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【第3夜】

エジプト民俗舞踊団の発展―レダ民俗舞踊団、タンヌール舞踊団など―

●民族の心を伝える芸能  民族の心を知る手っとり早い方法は、民俗的習慣・芸能を調べることだといわれる。この点、民俗芸能は、遊牧民 、農村、山岳に住む人々の生活の様々な姿を生き生きと再現してくれる。  

エジプトでも 第5王朝時代の壁画の中に、現代のバレ-ダンスに似た女性の踊りが描れていることからも明らかなように 、ファラオは、舞踊による物語をドラマにまで高めた先駆者と言われる。  

筆者は、1957年末、日本の民俗舞踊運動の先駆者・花柳徳兵衛師匠とエジプトの民俗舞踊を尋ね回ったことがあった。ホテルやナイト・クラブで踊られているオリエンタル・ダンスを除けば、民俗舞踊らしきものは、カイロの女子体育体育専門学校で、古代エジプトの彫刻に残る舞踊の型を基礎にそれを再現しようと振付けたものを女子学生が踊っていたのにすぎなかった。  

このカイロのアジア・アフリカ諸国民会議で、各国代表団の芸術を披露する「芸術の夕べ」が、旧オペラハウスで開かれた。花柳徳兵衛師匠が、坪内消遥作『新曲浦島』の素踊りを、私が舞台の袖で英語の解説したのは懐かしい思い出である。  

エジプトで民俗舞踊が開始されたのは、1956年のスエズ戦争が一段落した頃からであった。1957年にカイロを初めて訪れたとき、長い植民地的立ち遅れを克服し、先進諸国に追いつこうという意気ごみのアラブ諸国にとって、疾風怒濤のように入ってくる西欧文明に押し流されることなく、アラブ固有の国民文化を創造することが急務となっていた。  

1964年のカイロの国際民俗芸能フェスティバルでは、エジプトの代表的舞踊団として、レダ民俗舞踊団とエジプト国立民俗舞踊団の二つの舞踊団が参加した。  

レダ民俗舞踊団が、マフムード・レダやファリ-ダ・ファフミの素晴らしい資質によって、新しいエジプトの舞踊芸術を創り出していったのとくらべ、国立民俗舞踊団の方は、振付の技術ばかりでなく 、民話、民俗音楽、衣装その他の専門家の集団的協力によって、この民俗舞踊を一層芸術的に高め、多彩な内容にした。  
レダ民俗舞踊団の成功の秘訣のひとつとして、民俗音楽を基礎にダイナミックな踊りの曲をつくっていたこの舞踊団の座付けの作曲家、アリ・イスマイルの力が大きかった。しかし、レダ舞踊団の絶頂期にアリが亡くなってしまったことも、舞踊団のその後の発展に終止符をうつ大きな要因となった。  

1970年の大阪万博に来たレダ民族舞踊団のプリマ-で、「エジプトのイサドラダンカン」(小泉文夫)といわれたファリ-ダ・ファフミの、リズム感あふれた躍動的な踊りは、今でも筆者の脳裏に焼きついている。レダ民俗舞踊団は、大阪万博に続き、東京青山の日本青年館で7月17日に舞台を踏み、好評を博した。  

ただ難を言えば、レダ舞踊団は、レダがフランスのバレーを修得してきた関係で、舞踊がバレー化する傾向があり、一方、国立舞踊団は、結成当時に旧ソ連のモイセイエフ舞踊団から振り付けの指導を受けた関係で、ロシアン・スッテプが批判されたことがあった。  

また、ファリ-ダ・ファフミは、舞台公演での怪我その他で舞台から遠ざかり、やがてアメリカの大学(サンフランシスコ)で舞踊に関する博士論文を提出したり、後進の指導に当っていたが、1994年、主人アリ(映画に出てくる)をなくしてのち、引退してしまった。レダがここ数年の間に、教え子の公演に招かれたり、レダ民俗舞踊団に付き添ってきたり、2度3度日本を訪れている。  

