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通信の発刊にあたりて

『日本・アラブ通信(Japan-Arab News)』は、読者とアラブを結ぶ 新しい総合通信です。

現在、アラブ18ヶ国が日本に大使館を置き、活発な外交関係を 築いています。また、多くのアラブの人々が日本の各界で活躍しています。

本『通信』は、これらの人々との心と心の交流の場でもあります。 日本とアラブの「心の架け橋」(ハート・ロード)、これが、本『通 信』 の目的です。 アラブに関する各分野の専門家の協力を得ながら、 悠久の歴史に育まれた豊かなアラブの文化・芸術の紹介はもちろんのこと、技術協力、日本の関係など豊富なアラブに関する 情報源としての役割も果たしていきたいと存じます。

また、日本の身近な場所で展開されている様々なイベントなど “耳寄りな話”も満載する予定です。 お気軽に、ご意見、ご要望をお寄せ下さいますよう、またぜひ皆様からの積極的な情報の提供もお願いいたします。

阿部政雄



阿部 政雄
「日本・アラブ通信」編集長、日本ペンクラブ国際委員

◆生年月日 1928年(昭和3年)5月25日生

◆学歴 南山大学英文学科中退

◆職歴
1954年から3年間、平凡社創業者の下中弥三郎氏の下で、『インド友の会』の事務局を担当。
1960年、駐日エジプト大使館文化部に5年、アラブ連盟東京代表部に7年、外部から約13年間勤務、協力。
1985年頃から、イラク大使館はじめ、エジプトその他のアラブ大使館の仕事に従事、また25年間東海大学国際学科で「中東地域研究」の講師を務める。
1999年3月、東海大学を定年退職。
1955年に開かれたバンドン会議の頃より、アジア・アフリカ諸国に関心を持つ。

1958年1月1日カイロで開かれたアジア・アフリカ諸国民会議の終了日アブディン宮殿にて 左から1人置いて阿部、サダト国民議会議長、ナセル大統領

1957年末にカイロでの国際会議参加以来、専らアラブ諸国との提携の仕事に携わる。 これまでに、国際的な文化行事やテレビ取材等でエジプトはじめモロッコ、アルジェリア、チュニジア、レバノン、シリア、ヨルダン、イラクなど、主要12か国を計47回訪問。 「ツタンカ-メン展」をはじめアラブ諸国の映画、音楽、民俗舞踊などの紹介に先駆的な役割を果 たして来た。 音楽の分野では、 1965年初頭の古賀政男氏のカイロ訪問の折エジプトの大作曲家アブデル・ワハ-ブ氏との会見を斡旋。

1975年5月に、古賀氏より依頼を受け、代々木上原の古賀邸にて七人のアラブ大使夫妻を招き、代表的な日本音楽家による100人の大パ-ティを開催の実現に努めた。 韓国メロディーについでアラブメロディーが好きだった古賀氏はその年の秋、エジプトの首都カイロに明大マンドリン倶楽部を伴い、日本の歌謡紹介の公演を行なうことを計画、大使からも協力の約束を得ていたが、残念ながら、この計画は氏が病に倒れたため実現できなかった。

1974年5月古賀政男邸でアラブ大使たちを前に三味線の弾き語りを披露する古賀先生とその横で通 訳する阿部。松田善三氏、高峰秀子氏、池田弥三朗氏らの顔が見える。

◆著書
『アラブパワ-は世界を動かす』(講談社:1993年,全国学校図書館協会推薦図書)
『アラブ案内』(グラフ社:1980年)
『アラブ世界-その魅力を探る』(保育社カラ-ブック:1973年)
『パレスチナ問題』PLO研究センタ-編(亜紀書房:1974年)
『高校用視聴覚教材-アラブ世界』第3巻(光和スライド社:1983年)
 現在、『エジプト百一夜』を執筆中

◆趣味
日本の歌謡戦時中から、日本の歌謡を歌っていたことから、カラオケは十数年選手。『花王名人劇場』で素人名人として書生節を歌ったこともあり、アラブのフスティバルで、大学帽を被り、袴をはき、高下駄 姿で中山晋平、古賀メロディ-を2000人の聴衆の前で歌った。

