中国犯下了不可饶恕的罪行。

1945年夏季,日本军国主义在中国军民和世界反法西斯力量强有力的打击下,溃不成军,节节败退,日本开拓团成员也如惊弓之鸟,四散奔逃。8月15日,日本天皇宣告投降。悠喜子时年16岁,善良的中国乡亲收留了这个已是无处可归的日本小姑娘。

这期间,她体验到饱经日本侵略者铁蹄蹂躏的中国农民所给予她的不计前嫌、关爱有加的呵护。而与日军浴血奋战过的八路军进驻城乡后,知道她是一个日本女孩,把她送进中国学校,希望她长大后成为日中友好使者。两年后,长大成人的山边悠喜子毅然决然地参加了中国人民解放军,成为第四野战军的医护战士。

在炮火硝烟中征战的人民军队对于悠喜子来说,是一座人生的熔炉。在中国军人为争取和平而英勇牺牲的斗争精神熏陶下,悠喜子成为一个勇敢的女兵。

经过了六年的部队生活,1953年退伍复员的悠喜子与日本亲属互通讯息,在祖父母恳求下,她准备回到祖国和亲人中间去。但是哺育过悠喜子长大成人的中国土地,已经成为她的精神家园。在同学和战友当中,她留有无法割舍的中国情结。

1953年夏天,与日本列岛一衣带水、隔海相望的大连港口上人头攒动。此刻,成千上万的中国人要在这里,在当年日本侵略军向中国运送军队和给养的地方,欢送战后与山边悠喜子有着相似人生经历和感受的第一批日本归国者,回到他们的亲人中间去。

在这分手的时刻,悠喜子的战友和同学们、幼年时一起长大的朋友们从四面八方赶来了。他们要为一个在中国人民解放事业中做过贡献,为建立新中国洒下汗水的日本姑娘送行,为一个回归故园,可能将永远不会回来的战友送行。

汽笛长鸣,满载日本归国者的巨轮启航离岸。望着抚养呵护过自己的中国亲人和生死与共的军营战友,望着渐渐远去的城市、原野,悠喜子拭去了夺眶而出的热泪。她决心将自己的生命与这块热土紧密联系起来,把一生的精力都投入到反对战争、维护和平的日中友好事业中去。悠喜子面对波涛汹涌的大海起誓,确认了自己的人生定位。

维护正义的反战斗士

1953年秋,有着特殊履历的悠喜子由于汉语水平较高,在东京日中友好协会里找到一份文职工作,她以干练敏捷的军人作风,迅速进入角色。当时,日本反华情绪比较浓重,在反动势力影响下,日本国民对于该国政府在二战当中应负的历史责任一无所知,更不用说对日军侵略罪行的情况有所了解。

日本政府用删改教科书等方法抹杀侵华日军的侵略罪行,日本内阁政要公开参拜靖国神社、吊唁日本战犯亡灵,为复活日本军国主义打气、招魂,顽固不化的军国主义分子每年都要举行集会、活动,至死不改的军国主义分子剖腹自杀事件时有发生。

怎样打破坚冰,驱散萦绕在日本国民心头的迷雾,把日中友好事业开展起来呢?悠喜子在协会里提出了有针对性的措施,坚持不懈地收集、调查日军侵华罪行的一切有关资料,举办有关实物图片的反战题材展览,举办日本归国者恳谈会、战争受害者声援会、反战演讲,播放反战电影、幻灯片,与日本在野党反战组织联手举办反战活动,与进步媒体联手加大反战和日中友好舆论宣传力度……通过这些活动形式,促使一切和平、民主、正义的力量在反对战争、日中友好的旗帜下团结起来。