その後、シャルキーヤ民俗舞踊団、タンヌ-ラ舞踊団など、もっと土地の香りや伝統的な宗教的ムードを豊かに残す、地方の民俗舞踊団が注目されるようになり、日本でも、中坪芸能社(国際交流基金)や民音からの招待をうけて公演している。  

1998年、レダ民俗舞踊団の公演が日本を巡回公演したが、このとき披露された演目の中では、わずかなメンバーのレダ舞踊団よりも、エジプトの民謡歌手と民族楽器の魅力は、十分に聞かせた音楽部門が光っていたが、とりわけ観衆を魅了したのは、イスラーム神秘派の旋回踊り、タンヌーラであった。  

●神秘的なム-ド  タンヌ-ラは、エジプトの民俗舞踊の中で、ダイナミックで華麗な舞踊である。エジプトタンヌ-ラ舞踊団の目玉の踊りは、イスラム托鉢僧・デルビッシュによる旋回舞踊で、その原形はスフィー(イスラム神秘派)の神への陶酔境にひたる旋回舞踊である。しかし、エジプトのタンヌ-ラは、旋律の豊かさと、赤、青、緑、黄の原色のスカートの激しい変化が圧倒的な感動をかもし出す。  

タンヌーラ舞踊団は、伝統的 イスラーム建築の粋を残しているグーリ宮殿を本拠 として、一年中その踊りを披露しているという。  

また、アラブ諸国に流布しいる太鼓を叩きながら、預言者モハンマドを賛える歌を 朗誦し、光惚と法悦の境地に入り、神との合一をはかるム-リッド(預言者の誕生 祭)の儀式の踊り、さらにスーフィ(神秘派)の“ジクル”という祈祷の踊りは、日 本の念仏 踊り、風流踊り、さらに日蓮宗信者のお会式の行列を想起させる。トルコ のメウレウイ教壇の僧が、先の尖った帽子をかぶって、何十回となく旋回する踊りは 世界的に有名である。  

しかし、華麗ではあるが、瞑想的哲学的な静かな踊りであって、タンヌ-ラの踊り の方が、よりリズミカル、躍動的で色彩に富んでいる。  シャルキ-ヤ民俗舞踊団の踊りは、いわゆるエジプトの地方都市に伝わる「民衆芸 能」である。その「ガワ-ジ-の踊り」や「馬の踊り」は、彼らの日常生活に密着し た芸術である。観衆に強い共感をもって迫ってくる。  

「馬の踊り」は、東北地方の馬踊りと良く似ていて、男の扮する馬を女性が手綱を とって引き回す踊り、とかく暴走しそうな男を女が御すると言った意味合いがあるの だろうか、微笑ましい。  

また、エジプト南部には、棒を使う踊りが多く、レダの主要なレパトリーに入って いるが、護身用の棒を使う踊りは、三河地方の棒の手の踊りを想起させる。

 ●本物の郷土芸能の醍醐味  

とにかく、エジプトの芸能には即興的な演奏がつきものである。「ピッピピ、ピピ ピピー」という、胡弓に似たラバーバによる「英雄アブゼイド」の弾き語りをルク ソールの船上で聞いたことがあったが、その弾き語りの演奏者は、早速私達日本人グ ループのルクソール訪問を歌に入れ込んで歓迎してくれた。これも、三河万歳や尾張 万歳を思い出させる芸能であった。  

ナイルの川面を走る涼風に吹かれながら聞いたエジプトの民俗芸能は、やはり本物 の郷土芸能の楽しさに溢れ、旅の醍醐味ここに尽きると言う思いがした。    
1989年から始まったイスマイリア国際民俗芸能フェスティバル(主催:イスマ イリア県と全国文化宮殿機構)には、毎年25カ国ぐらいの国々からの舞踊団が参 加。色彩豊かな舞踊、音楽、衣装にそれぞれのお国ぶりを紹介している。ちなみに、イスマイリアは、スエズ運河の中程の、海水浴も楽しめるすばらしいホテルが幾つもあるエジプト有数の風光明美なリゾート都市である。  

日本の郷土舞踊団もこうしたフェスティバルに参加して、エジプトはもとより各国の舞踊団との交流を深めると共に、エジプト観光を楽しまれることをお勧めしたい。


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