1994年イラクのハトラ国際音楽フェスティバルで大正演歌を歌う。

現在、アラブをテーマにした日本の曲の発掘。1997年初頭には、自らの作詞に友人いづみたく氏の作曲による「カラオケソング(原名:カラオケ-晴舞台)や、「モロヘイヤの歌」などを作詞し、CDも発行。

今後、アラブ諸国への日本の歌謡の紹介とアラブ音楽の日本への紹介を計画している。活弁綾瀬の無声映画鑑賞会に約4年通 い、故松田春翠氏から学び、『月形半平太』『ジゴマ』『坂本竜馬』などを説明したことがあった。

●大道芸 大道芸研究会に約3年参加したが、特に亀戸の桜井敏雄師匠のお宅には、よく遊びに行き、多くの大正演歌や書生節を学んだ。

●朗読 下北沢にある放送教育アセンタ-(山内雅人氏主宰)には、三年通 い、朗読を勉強。その他、講談界とも長い付き合いあり。 以上カラオケから朗読に至るまでの修練は、徳川夢声の『教師たるもの話の玄人たるべし』の教えにもとずくもので、日本でアラブの物語を講談、朗読界に働きかけたいと言うのが夢。また自身がアラブの英雄譚や民話を語りたいと考えている。アラブ諸国との話芸の交流が夢である。

◆これから 以上のようにアラブ諸国(出来れば世界諸国)との歌謡、民俗芸能、大衆文学、映画、ドキュメンタリ-等の交流を促進して、日本とこれら諸国の相互理解、親善に努めたい。また、少しづつ、文化、芸術面 での共同製作の可能性を探って行きたい。また、日本がアラブ諸国に果 たす役割の中で、技術移転の問題は重要課題なので、東海大学をはじめ、筑波学園都市の教授、専門家と協力しながら、この問題を具体的にすすめる。

◆『アラブパワ-は世界を動かす』(1993年、講談社)の出版記念パ-ティー

出版記念パーティで祝いの挨拶を終えた三鬼先生の手をとる阿部

1993年11月24日、霞が関ビルの東海大学校友会館で、エジプト、レバノン、アルジェリア大使はじめアラブ外交団7カ国の代表の参加を得、下記の方々の発起人により、約130名の有力者の参加を得て開くことが出来たことは本人にとって大きな励まし、一つの記念碑となった。

【資料】
出版記念パーティ 発起人代表 三鬼陽之助 尾崎秀樹

発起人  江上波夫、江間章子、大鷹淑子、加藤武子、神田山陽、河村幸次郎、木下恵介、小島貞二、小堀 巌、早乙女貢、志賀信夫、園田天光光、田井重治、高野悦子、丹野 郁、堤 清二、中山善郎、奈良本辰也、野間佐和子、平山郁夫、 星野哲郎、本田安次、松前達郎、松山樹子、三木睦子、武者小路公秀、牟田口義郎、渡辺義雄 (アイウエオ順)

世話人 高橋千劔破、倉持哲夫


・・何故小生が、アラブの仕事を45年つづけてきたのか・・

序文
この度、<感性時代のオピ二オン・プラザ>月刊雑誌『默』11月号の特集 『自分 を生き抜く』の中に、「日本に恋したアラブの恋して」という題で、小生が19 4 5年頃からこれまで、アラブ諸国との提携の仕事に従事し続けて来た経歴と、その理 由を書くチャンスを得ました。 (默出版社はTel. 3204ー5301)

決して平坦でなかったこの45年の生涯の中で、アラブ諸国との連帯活動の中で、小 生はひたむきに「アラブを再発見する中で世界に貢献する日本を発見してきたい」 という目標を追求しつづけてきました。

つまり、小生は、素晴らしい伝統文化をもち、新渡戸稲造博士の「武士道」(博士は日本人倫理などから『平民道』と呼称してもいいとも言われている)にも書かれて いる高 い倫理を持っている日本人は、21世紀を迎えんとしている現在、新しい国家的ビジョンを構築して行かねばならないと信じています。  