这些内容广泛、形式多样的活动在今天这样高科技的信息时代里,可能是简便易行的,然而在40多年以前,开展内容这样丰富、覆盖面这样广阔的政治活动,不知需要多少人的心血和精力。在当时只有五六个专职人员的日中友好协会里,悠喜子自然而然成为做实际工作的担纲领衔人物和中坚力量。她四处奔走,用热心支持者的募捐,寻找并租借廉价、便于组织活动的集会场馆;她努力说服一些报馆,为日中友好协会刊登免费公益广告;她到处打听经历相似、见解相近的日本归国者,并制作名录把大家组织起来,参加和平反战活动;深更半夜,她还赶写过无数演讲、宣传稿件。因而,她以“和平使者”之称,享誉主流社会。

20世纪70年代初,日本首相田中角荣勇敢地掀开了日中友好的历史新篇章。这一重大举措的实现,其中蕴含着山边悠喜子等一批具有远见卓识政治头脑的日中友好人士战后近30年的努力。已经成为日中友好协会重要成员的悠喜子意识到,协会的工作任重道远,还有许多深入具体、无可替代的工作需要具有献身精神的人来做。为此,悠喜子渡过日本海,来到阔别20多年的中国。

调查“731 ”罪行,关注遗弃生化武器重案

实现日中邦交正常化之后,日本社会上的反华势力并没有烟消云散。日本政界要人、政府高官仍不顾中国和亚洲各国人民的谴责,经常去参拜靖国神社;删改教科书问题始终没有解决,日本官方媒体一直对民众遮掩着日本军国主义的侵略史实。更为严峻的是,随着科技的迅速发展,日本成为20世纪末举足轻重的世界经济强国之后,日本军国主义思潮不时以民族主义面目出现,威胁影响亚太地区的稳定和安全。而此时,成为日中友好协会领导成员之一的悠喜子来到了中国,目的是调查日军侵略罪行,她要用铁的事实为历史作证。

20世纪80年代在哈尔滨惊现日军731细菌部队罪行后,悠喜子迅速赶到“731”遗址,对当年日军残酷杀害战俘的滔天罪行进行了认真调查取证。为取得第一手资料,让事实说话,她走访幸存者,录制拍摄了大量的音像资料,并将调查情况归档立卷,成立了“731部队遗址登录目指会事物局”,悠喜子亲自出任局长,负责向日本和全世界揭露731部队历史罪行的宣传工作。

731部队罪行曝光于世后,悠喜子在调查中进一步发现,日本军队遗弃的化学毒剂武器在战后仍然不时造成中国平民伤亡的事件。

随着悠喜子的关注和调查,侵华日军遗弃炸弹和生化武器危害中国平民的信息从四面八方接踵而至。

1974年10月,黑龙江航道工程处红旗9号轮在江港清淤时,吸上一颗毒弹。毒气泄露后,32名船员中毒。船员肖庆武因伤势过重,并发骨癌,死时除脚后跟外,两只脚掌全部烂掉,惨不忍睹。

1982年夏天,在牡丹江市光华街工地上发生一起日军遗弃毒气弹泄露伤人案。更令人震惊的是:这枚毒气弹泄露伤人后,随之又挖出三枚毒气弹。

1995年春季的一天,黑龙江省双城市周家镇东新村一声巨响,一颗当年日军遗弃的炸弹炸了,当场炸死一个村民,另一个村民也不治身亡。炸弹事件激怒了房前屋后、田间地头埋有日军遗留炸弹的村民,他们悲愤地质问:“死者留下孤儿寡母,伤者成为终生残疾,这事儿谁管?”

“炸弹村”村民的泣血追问,激起悠喜子的义愤,她把调查焦点对准侵华日军遗弃炸弹和生化武器危害中国平民案,准备以更翔实更具体的案例唤醒对于侵华战争不甚了解的日本青年一代。通过综合分析,悠喜子揭示出一个令人发指的史实:日军遗弃炸弹毒气弹的场所不是一处,而是多处,不是零星,而是批量。日军仓皇撤兵后,大约有70万枚化学武器弃留在中国,战后约有2000多个中国平民受到化学毒气和炸弹的伤害。

