【第23夜】
パレスチナ問題(2)
この文章はパレスチナ人とユダヤ人が本当に平和的共存ができる路を探ることが目的にで、筆者は反ユダヤ主義者とは違います。
|
国連の大失態ーーパレスチナ分割案
日本人ばかりでなく世界の多くの人びとは、イスラエルが国連に加盟していると言
う単純な理由から、イスラエルは合法的国家だと考えている。それは果
たして正しい であろうか?しかし、日本人にとってイスラエル建国当時のいきさつを知ることがで
きなかったのが現実である以上、これも一面や無得ないと言えよう。
当時のシカゴトリビューン紙で、「国連最悪の日」と報道されているように、10
0万人をこえる住民を無視してある一国の分割を国連が勧告した1947年という年は、世界各国がまだ、あの悲惨な第2次大戦の余波から立直っていなかった時代であった。
日本では、片山内閣の時代で、食糧難がまだひどく、人々はその日その日を生き抜くことが精一杯の頃であった。「パレスチナ分割案、国連で可決」といった記事は、タブロイド2頁立の当時の朝日新聞に僅か2段見出しで報道されたに過ぎなかった。
日本人にとってパレスチナ問題の持つ意味がわからないのも当然と言えよう。
この分割案は、もともと総会の3分の2の賛成が得られず、死文化する運命にあっ
たのであるが、アメリカにおけるシオニストの圧力によりその投票は、最初48時間、
続いてまた24時間と2回も延期され、その間に小国への圧力工作が執拗に行われて
辛うじて可決されたのであった。アジアではフィリッピン1国、アフリカではリベリ
ア、南アフリカ連邦の2国がアメリカの脅迫のもとに賛成したにすぎなかった。この
分割案の強行裁決は、この頃からすでにアメリカの下請け的投票機械の域を出ていな
かった「暗い夜の時代」であったことを物語る。 当時のアメリカ国防長官、ジェームズ・フォーレスタルは「国連において他の諸国を
強制したりするために.........これまで用いられてきた方法........は、殆どスキャ
ンダルすれすれであった」と彼の有名な「フォーレスタル日記」の中で書いている。
国連総会の勧告の合法性は、民族自決の原則が尊重された場合にだけ成り立つもの
であった。
これと関連して、二つの仮説が考えられねばならない。
第一の仮説としては、勧告を行なうに先立って国連総会は国民投票の手段でパレス
チナ人の同意をとりつけることができた筈であった。しかし、この国民投票は行なわ
れなかったばかりか、さらに国際司法裁判所にこれに関連する国連の権限について助
言を与えるべきだという提案されったが、拒絶されてしまった。
国民投票を抜きにした場合においては、民族自決とパレスチナの領土保全の尊重と
は、せいぜい少数民族としてのユダヤ人共同体の権利が保証されるべきだと言う勧告
を決議することであった。分割決議によってユダヤ人国家を創り、国連はこの国家に
国際的地位を与えることをによって、一つの社会的共同体の単なる保護以上のことをやってのけた。この行為によって、国連は(民族自決という)国連憲章の重大な侵犯をしてしまっている。
(『パレスチナ問題』亜紀書房発行 37頁)
しかし、とにかく、国連のパレスチナ分割案が、シオニストの筋書き通
りに可決さ れたのは、たとえそれが法的効力を持たぬ勧告に過ぎないものであっても、シオニストにとって大勝利であった。
というのは、この分割案によって、ユダヤ人の国家に与えられたのは、パレスチナ
の55%の国土であった。それまでに1880年から1947年までかかって7%ほ
どの土地しか購入できなかったのに比べれば、この55%という数字はまさにそれ以
前の8倍の領土を一挙に獲得したことになる。
しかもこの分割案では、灌漑できる土地の83%を含む海岸地帯や高原地帯の肥沃
な土地がユダヤ人国家に与えられ、またアラブ人の工業の約40%は「ユダヤ人国家」
に割り当てられる反面、ほんの僅かなユダヤ人工業が「アラブ人国家」に残されるという、いたれりつくりの分割案であった。
しかし、シオニストにとっては国連分割案の可決もまだ紙の上での勧告案にすぎな
かった。ベン・グリオンは、国連がその勧告を引っ込められないうちに、分割案を規
制事実としてしまうために武力行動を励ました。
はたせるかな、分割案に可決に激昂したパレスチナ住民の激しい反対運動に刺激さ
れて、このパレスチナ分割案を一たん通過させるのに全力を上げたアメリカ自身が、