アラブ諸国の主要諸国を約50回訪れ、エジプトのナセル大統領をはじめ多くのアラ ブの指導者にあう機会をえ、作家、知識人、各ジャンルの第一級の芸術の知己をえた小生はアラブの日本へのメッセージ をできうる限り伝える義務が有ると思っています。

一面、45年かかって、これだけの成果しかなったという思いも心をかすめることも ありますが、その反面、とにかく微力ならが、21世紀にたいして、小生なりに新生 日本のビジョンを作りえたとも信じています。もちろん、まだまだ未完成で、おおく の欠陥 があることはいうまでもありません。長い年月の間、アラブの地域にいて日 本の有るべき姿について、日本人は持てる潜在力が十二分に発揮されていないと言う のが小生の結論です。日本の前途を考える方々から率直なご意見、御叱声を頂し、内 容をより豊かにするために色々教えて頂きたいと存じています。


前置きが長くなってしまったが、以下小生の「日本に恋した、アラブに恋して」を3 回程にわけて紹介させて頂きます。(読者からの感想、批判をお待ちしております。)

月刊雑誌『黙』11月より転写  その一

「日本に恋した、アラブに恋して」

アジア解放に燃えた軍国少年
 

アラブと出合い、関わりをもってから四十五年以上の歳月が流れた。平凡社の創立者、下中弥三郎氏の主催する「世界宗教者会議」の国際部書記として、オスマン・ エベイド駐日エジプト大使にお会いし、その高潔な人柄にエジプトへの開眼をさせら れ、一九五七年末、カイロの「アジア・アフリカ諸国民会議」に日本代表団の通 訳兼 事務局員として参加して、アラブ諸国にみなぎる親日感情の熱気に感動したことがアラブとの出合いであった。

この四十数年の間に、主要なアラブの国十三カ国を訪問すること約五十回に及び、 国内でも、在日エジプト大使館文化部、アラブ連盟東京事務所、イラク大使館その他 の大使館の文化・教育部の仕事を中心にアラブ関連の仕事に従事し続けてきた。

そうしたアラブ一辺倒の仕事に専心してきた私にいちばん多く寄せられる質問は、「あなたはなぜアラブ(発展途上国の意)に関わってきたのですか」という問いである。

その答を端的に言えば、筆者が戦中派のしんがりに属する世代であったからである。ご多分にもれず軍国少年だった私は、「大東亜共栄圏」建設のための「皇道宣撫 班」に憧れていた。といっても皇道宣撫班が実際に日本帝国主義の先兵としてアジア諸国民に対してどんな役割を果 たしたかをまったく知らなかった。その実体を知った のは戦後数年経過してからで、少年時代の私は、あの戦争が「五族共和」「東洋平和」を築く「聖戦」であり、宣撫班とはそのための伝道者と信じていた。

当時の私には国家を疑う批判力などあろうはずがなかったし、「大東亜共栄圏」 の実態がその看板と似ても似つかぬものであったとしても、そこに民族の夢である 「アジア解放」の構想があったことは事実であり、それが正義感に燃える少年の心に 一つの夢として映っていたのである。

大東亜戦争の勃発は、中学一年生の年の暮、昭和十六年(一九四一)十二月八日のことだった。その朝、勇ましい軍艦マーチのあと、「帝国陸海軍は、本八日未明、 西太平洋において米英両国と戦闘状態に入れり」というラジオのアナウンスを「いよいよ来るべきものがきた」という厳粛な気持ちで聞いた。

戦局も厳しくなった昭和十八年、当時、旧制私立名古屋中学校三年生の授業の三 分の一は、高射砲陣地や兵器産業への勤労動員になり、四年生になると学校の授業は全面 的になくなった。  