面对这血淋淋的事实,悠喜子义愤填膺,决心协助中国受害者向日本政府讨要公道。

1995年7月,悠喜子为参加二战50周年纪念活动再次来到哈尔滨。她想利用这次访华,找到“牡丹江毒气案”受害幸存者,与他们建立联系,取得更为翔实、确凿的资料,以更有力的支持并帮助他们以法律手段和途径,维护自己的尊严和权益。进而对采取“鸵鸟政策”,企图回避、逃脱历史罪责的日本当局形成压力,促使日本政府正视并解决日军遗弃毒气弹这一严酷的历史遗留问题。

在哈尔滨“731纪念馆”的帮助下,悠喜子终于找到了牡丹江毒气案幸存者仲江。年届40的仲江20岁时,在建设工地施工时遭遇日军遗弃毒气弹的伤害。悠喜子早就接触过相关案例资料,对于这个深受毒气弹残害而被葬送宝贵青春和人生幸福的年轻人十分同情与关注。当她得知仲江孑然一身,独居在简陋寓所,依靠单位和亲友资助艰难度日时,抑制不住同情和悲愤的热泪。在悠喜子帮助下,中日律师向仲江伸出援手,将他作为日军遗弃化学武器受害者跨国诉讼第一案的原告第一人,为此案东渡日本,出庭作证。

鼎力帮助仲江东瀛打官司

2002年初春,仲江飞抵日本东京,受到满头银发、年逾七旬的悠喜子等日中友好人士和律师的迎接。

“仲江儿,你有什么顾虑吗?”

面对老人的发问,仲江坦然作答:“为了给历史作证,这一时刻,我足足等了20年!”悠喜子又何尝不是如此。为了维护和平发展日中友谊,她孜孜不倦地奋斗了半个世纪,坚定不移地实践着年轻时的人生诺言:用毕生精力反对战争,维护和平。

为了保证牡丹江毒气案顺利进入庭审的诉辩交锋实质阶段,悠喜子积极参与各项准备工作。她协助律师与仲江深入研究拟定陈述提纲,给仲江介绍日本司法情况,帮助仲江进入良好的起诉状态。同时,悠喜子组织日中友协的同事们在东京举办了毒气受害者照片展,反战声援会,日本各在野党接见仲江活动,社团组织听证会,记者招待会和与中国下一代及受害者通信活动。

通过这些活动,大批对二战历史情况迷茫无知的日本民众受到震动、教育,许多四五十岁的中年人握着仲江的手说:“听了你的叙述,我们才知道日本军队在中国做了那么多坏事。”许多参加听证的日本人说:“应该由政府出面担责认错,给予赔偿。”一名18岁的青年学生给中国受害者子女写信说:“我希望通过这些活动把战争真相告知日本民众。”

在悠喜子的支持下,这些活动,为战后第一起日本遗弃毒气弹诉讼案的开庭和成功作证,添加了不可或缺的砝码。

2002年2月4日,日本东京都地方法院开庭审理首例日军遗弃毒气弹战后伤害中国平民的跨国索赔诉讼案。

当天下午东京时间13点左右,全日本媒体聚焦东京都法院直视中国原告仲江。在悠喜子关切的目光下,仲江表情刚毅、坦荡无畏地走进法院审判大厅。

13点30分,身着黑色法袍的日本法官敲响法槌,宣布开庭。仲江作为原告证人,陈述了自己的受害过程。

1982年春天,年仅20岁的牡丹江工程处职员仲江在牡丹江市光华街监督管道施工时,发现了民工挖出的日制毒气弹。毒气突泄后,灼伤了仲江等五名中国员工的脸部和肢体。在此后漫长的20年当中,他们被反复发作的伤痛折磨不堪,有的死在辗转求医的路上,有的瘫痪在病榻上,常年遭受贫困和伤痛的双重折磨。仲江每年春秋季都因中枢神经痛疼和昏迷而住进医院。