1948年3月20年突然国連で分割案を放棄して、パレスチナの国連信託統治の提
案をすると言う180度の方向転換をおこなった。
パレスチナ人学者のサミハダウィは、この不思議なアメリカの豹変は、国連での討議がパレスチナ問題の持つ重要性に慎重な考慮を払っていなかったこと、アメリカ国
内の政党政治の道具に供せられていたことによるによるものであるが、それはパレス
チナ人が新たな事態に気づき、その陣容の整備にあたる以前に、シオニストたちにパ
レスチナを奪取させてしまうことを意図し、けしかけたと指摘している。
一般にいわれるようにパレスチナ難民の発生は、アラブ諸国の介入によるパレスチ
ナ戦争のぼっ発によるのではなく、1948年5月15日の委任統治領終了時には、
すでにイスラエルの軍事組織によって難民の半分に近い40万人のアラブ人をその家
から追い出していたことによるのである。
さて、ここで、アメリカ政府へのシオニストの働きかけの歴史を少し振り返って
みたい。
すでに、1945年4月、ルーズベルト大統領が死んだあと、ハーリー・S・トルー
マンが大統領に就任した。シオニスト機構の指導者、ラビ・ワイズはただちにパレス
チナへの無制限の移民と同地におけるユダヤ人国家の創設というシオニストのプログ
ラムへのトルーマンの約束を取り付けた。これは、アメリカにおけるシオニストの黄金時代の開幕を告げるものとなった。
この問題についてアラブの4大使がトルーマンに面談した時、トルーマンは次のよ
うに述べている。
「みなさん、はなはだ残念ですが、私はシオニズムの成功を熱心に求めている数十万人の人々に応えねばならないのです。私の選挙区には、数十万ものアラブ人は住んでいないのです」
同年、6月に国連憲章はサンフランシスコで50ヶ国によって調印された。ユダヤ人は公式のユダヤの代表の参加許可を得ようと努めたが、失敗した。
7月、トルーマン大統領は「”ユダヤ人難民”特に帰国が不可能と見なされている
人々についての統計を彼に提供するために」パレスチナに派遣したG.ハリソン伯爵の
報告を受取った。ハリソンは、10万人の移民許可証をイギリス政府に養成したユダ
ヤ機関の希望が実現されるよう勧告した。8月31日、トルーマン大統領は、イギリ
スのアトリー首相にユダヤ機関の希望に応えるよう要請した。事実、トルーマンはこ
れを上回る要望の実現に努力するつもりであったとシオニストの指導者に語っている。
「私はあなた方からの20万人の許可証の入手を喜んで支持するつもりだったのに、
あなた方は10万人の許可証しか頼んでこなかった」
12月、アメリカ議会は殆ど満場一致の投票で、アメリカにたいし、パレスチナが
経済的に吸収能力の範囲内で無制限にユダヤ人移民に開かれるよう、また民主主義的
な共和国がパレスチナに創設されるよう、委任統治国に協力するよう呼び掛ける決議を採択した。
イギリスのベバン外相は、パレスチナへの10万人の移民にたいする10万人のユ
ダヤ人の入国に反対であると発表した。ベバンは記者会見で、アメリカは「ユダヤ人
をニューヨークの中にとどめておきたくないため」パレスチナに10万人のユダヤ人
を入国させようと強大な圧力をかけていたと言明した。この発言はアメリカ内部に少
なからぬ当惑を引き起こしたが、アメリカのユダヤ人通信員、マウリスゴルドブルー
ムが指摘したように、「ベバン氏の攻撃は、それが幾らかの不愉快な真理ーーすなわちユダヤ人のパレスチナへの移民の最も熱心な共和党の支持者たちの多くのが、同じ程度にアメリカへの移民の制限の熱心な指導者であったことを明るみに出したため、
多くの人びとの怒りを買った」という。
ユダヤ人の票欲しさのために、アメリカの指導者がイスラエルの建国に手を貸した
ことが、今日のパレスチナの悲劇を生み出している。パレスチナ問題の根本的解決の
ためには、国連加盟国全体が人権の尊厳、諸民族の自決権を訴えた国連憲章の原則に
かけることが必要ではないだろうか。長い目で見れば、パレスチナ人にもユダヤ人に
も超大国の干渉から離れ、相互に尊重しあう平和共存を図る路を選ぶことを願う。ま
たそれを支援するのが、国連加盟国全体の責任と思う。 (今回の記事は主として、1950年頃、レバノン、パレスチナでパレスチナ問題の
PR活動や文化活動をしていたアラブ婦人情報委員会から発行させた小冊子『パレスチナ問題ABC』に基づく)
←前へ 次へ→