食糧事情も悪化し、食堂の昼食が塩茹での満州大豆だけということがよくあった。 無性にわびしい気持ちに襲われた私は、ときおりその豆を数えながら食べた。一食分 が百三十五粒位だった。着るものもすぐ穴が開くスフ(人造絹糸)でできていて、おまけに靴までスフという始末。雪中、工場の庭を軍事教練として三八銃を担ぎ、
日本男児と生まれきて
いくさの場に立つからは
名をこそ惜しめつわものよ
散るべき時に潔く散り
皇国にかおれ桜花
と「『戦陣訓」を歌いながら行進したが、破れ靴のため、雪が足に突さすように 痛かったことを四十数年たったいまでも鮮明に覚えている。

また、何十回となく「海征かば」を歌わされた。
海征かば、水ずく屍
山征かば、草むす屍
大君の辺にこそ死なめ、 還り見はせず。
当時、「現人神(あらひとがみ)天皇」のために立派に死ぬ ことが個人にも家族にも名誉とされていた。戦局の急迫につれ、私の周辺から軍隊に応召するものが出はじめた。特別 幹部候補生や予科練への入隊を祝う壮行会が月に一回、二回と、工場の片隅で行なわれ、われわれは二、三十人で円陣を組み、戦闘帽を握りしめて、声も枯れよと軍歌を歌った。

「艶歌より軍歌に悲し戦中派」とも言うべきか、親しかった友も雲流れる果 てに散 り、あるいは軍需工場でアメリカの爆撃機の犠牲となって還らぬ 人となり、いまの高校生の年令であった私も、死との対決を迫られていた。しかし、いかに徹底した軍国 教育を受けても、夢大きな少年にとって「身を鴻毛の軽きに比す」とか「不惜身命」の覚悟を抱くのは生やさしいことではなかった。

必至になって「武士道とは死ぬことと見付けたり」と書かれている『葉隠』を読 んでも、その内容は索漠としたもので「安心立命」どころか、心はいっそう虚ろになるばかりであった。

「狼火(のろし)は上海に上る」と『米英東亜侵略史』

そんな軍国少年だった私がアジアに大きく目を開かせたものに、一本の映画と一 冊の本がある。映画は、日本の敗色が濃くなった昭和十九年に名古屋の映画館で見た日活の「狼火は上海に上る」であった。  

ストーリーは、高杉晋作が長州藩の命を受け、武器購入のために上海に渡航した 事実を柱としたものであったように思う。この映画のストーリーは記憶にほとんど残っ ていず、主役が阪東妻三郎で、物語の背景に中国の太平天国の乱があったことも、二十年ほど前に『日本映画史』(田中純一郎著)の中からつきとめたにすぎない。  

ただ、私にあの戦争は“正義の戦争”であると思いこませ、大袈裟に言えばその後の私の進路に大きな影響を与えたシーンがある。それはイギリスの艦船の中で牛馬 のように働かされていた中国人苦力の姿であった。「大英帝国とは、白人とはなんて 非道な仕打ちをアジア人にしているのか」という義憤が軍国少年だった私の血を熱く したのであった。  

アジアへの開眼を促した本は、大川周明の『米英東亜侵略史』である。A級戦犯の 一人として、軍事法廷で東条英機の頭を打つという奇行で知られる右翼のイデオロー グ大川周明はまたイスラムの研究者で、『コーラン』を完訳した学者でもあった。この本を夢中になって読み、心に強く残ったのは、イギリスやアメリカがアジアの民衆 をどんなに痛みつけたかということ、とくにイギリスのインド民衆への過酷な圧迫・ 収奪ぶりである。    

あんなに感激して読んだこの本の内容をすっかり忘れてしまっていたが、十年ほど前、偶然に神田の青空古本市で見つけ、昔の恋人にあったように嬉しかった。再び読んでみると、漢語の多い難解な本であった。「こんなに難しい本を中学三年のころに 読んだのか」と思ったが、やはり私も中学生なりに、あの戦争の意味を必至になって知ろうとしていたのではないかと思う。    

