新着情報
アラブ観光情報
新アラブ千一夜
アラブ入門
イベント情報
シンポジウム情報
コンサート情報
アラブ民芸品
インフォメーション
プロフィール




【第22夜】

パレスチナ問題の本質に迫る

■序
イスラエルとパレスチナとの間で流血の衝突がつづいている。その衝突の中で、すでに150名を越す犠牲者が出ているが、その衝突はますますエスカレートしそうな雲行きである。

しかし、20世紀最大の悲劇と言われるパレスチナ問題が何故発生したのか、パレス チナ・イスラエルの紛争は、日本を遥かへだった海の彼方の「対岸の火事」だろうか。

思えば、筆者が1959年の春、カイロでひらかれたアジア・アフリカ青年会議に参加したあと志願して、エジプトの軍用機で15、6名の各国代表とともにパレスチナのガザ地区を訪れたのが、パレスチナ問題にじかに触れたはじまりであった。
また、1966年のアラブ連盟駐日代表部設立から、内部で7年勤務、外部から13年間、同代表部が閉鎖されるまで協力してパレスチナ問題と取り組くんできた。
1971、72年にはフジテレビの大型番組「中東レポート」で山口淑子さん(のちの大鷹淑子参議院議員)に同行して、パレスチナの現地取材いた。72年にはパレスチナ人の生の声を効く基本的文献として各紙の書評で絶賛された『パレスチナ問題』(PLO研究センター編、亜紀書房発行)を筆者の訳と解説で書いたも者として、この不幸な世紀の紛争を根本的に解決する真の平和の方策を探るため、このアラブ千一 夜物語で、パレスチナ問題の核心についてを数回、連続して解説したい。

 第1回 イスラエル建設の経緯ーーイギリス帝国主義の役割

イスラエルの建国は、1948年5月14日の午前9時最後のイギリス高等弁務官がパレスチナを去って、イギリスの委任統治が終結した同日の午後4時に、シオニズム指導者ベン・グリオンによって宣言された。そして電光石火のように16分後にアメリカ政府は同国を承認した。

イスラエル国家の誕生は20世紀の最大の奇跡と言われている。またこの建国が今日のパレスチナの悲劇の大きな源泉でもある以上、まずイスラエル建国への道程を辿ってみたい。

まず、イスラエルを構成するのはユダヤ人であるが、ユダヤ人と称される人々は長い 間、ヨーロッパのキリスト教社会で絶えず、蔑視され、迫害され続けて来た。中世には、「キリストを売ったユダの子孫」というレッテルを張られ、土地の所有は禁止され、頭に三角帽子をかぶされるという虐待を受け、やむなく商業や金融業につかざるをえなかった。それはヨーロッパの封建領主が、農奴の下にもっと苛酷な差別 されるみじめな”ユダヤ人”をつくり出し、農民の領主への反抗をかわそうとしたのである。徳川封建体制が同和の人々をつくり出されたのと同じである。

しかし、自由、博愛、平等のフランス革命以降、ユダヤ人の間ではそれぞれの国の国民として同化の道を辿るべきだとするのが大勢であった。即ち、ユダヤ人は民族としては、最早存在せず、ユダヤ教は精神のあり方を律する宗教としてのみ受取られ、それぞれの国の中に同化し、その国の市民として平等の権利を享受しながら、その国家に国家に貢献する道であった。アインシュタイン博士をはじめ世界的に偉大なユダヤ人は、民俗と仕手の歴史的基盤を欠いた実体のないユダヤ民族の存在を認めず、同化の道を選んだ。

これと違ったもう一つ道は、シオニズムであった。ユダヤ人への迫害は永遠に不可避であり、迫害者の論理を逆手にとってユダヤ人は一つの民族を構成するものと言う観念論の立場に立ち、その民族的利益を図る手段としてのイスラエル国家を人工的につくろうとするものであった。これは、l894年のフランスで文豪ゾラを巻き込んだドレフェス事件に衝撃を受けたテオドール・ヘルツルが翌年書いた「ユダヤ人国家」を基礎に1897年バーゼルでの「世界シオニスト会議」から次第に具体化していったものである。