庭审当中,主审法官问:“仲江先生,你作为本案原告第一出庭人,对被告人有何要求?”仲江沉稳而坚定地回答:“我们要求被告首先要向原告赔礼道歉,向受害的中国人民谢罪,同时要足额赔偿我们的经济损失。中国公民的人权不容漠视!”仲江铿锵有力的回答,语惊四座。在旁听席上的山边悠喜子禁不住流下热泪。这宗间隔20年、筹备达8年之久的跨国诉讼案,其中蕴含着悠喜子多少心血与企盼!她作为反战斗士,决不是为功利所驱使,多年来,她用自己数十万日元稿费资助过仲江等一批战后中国受害者养伤,度日。悠喜子想借此回报自己少年时代所得到的中国人民的恩泽。

庭审继续进行

由日本法务省检察厅组成的七人应诉团是日本政府最权威的法律顾问,其成员均为日本法国际法专家。战后,特别是近年来他们一直代理日本政府参与国际民事行政诉讼,其中一位叫敏子的中年女士,是顶尖级法学专家。敏子面对原告的血泪控诉,没有理由和任何依据进行辩驳。敏子和应诉团成员一一过目完所有书证,均一言不发。法官进一步询问后,宣布:“所有问题,被告代理人均不发表任何疑义。”敏子这种异常表现,实际上默认了原告的起诉无懈可击。日军遗弃毒气炸弹战后残害中国平民的事实成立。

接着,法官询问了仲江个人收入及伤残后遭受直接与间接损失的有关情况。这宗以仲江作为原告出庭证人的跨国诉讼案,是由发生在佳木斯、牡丹江等地七起案件的18名受害者向日本法院提起的集体诉讼。原告向法院提出的关于经济和精神损失方面的诉讼请求是向每个原告赔偿130万元人民币,折合3.6亿日元。

法官听取了仲江陈述和代理律师发言后,由于被告代理人未作当庭辩诉,法官宣布休庭。应诉团长敏子夹起提包,面无血色走出审判厅,其他成员则拖着沉重的脚步有气无力地跟了出去。悠喜子抑制不住内心的激动,与原告代理律师团成员涌上法院三楼会议厅,出席了有法学界和共同社、记者参加的媒体记者招待会。与会者认为此案审理的首要意义在于:使更多的日本平民知道了这样一个严酷的事实,即除了劳工、慰安妇等战时受害群体外,还有相当一部分中国平民,在战后和平时期继续受到日军遗弃化学武器和炸弹的伤害与威胁。更让人揪心的是,迄今为止隐患仍然存在,责任尚需日本政府出面承担。

当晚,东京一电视媒体评述:“与以往的劳工、慰安妇索赔案相比,日军遗弃化学武器战后致死致残人命,是更惨重更危险的事件,谁知道至今仍埋藏在地下的魔鬼什么时候还会再蹦出来呢?”而这正是悠喜子要告诉广大日本民众的。

悠喜子看到自己多年矢志不渝的反战活动引起社会反响,脸上露出欣慰的笑容。尽管此案将会再度开庭审理,但是结局应当朝着有利于原告的一面发展。

而仲江则表示:“我将义无反顾地将这场官司打下去,中国公民的尊严和人权不容漠视!”

尾声

年逾古稀而壮心不已的反战斗士山边悠喜子深知,尽管实现正义与和平的道路仍然曲折漫长,但是,只要矢志不渝地奋斗下去,这项崇高而伟大的事业就一定能成功。现在悠喜子除参加百忙的社会活动之外,她长夜秉烛,笔耕不辍,译著了大量反战与和平主题的著述,以此留给人们去阅读、思考。在日中友好人士的行列中,担任“731”遗址登录目指会事物局长、《中国归回者》季刊编委、ABC企事委员会副代表的山边悠喜子女士,仍然精神矍铄地走在前头。

作证东京的仲江即将飞回祖国的时刻,悠喜子把自己翻译的揭露日军遗弃化学武器的史料著作赠送给他,并语重心长地说:“仲江儿,我永远和你在一起!”