当時の中学生の夢と言えば陸士(陸軍士官学校)や海兵(海軍兵学校)に入ること だった。勉強こそ自信があった私も、身体に自信がなく、猛訓練で名高い陸士・海兵 は高嶺の花。予科練や特別幹部候補生まで体力の面で門前払いを食らうのが関の山であった。ある日、「あの旗を撃て」という軍国主義映画で、軍属となった中学校の英 語教師がマレー半島で捕虜となったイギリス軍将校を英語で尋問するシーンを見たと き、私は「これだ」と心で叫んだ。身体が頑健でなくても国家に尽す道はある。「英 語の通訳になろう。そうすれば皇道宣撫斑員として立派に国家に奉公できる」と小躍りした。それから小野圭の『英単語集』をポケットに忍ばせ、工場の休憩時間に単語 を記憶した。学校がプロテスタント系のキリスト教学校であったことも大きな助けであった。  

しかしそのころ、中国大陸から一時帰還した人の土産話として、日本将兵の中国 民衆への蛮行・暴虐の限りを聞いた。そのとき、美しい青空が一度に暗黒の黒雲に空に変わり、奈落の底に突き落とされた気持ちに襲われ、前のようなひたむきの軍国少 年でなくなっていた。これは私の心の中での日本の敗戦を知らせるものだった。  

昭和二十年の春、三河湾に来たアメリカの空母から発進した艦載機が、いまの豊田市の山の手に疎開していた工場を空襲し、松林めがけ一目散に逃込むわれわれを追っ かけるように機銃掃射をしてきた。  

私は松の根元にしがみつき、「バリバリ」という樹に弾の当る音を聞き「お母さん、僕は死にたくない!」と震えた。たった一発の弾で人の運命を狂わせてしまう戦争の非情さをいやというほど痛感した。この体験はまさに戦争中に受けた最大の恐怖であり、このごろふと、私はあのとき死んでしまい、いまの自分はその亡霊ではないかと思うことまである。  

広島に新型爆弾が落ちたニュースが伝わってきた蝉時雨のかまびすしい八月の半ば、 日本の全面降伏を告げる天皇の詔勅がラジオから流れてきた。  

終戦後の一、二年は、だれもが一日を生きることに精一杯だった。おそらく、瓦礫の山に立ったほとんどの日本人は、「こんな悲惨な戦争は二度と繰り返すまい。日本が例え、三等国、四等国でもいい。世界の平和や幸福に奉仕する平和国家、文化国家として再出発しよう」という新たな決意を抱いたと思う。

私がいま生きていることは、あの戦争で散った人々が私に「生きろ」と言ってい てくれているような気がしてならない。生き残った自分は、友の霊を慰めるためにも、二度とこのような悲惨な戦争を起してはならないと心に強く誓った。 (次回に続く)


バンドン会議の衝撃とアラブへの目覚め  

戦争体験とともに、私の生き方に大きな影響を与えたのは、一九五五年にインド ネシアのバンドンで開かれ、「国際正義と世界の平和、繁栄に参画しよう」と新興諸 国の声を高らかに宣言したアジア・アフリカ会議であった。この歴史的会議を通 じて、 戦時中私の胸を焦がしていた“昔の恋人”アジアは、国際政治の舞台に大きく登場したのだ。  

二十九カ国の独立国家が参加したこの会議に、日本からは高碕達之助国務相が出 席し、ネール、スカルノ、ナセル、周恩来らアジア・アフリカの指導者と懇談した。 このバンドン会議の原則は「主権尊重」「内政不干渉」「平和共存」「互恵平等」で あり、その宣言は、人類のあるべき指針を表明した格調高いものであった。私はこれ こそ戦時中に憧れた「大東亜共栄圏」の本来あるべき精神だと思った。戦時中日本は 「アジアの解放に貢献する」と言ったが、このバンドン精神を学ぶのはむしろ日本の ほうだと思った。「アジア・アフリカのために働くことこそ、新生日本のために不可 欠」という信念が、私の中で不動の確信へと変わっていった。戦時中に信じていた 「大東亜共栄圏」が虚像に過ぎず、終戦で崩れ去ったのが無念で腹立たしかった。あ の戦争を聖戦と信じて死んだ多くの先輩や級友たちやアジアで死んでいった多くの罪 のない民衆の霊を慰めたいという気持ちが芽生え、生き残った者だからこそ、アジア との真の提携の在り方を追求して行動しようと思い、今日に至ったと言ってもいい。  