そして、この世界シオニズム運動に大きな励ましとなり、今日のパレスチナ人の悲劇を生み出した出発点は、l9・7年11月2日のバルフォア宣言であった。「ある国が第2の国民に第3の国民の国土を与えることを厳粛に宣言した」(アーサー・ケストラー)この曖昧模糊たる56語からなる宣言は、イギリスの貴族バルファー外相が、ユダヤ人のエドモンド・ロスチャイルドという富豪に与えた私信に過ぎなかった。 この宣言の背景には、当時ヨーロッパに散在していた300万~400万人のユダヤ人に「民族的郷土」を与え、「イギリスの忠実なユダヤ人国家をエジプトやスエズ運 > 河の近くに設置する」(ハーバート・サムエル初代パレスチナ高等弁務官ーシオニスト)というイギリス帝国主義の目標が秘められていたのである。

しかし、一方、1915年にすでにイギリスはこの時期に、第一次大戦後パレスチナをシリアの一部として独立させることをメッカのシェリーフ(大守)フセインに約束した書簡をエジプト・スーダン高等弁務官マクマホン卿から送っていたのである。

また、宣言の前年の1916年には、イギリスはフランス政府と秘密裡に協定を結微「北部パレスチナを含むシリアの大部分に対するフランスの要求を認め、南パレスチナを国際管理下に置く」というサイクスピコ協定を秘密裡に結んでいたのである。世にいうイギリスの3枚舌外交である。

イギリスは、バルフォア宣言に明記された「ユダヤ人の民族的郷土」という目標の実現のため1922年の委任統治を担うことになり、その委任統治30年の間、パレスチナはイギリス帝国主義の庇護を受けたシオニズムの野望の下に、癌細胞に蝕まれて いくように蚕食されていった。

しかし、パレスチナに入って来たユダヤ人は、ヨーロッパ、ロシアでのポグログ(ユダヤ虐殺)やナチ・ドイツのユダヤ人撲滅から逃れた善良なユダヤ人ばかりでなく、暴力によってパレスチナを植民地化しようとした人種であったのである。

当然のことならが、こうしたシオニスト・ユダヤ人と土着のパレスチナ人との抗争は次第に激化し、1936年から39年まで続いたシオニストとイギリスに反対するパレスチナ人の大反乱には当時のイギリスの軍隊の3分の1を投入してやっと鎮圧されたほどだった。イスラエル建国に続く1948年のパレスチナ戦争に、この国土の主人公のパレスチナ・アラブ人が参加できなかったのも、すでにパレスチナ人の抵抗運動への絶滅作戦が行なわれていたためである。もしこのようなパレスチナ人の抵抗組織の解体がなければ、第一次パレスチナ戦争の結末がどうなっていたかはわからぬ と言う疑いを捨てらていないと言われている。
1946年には米英合同委員会が現地を視察し、ナチ・ドイツの迫害を逃れたユダヤ人難民10万の即時受け入れを勧告したが、イギリスのベバン外相は、現地での抵抗は必死として反対した。ベバンは「アメリカはユダヤ人を入国させたくないのでパレスチナへの移住をすすめている」と拒否した。しかし、イスラエルの反英テロとアラブの抵抗運動に直面 し、イギリスは1949年の国連第2回総会でパレスチナ委任 統治を表明した。

そして、国連でのパレスチナ分割案を強引に通過させるにあって、アメリカ・シオニストの共同戦線は、「ユダヤ人の表」と「パレスチナ」との取り引きを国際的権威でとりつくらう為に国連を盛んに利用したのである。アメリカが今日でもよく使う伝統的常套手段である。

(次回は、国連の歴史的大失態ーーパレスチナ分割案可決)


←前へ  次へ→