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【第24夜】

アラビア語に2度訳された
新渡戸稲造著『武士道』


明治以後、日本が生んだ最大の国際人で、晩年国際連盟事務局次長としても活躍 した新渡戸稲造博士の名著『武士道』(原文英語) のアラビア語版が、アラブ人に深い感銘を与えていることを御存じの方は少ないと思う。

私がこのことを知ったのは、1984年12月末のNHKテレビ番組『新渡戸稲 造』の画面の中にこの本が映し出されたのを見た時であった。翌年正月、早速追跡調 査した筆者は、貴重なこの本の所有者は博士の孫にあたる東京の尾山台在住の加藤武 子さんであることを発見した。  

日本、いや恐らく世界に残る唯一の本『武士道ー日本人の心(ロ-ハ エル ヤ バ-ニ-)』(原文英文1899年発行)は、1938年 (昭和13年)、ベイル-トの日本総領事館から発行され、当時の総領事だった小長 谷綽(こがなや・ゆたか)氏が、その年に博士の娘、新渡戸琴さんに贈呈されたもの だった。

この翻訳を委嘱されたのは、現地のフランス語新聞の青年記者でアラビア語の名 文家で日本文化の紹介に熱意をもっていたモクター ル・カナン氏(29才)。フランス語からの重訳のこのアラビア語版は、日本人の倫 理、精神を知る上で最良の書としてアラブ人には深い感銘を与えたという。

歴史学者、奈良本辰也氏は、「現代語で読む『武士道』」(三笠書房)の解題の 中で 「民主主義の道徳、それは結構である。それでなくてはならないと思う。し かし、新渡戸氏が言うように、それらの根底に義に匹敵するものがあるだろうか。 日本人は、これでよいのだろうか」と戦後の日本人が大切な倫理の基本を忘れ去っていることを指摘されているが、全く同感である。

『武士道』のアラビア語翻訳者、カナン氏は序文で次のように書いている。

「『武士道』によって、日本の再興が決してヨ-ロッパ人の盲目的引写 しでなく、日本人自身の伝統的な道徳律、魂を保持してきた結果 であることを発見した。」

「欧米の書は、日本を”神秘の国”あるいは経済的側面から紹介し ているのみ、日本の工業発展の背景にある思考や道徳を解明した 名著『武士道』を訳し、アラブの読者に提供するのは自分の責務だ」

「この本は、日本人の精神や日本の統一と国民的規範となりうるための理由は 何かを提示している。したがって読者は、この本を熟 読玩味すべきである。

「『武士道を読めば、西欧の著者たちが説くように、『日本人は実利主義的、唯 物的な国民ではなく、日本人は、民族的伝統と道徳 を備えていることに気付くであろう。

「私は、この翻訳にあたって、道徳、義侠心、質朴等々イスラ-ムの 原則と武士道の原 則が余りに類似していることに驚いている。 唯一の相違は、アラブ民族は今、道徳、義侠心を忘れてしまっているが、日本人は大事に保持していることである。」 この下りになると今の日本人にはかなり耳が痛い評価である。

1984年のロスアンゼルスのオリンピックで無差別級決勝戦でエジプトの柔道の 星ラシュワン選手が、負傷した山下泰裕選手の右足を攻めなかったのは、武士道に通 じる「柔(やわら)の心」の発露だとマスコミの記事で紹介されたことがある。

ちなみに1935年、スペインから独立したフィリッピンのケナン大統領が『武 士道』をフィリピン最高の精神的バックボ-ンとしようとしたとも言われている。

日本の貿易黒字が国際的問題となってきているが、その原因の一つは日本製品の 優秀さにある。技術評論家の森谷正規氏は言っている。

『日本製商品に不良品が少なく故障がまったく稀なのは、日本の企業はそれを恥 とするためである。会社の名誉にかかわると考える。万一、欠陥商品が新聞に大きく 取りあげられることがあれば、担当部長は切腹ものである。これは、日本の社会が 『恥の文化』の上に成り立っていることに由来する。』(日本の技術力)

森谷氏は、不良品追放に威力を発揮したのはQC(品質管理)運動であると指摘 し、さらに、日本人が労働を厭わないのも武士階級 の伝統を受継いでいると述べている。

「武士の魂」といえば、博士は、随筆の中で、代議士、弁護士、税理士はその言 葉に士(さむらい)という文字を付けている以上、武士のもつ高い道徳を持つべきで はないかと述べている。  

テレビ番組の中で悪代官や悪徳商人を懲らしめる『水戸黄門』や『遠山の金さん』、 忠臣蔵の中で義に殉ずる武士の姿がわれわれ庶民の間で絶大な人気を博しているのも、 武士道へのノスタルジャという庶民の健全な精神の表れであろう。その正義感の底に は、単なる傍観者から「義を見てせざるは勇なきなり」という実践者に脱皮するエネ ルギ-が秘められていると思えてならない。

新渡戸博士は、「武士道とはどんなものかといえば、要は沢山あるが、要するに、 その根本は、恥を知る、廉恥を重んじることではない か」と言い「日本国民は、殊に名誉を重んじる」国民性を持っていることを強調して いる。そして「名こそ、我が命なれ、一たび死すれば、身体は亡くなり、魂は何処にいくかわからぬ が、独り、名のみ永く地上に残る」とシェイクスピアの作品中の科白 を引用している。
博士はまた、「日本人は今病気にかかっている。しかし、それは一時的なもので、い つか回復するであろう」とも書いている。今の日本の病状も一時的なものであること を筆者は信じている。  

最後に湾岸危機の始まる1990年のはじめに、『武士道』の原文の英語からのア ラビア語訳本が、現在オランダの大学で教鞭をとっているエジプト人のナスル・アブゼイド教授によってイラクのバグダードで発行されていることを付記したい。


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