一九五四年に上京した私は、下中弥三郎氏のもとで、「インド友の会」の事務局を 担当していた。そして下中氏がその年の秋、安藤正純国務大臣と共に発起人となった 「世界宗教者会議」の国際部員として東京の麻布にあった駐日エジプト大使館を訪れ、 オスマン・エベイド初代大使に同会議の招待状を持参したのがエジプトとの最初の出 合いであった。これは実に幸運な出合いで、ユーモアに富んだ詩人で革命家で外交官 である大使に接し、アラブ人とはこんな立派なのかと、魅了されてしまったのである。  

そのころ、東大イラン・イラク発掘隊のメンバーとして参加し、その後エジプト を訪問して帰国した当時の東大助教授、小掘巌氏から、「アラブ諸国にみなぎる明治 維新以後の日本への憧れは『まだ見ぬフィアンセ』の思慕にも似た感情だった」と聞 き、とても強いインパクトを受けた。  

日本人がアラブ諸国で憧れの対象になっているのが新鮮な驚きであった。が、現地 に足を運ぶにつれてこの親日感情を確信し、エジプトの高官から「われわれアラブ人 は日本に長い間プラトニック・ラブを感じている」という言葉を聞いた。  

西欧の植民地主義の下に呻吟していたアラブが抱いた親日感情の沿源は、極東の 小国日本が西欧の大国ロシアを打負かした日露戦争であり、第二次大戦で日本が英・ 米・仏など西洋の植民地国家と勇敢に戦い、アジアでこれらの軍隊を駆逐したこと。 また大戦後、原爆で壊滅したと思っていた日本が、一九六〇年代から世界の工業大国 として不死鳥のように再登場してきたことに対する賞賛の賜物である。  

日本の軍靴で踏み付けられた経験のないアラブ諸国では、「夜目、遠目、傘の内」のたとえのように、日本のいい面 のみが大写しになったためであろう。いわば、日本 への一種の「英雄待望論」と言ってもいい。  

下中氏のもとで「インド友の会」事務局員としての仕事を続けていた私の関心は、 次第にアラブとの連帯運動に引かれ、その運動に参加するようになった。  そして冒頭に書いたように、一九五七年末カイロで開かれた「アジア・アフリカ 諸国民会議」に日本代表団の事務局員兼通訳として加わることができ、この会議で私 は、それまで世界の片隅に追いやられていたアジア、アフリカの民衆の躍動溢れる姿 であり、植民地主義の軛の下に喘ぐアフリカの民衆の燃える独立への叫びと、イスラ エル建設によって郷土を奪われたパレスチナ人民の戦いなどを目撃した。  

会議の二年後、私は駐日エジプト大使館文化部への勤務を要請され、その後の五年 間、エジプトと日本の文化交流の仕事を手掛けた。一九六三年に朝日新聞主催で開か れた「エジプト美術5000展」や、一九六五年の「ツタンカーメン秘宝展」等を含 む文化交流を担当し、カイロ国際民俗芸能フェスティバルに参加したり、その他、意義ある文化交流のいくつかに携わった。  

また、アラブ連盟東京事務所が開設され、誘いを受けた私は連盟内部に七年勤務 し、外部から十三年助力することとなり、仕事の領域もエジプト一国から、アラブ全 域へと拡がった。  

連盟に働いていた折、「アラブは親日感情のしみ通った大地だ。ここに種を撒き育 てることは、われわれの義務だ」というアラブ連盟駐日代表部副所長で、スーダンの 外交官、アブデル・ラーマン・マーリ氏の言葉に共感を覚えたものである。  

カイロでアラブの人々の親日感情を体験してきた私は、日本とアラブとの親善の 「種撒く人」、「友情の懸け橋」という役割を果たすことに私なりのロマンを感じ、 やり甲斐のある仕事だと自覚するようになった。アジア、アフリカは戦時中の旧制中 学校時代の恋人だったし、戦時中に勉強した英語が役にたったことも嬉しかった。  

