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【第20夜】

エジプトのレダ民俗舞踊団

 「日本・アラブ通 信」の新アラブ千一夜(第3話)に「エジプトのレダ民俗舞踊 団、 タンヌ-ラ舞踊団」として紹介したが、今回は、レダ民俗舞踊団に絞っていろいろな 角度から紹介したい。  レダ民俗舞踊団は、1959年に創設。1952年のナセル革命後のエジプトの文 芸復興のかがやかしい業績として、エジプトの国際交流にも大きな役割を果 たしてき た。  

  レダ民俗舞踊団は、ハッサンファフミ・カイロ大学教授の激励の下、振り付け師の マフムード・レダ、プリマーの踊り手ファリ-ダファフミ、優れた作曲家アリイスマ イルの3人によってスエズ動乱が一段落した1957年頃から始められた。  

  振り付け師で、男性舞踊家No.1のマフムード・レダは、ナイル渓谷や砂漠、デ ルタ地域やオアシス等に残る広汎なエジプト民俗的遺産を熱心に収集、調査、研究を 続けて、それを舞台化することに成功した。さらにレダは民俗舞踊のもとのテクニッ クの本質を損なわずに舞台芸術化し、色彩豊かな踊りの中に民衆の願い、感情を描写 した。  

  レダを助けて目覚ましい働きをしたのは、「エジプトのイサドラ・ダンカン」(小 泉文夫評)にふさわしいリズミ感溢れる踊りの名手、ファリ-ダ・ファフミ(ハッサ ン教授の娘で当時カイロ大学学生)である。優れたオリエンタルダンスを含む民俗舞 踊家として目覚ましく成長し、舞踊団の顔として、大きな足跡を残した。しかし19 80年代に手術をした後、サンフランシスコの大学で舞踊に関する論文で博士号を とっ たりした後は、もっぱら後進の指導にあたり今日ではいんたいしている。  

  3人目は、作曲家アリ・イスマイル。オリエント音楽学院を卒業。数々の映画音楽 の名曲を手掛けたことでも著名であるが、ナ-イ(縦笛)、カヌーン(琴)、タブラ (太鼓)、タンバリーンなどの巧みに使い、エジプトの民衆音楽の心を表現、世界的 に絶賛を博した。彼はl970代後半に急逝。レダ舞踊団に大きな打撃となった。  

  3人の中心的芸術家は、1956年ナセル大統領から文化勲章を贈られている。レダ民俗舞踊団の最盛期の活躍ぶりは、昨年6月に開かれたエジプト大使館主催の 「エジプト映画祭」の祭に上映された 「カルナックの恋」にも紹介されている。舞 踊専門家はもちろん、舞踊の好きな人々にとって、この映画はレダの華麗な民族舞踊 を知る必見の作品であろう。    

  なお、レダ民俗舞踊団は、1970大阪万博の招待で来日、お祭り広場で粗の華麗 な舞踊を披露したが、その機会に上京、青山の日本青年館でも上演絶賛を博した。実 はこの日本青年間での公演の準備は前年の暮れに、単独で来日したレダ氏を筆者が案 内して、都内の会場を幾つか調査した結果予約してあったもの。レダ舞踊団幹部との 最初の出合いは、 1964年カイロで開かれた国際民俗芸能フェスティバルへの日 本代表団の事務局長として筆者が参加した折のことであった。  

  このフェスチバルに参加した日本代表団は、田中薫教授を団長に、東京芸大の小 泉文夫教授を副団長、デザイナ-田中千代、正派若柳流の幹部の東広、吉三次、富二 朗、与志之助氏らの日本舞踊、中島雅楽之都、高平艟山氏らの琴、尺八、尾中千代さ んらの草月流幹部、写真家中村正也氏、アラブ文化の矢島文夫教授、それに著名なフ ァッション・モデル2名を含む総勢28名という豪華な顔触れだった。              

  小泉文夫教授はこのフェスティバル終了後も約4ヶ月エジプトの民俗 音楽の収集のために滞留し、帰国後ビクターから発行した「ナイルの歌」のレコード が「芸術祭レコード奨励賞」を受賞。そのご小泉教授の活躍は続き、シルクロ-ドの 音楽の日本紹介につながっていった。 


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