そして、アラブ側からサデーク(心の友)という称号を得て、「アベは“ハート” でわれわれのために働いてくれる」と評価してくれた。しかし、私はアラブのために 働いたという意識より、日本の将来のため、アラブ諸国のために働こうと決意した。「アラブのために働くのは日本の国益」という私の主張は、アラブ側から信頼をうる所以となった。  

アラブ諸国を訪問するにつれ、人類文明の搖藍地であるこの地域の歴史の奥深さ を痛感し、同時にヨーロッパ、アジア、アフリカの結節点という戦略地位 と、豊富な 石油資源に恵まれたことが仇となって、大国の干渉により動乱果 てしない「世界の火 薬庫」になっていることも理解した。  

イランイラク戦争が始まって間もない一九八二年初頭、バグダードの公園に十五、 六才のイランの少年捕虜を見た。イラクとの戦争を“聖戦”と信じて「アラー、アク バル(神は偉大なり)」と唱える青年の姿に私は戦時中の軍国少年の姿を見る思いが して愕然とした。戦争の最大の悲劇は、「自分の運命が他人の力で簡単に決められて しまう」ことと、互いに罪のない者同士が戦わされることである。(次回完了)

相互理解のためのダイレクトな交流を
 
一九七三年のオイルショックの後、中東地域のへ関心も高まり、東海大学から 「中東研究」という講座をもって欲しいという要請を受けた。東海大学での講師は、 昨年退職するまで二十五年続いたが、若い学生と接するこの仕事は私にとってメッセ ンジャーとして成長する貴重な経験となった。もちろんこれからもメッセンジャーと して、一般の人々に中東、アラブのさまざまな問題を伝えていきたい。  

不幸にして、世界には戦争とか、民族的抗争があまりに頻繁に起こっている。しかしその多くの軋轢は、戦う相手の国民に対する貧弱な認識と誤解から起きる。ときに は敵愾心をあおるマスメディアの情報操作すら感じることさえある。  

もちろん、アラブが恋人といっても「あばたもエクボ」式にほれているのではない。 極端な貧富の差、高級官僚の腐敗など、胸の痛くなるような現実もある。しかし、欧米諸国はそれを是正しているのかという、むしろアラブの民主的発展、経済的自立を 妨げているのは、これら旧植民地国家なのである。  

国際社会に対処する定見もなく、次世代の国民の幸福までを犠牲にしている政治指 導者の数では日本こそ世界有数の大国である。  

中東アラブ地域は重要地域と言われるのとは反比例して、最も知られていない地域でもある。それは、この地域が長い間西欧植民地国家が囲み込んだ縄張りで、また 潜在的に親日的な土壌をもつため、日本の進出を好まない勢力が存在するからである。 西欧のマスメディアは、この地域のごたごたや後進性に力を入れて報道しても、その 実情を正しく知らせる努力を払ってこなかった。そういう意味では日本のマスコミの 方が比較的客観的と言える。しかし、まだまだその情報量は圧倒的に少ない。  

正直言って私はアラブに限らず、諸外国の後進性や、陰の部分に光を当てるジャー ナリズムに否定的である。そんな記事を読むほど閑人ではないし、新渡戸稲造博士の 言うように、「外国を知ることの究極の目的は日本を良くすること」だからだ。  

幸い、アラブ諸国の国民の間で、日本人に対する信頼は今もなお健在である。筆者 は弧の9月下旬にイラクで行われた「バビロン国際音楽祭」に参加した。バグダードを走る自動車の8割は日本製である。何十年走っても、修理さえすれば立派に走る精 巧な自動車を製造する日本人への敬愛をいまでも強めている。逆に、そんな優秀な国 民と長い歴史と文化を持つ日本が、何故アメリカの腰巾着のように従属しているのか、 という日本政府への失望はイラクばかりか、アラブ全体にみなぎっている。  

中東アラブ地域のなにを知るべきか。なによりもまず、この地域に住む人々の暖かい人情である。もちろん、商取り引きでの交渉がタフであることは事実だが、中東 地域特有のホスピタリティは、せちがらい都会の砂漠に住むわれわれにとって心の休まるオアシスなのだ。野心的な為政者を別 にすれば一般庶民は素朴な人情の持ち主なのである。  

文化交流を推進するときに留意すべきは色メガネをつけた欧米のマスメディアだ。 彼らを通さない、アラブ諸国との直接的な文化交流が重要であり、さらに各国が古典や現代ものを問わず、それぞれの国が誇る文化を見せ合うこと。素晴らしい外国の文化と出会い、学び合い、できれば共同して新文化の創造を成し遂げたい。  

第一級の文明と言えば、ピラミッドの古代エジプト文明、世界最古の文学と言われ る古代イラクの英雄叙事詩『ギルガメシュ』、『シヌエの物語』や、『千一夜物語』 ……。さらにアラブ初のノーベル文学賞作家、エジプトのナギーブ・マハフーズ。また、最近東京で行われた「地中海映画祭」で示されたアラブ映画の名作の数々は数えきれない。知られていないのは日本だけである。  

国際交流である以上、一方通行では意味がなく、日本からの発信が大事になる。 よく「日本はその経済プレゼンスは活発であっても、文化は殆ど紹介されていない」 という批判がある。では、アラブに日本はなにを紹介すべきなのか。1965年、エ ジプトのジャーナリストのアニース・マンスール氏は私に、「小さな一個のトランジ スター・ラジオの中に日本文化が炊きこめられている」と言ってくれたが、言外に日本はこうした素晴らしい製品を造り出す文化やその担い手の日本人自身を紹介しないと不満を述べていた。     

潜在力を再認識し、未来像を構築する  

筆者は一九八六年、「朝日新聞」の論壇で「日本版『知恵の館』というべき世界 的翻訳ソフトの一大センターを建設しよう」と提唱し、多くの賛同者を得ることが出来た。この事業を日本の新たな文化産業に発展させることで、「世界に役立つ」とい う日本の使命とともに、日本の潜在能力の発見につながっていくのではないだろうか。  

現在、発展途上国の最大のニーズは、どこの国にとっても人材の養成である。これはアラブ諸国にとっても同様で、そのための教材を必要としている。明治維新以来築いてきた日本のさまざまな教育、例えば専修学校や各種学校のノウハウを組織的に紹介できたら素晴らしいことだろう。アラブ各国がとりわけ求めるものは技術移転だが、これも日本の中小企業の経験をまとめ、持ち込むことで、共存共栄できるのではないかと思う。  

イラン・イラク戦争、湾岸戦争など、幾多の動乱が続いた。また、最近でもパレス チナの争乱があるように、中東地域の平和は常に脅かされている。だが、端的に言えば、こうした紛争の源のほとんどは中東の豊富な石油資源を支配しようとする超大国 が、綿密に練り上げた戦略ーーー地域内の民族や宗教対立をあおり、殺しあわせる 「分割支配」(divide and rule)という常套手段ーーー他ならない。「死の商人」である兵器産業の暗躍もあろう。それを防具為に、相互理解を促進する文化の交流が何より大切なのである。  

私がこれまでアラブとの提携の問題を追求してきたが、すでに書いたように、そ れは「アラブに役立つのは日本のため」であり、二十一世紀の日本の果 たす役割を見定めるためである。  

一九八三年のバグダードで文化人のパーティがあり、イラクの代表的彫刻家、モハ メド・アル・ガーニ氏から「あなたがアラブと付き合う目的は」と聞かれた。「アラブを再発見する中で、世界に貢献できる日本のもつ潜在力を発見したい」と言うと、 彼は即座に「あなたは船乗りシンドバットだ」と言ってくれた。この言葉により、大いにわが意を得た思いがした。  

しかし、いくらいい政策を立案しても、実行しなければ「絵に描いた餅」に過ぎない。アラブに「言葉は雲、行動は雨」という諺があるように、待たれるのは実行で ある。「学問は実行なり」と強調し、自らも実践躬行型の新渡戸博士は「首一つ振れ ば角兵衛、獅子となり」と言われた。思想信条を越え、派閥や党派を超越して、明日 の未来を見据えた「国家百年の大計」が必要とされる。

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